第3話:微笑みの影わからない
「どこ……」
「ここどこですか」
ぼくらは迷っていた。入り組んだ路地の先には、ぼくらがたどりつくべき場所がある。だが、いまだ、その片鱗さえみえない。蔦の絡まった年代物の日本家屋や、高名な建築家が設計したのだろう洗練された建築が並ぶなか、ぼくらは迷っていた。
「あれじゃないですか?」
「あれだ」
ぼくらが探し求めていた場所、それは猫カフェだった。
あれから、ぼくたちは少なくない時間を猫の空き地で過ごした。だが、あまりにも猫コミュニケーションに問題があるアキにはふつうの猫は早い。教育的配慮からぼくはこの場所を選んだ。プロフェッショナル猫なら、アキのダメコミュニケーションでも何とかなるだろう。
「なんだかけなされている気がしますが……」
「気のせい。はやく入る」
受付をすませ、手を洗って奥に入ると、そこには、猫たちがいた。
三毛猫、白い猫、くるくる愛らしいカールで覆われた猫、おおきくてみるからにふかふかそうな猫、ビロードのようなつややかな毛並みのグレーのかっこいい猫。
猫の禁域にぼくたちは足を踏み入れてしまったのだ。猫たちが統治し、猫たちの恩寵が降り注ぐ猫の王国に……。
「ハル……何をわけのわからないことをぶつぶつつぶやいているんですか」
猫が来た! とはいえ、店員さんが注文を取りに来たのにつられただけだが、猫は来た。おや、という顔でぼくに目をやって、身体をひねって毛づくろいをしている。ぼくは驚かせないように目線を逸らしてリラックスしている。
「あ゛あ゛猫か゛わ゛い゛い゛」
アキはさっそくプロフェッショナル猫によりもてなされているようだ。おおきな猫、たぶんメインクーンが、座椅子に腰掛けたアキの前でごろんとお腹を見せている。もこもこの毛のなか、うっすらと桃色の地肌が見えて、かわいい。
「……」
気配を感じて振り向くと、グレーの猫がそばに座っていた。もしかしたらクレオパトラが飼っていたのかも、と思わせる、洗練されて、ほのかなすがすがしい雰囲気を周囲を漂わせる猫。ぼくはそっとその身体を撫でる。短く整えられた体毛は、見た通りの滑るような肌触りで、工芸品にふれるような感覚になる。
ぼくは猫がたいへんすき。猫は気まぐれで秘密に満ちている。よく見ると現れる銀色のヒゲは、空気のふるえを感じ取っているのだろうか。
ここにいる猫はみな引き取られた猫なのだという。むろん、理想は、猫カフェという他人がつねに出入りし、緊張感をもたらしてしまう環境ではなく、静かに家で飼うことだったり、よい飼い主が見つかるまで自由な暮らしとともに保護しておくことなのだろうと思う。猫カフェは猫によってもっともよい環境とはいえない。
ぼくはその認識に明確な答えを出せないまま、猫を撫でている。ほんとうは極力ふれることも控えるべきなのかもしれない。
「かわいい」
「ね〜かわいいですね〜」
アキは、さきほどのメインクーンにはフラれたようだ。だが、三毛猫がやってきて、撫でろと言わんばかりに寄り添っている。
ゆっくりと撫でているアキの表情は、慈愛に満ちていて、ガラス戸から差す午後の光がやわらかな照明となって、静謐な古典画のようだった。安心・満ち足りたひととき・慈しみ。キャプションにはそんなことばを散りばめたくなる。
目を転じると、遠巻きにいる別の猫は毛づくろいをしながらこちらをうかがっていた。ぼくはさきほど買った猫用のおやつをすこしあげてみようと思った。
※
アキはよく買いものに連れていってくれる。ぼくはあまりものを買わない。服に関しては、気に入ったものを複数、それを着まわしている。
アキに連れられて久しぶりにものを買うようになった。それで、困ったことに、物欲もさいきん復活してきてしまった。
「うわ……かわいい。これ買いましょう」
「そうか……でも手持ちとは合わせづらいんじゃないか」
「だいじょうぶです。前買ったシャカシャカしたやつを上に着ればいいんです」
「シャカシャカ。アキが言うんなら」
ぼくは買いものにいくたびアキの着せ替え人形になっていた。ふだんはカラススタイルで黒一色なのだが、さいきんは色がふえた。
「でも高い……」
「だいじょうぶです。わたしが買います」
だが、ひとつ困ったことがある。アキはぼくになんでもプレゼントしようとするのだ。ぼくがお金を出して買った服は最初の数着に過ぎなくて、それから、アキがぼくに買い与えている。
「そんな顔しないでください。おとなしく買わされてください」
返しきれないものを渡されたら、そんな顔にもなるだろう。ぼくは、アキの顔から目を逸らした。
「でも、買ってもらえるのもつらい」
「いいんです。わたしがハルがかわいい服を着ている姿をみたいだけですから。ガチャの課金と同じですよ」
アキに貢がれている気がする。ものをひとに買わせている状況が心苦しい。が大の買いものすきというわけではないために。
けっきょく、今回も折れてしまって、ブランドの紙袋を右手にすることになった。
「ちょっと休みましょうか」
「そうしよ……何か食べよう。奢るよ」
「え……いいですよ」
「いいから。あ! あそこのキャラメルラテなんかおいしそうだ。買ってくる」
「あ、いいですって……」
ぼくは、なんとなく気づまりな雰囲気から抜け出した。フードコートにはひとがたくさんいて、ぼくはちょっとひと疲れもしていた。頼んで行列を待っている間がこれほど助かるとは思わなかった。アキといっしょにいるといろいろと経験させられる。
ふたつのカップを手に入れ、すこし所在なさげな姿のアキに近づく。
ありがとうございます。と言って、アキは口をつける。
なんだか、緊張した猫みたいだ。
「アキ、なんでぼくにそんなによくしてくれるんだ?」
「え、だって、ハル、友達だし……」
「友達にはみんなぼくにみたいにしてる?」
「いやっ。ハルだけだよ……? ハルだけ」
追い詰められたようにアキはぼくの目を見る。必死で、ぼくはちょっとわからなくなった。
「ぼくが訊くのもおかしいが、アキ、ぼく以外に友達はいる?」
「ハルだけ、です」
「そう」
ぼくはちょっと、どこか、その答えに満足した、のかもしれない。
アキは、とてもかわいらしい。とてもきれいだ。笑った顔はくしゃりとして、愛嬌がある。その笑みにはどこか影がある。ぼくはその笑顔をかわいらしく、同時にきれいだと思う。
愛らしさがすべて小さきもの、手元において理解できる花束や凝ったチョコレートにあるのだとして、壮麗な滝や美しさや崇高が概念を超えていくものにあるなら、なぜそれらがいま、アキの困ったような顔に浮かぶ影に同時に現れえるのだろう。ぼくはアキの笑顔にかわいらしさとうつくしさを感じていた。
「ハルはかわいいんです。わたしが独占していいのかと思うぐらいに」
「独占? そんな話だった?」
「そんな話ですよ」
アキはふしぎと表情豊かなときと、能面のようにひややかな顔つきのときがある。決まってこういう話をしているとき、アキの表情はうかがえなくなる。
ぼくはいいことを思いついた。
「そう。アキの誕生日いつ?」
「え、なんですか」
「いつ?」
「来月です」
「すぐだ。プレゼントたのしみにしててよ」
ほどほどに、だけど。とぼくは笑いかけた。
アキはらしくなく縮こまって、ありがとうございます。と小さく呟いていた。
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