第22話 憑依
立川たちは無人の廃墟の中を進んでいた。
溶けたコンクリートの天井を潜って教授という職業の者が教鞭を振るっていた場所に入る。
「本当にここに資料があるのか? 若い深見?」
『違う。この先だ。LIMBOや今の仮想現実の根幹部分の開発に携わった教授の部屋がある』
深見の声に急かされて立川たちは長い廊下を進んだ。
その後ろには四人分の足跡が続いた。
湿気の多い埃が積もっている。
「ここだな」
明かりを照らしたが、中は暗く、見えない。
タンスなどで窓の部分を塞いでいるようだ。
段ボールに積まれた資料を漁っていた。
「これは?」
「どうしましたか」
立川が何かの紙の束を見つけたので、橘は明かりを照らした。
紙の束には数式の羅列やその間に文章が大量に書き込まれていた。
「NP完全問題についてだ。P=NPを証明したと書いてある。馬鹿馬鹿しい」
「量子コンピューターを使っても解けないそうですからね。教授の残したいたずらでしょうか?」
「知らん、次はそっちを探すぞ」
「これは?」
「阿藤教授の娘さんでしょうか?」
「横にいる男は深見博士…いや深見悠人に似ているな」
ーーー
まただ。また僕は病室に立っている。
「サクラさん…?」
僕は駆け寄ったが、顔のないそれが彼女だとは信じられなかった。
「深見先生ならお分かりになると思いますが、申し訳ありません。脳以外のほぼすべての臓器に重大な損傷があり、現代医学でも数時間しか持ちません」
「脳に損傷はないんだな?」
「はい?」
「脳に損傷はないのかと聞いている!」
「ありませんが、」
「今すぐ…今すぐ手術の用意をしろ」
「手術ですか? ですからさっき現代医学でも…」
「脳を取り出し、移植する手術だ」
「は?」
「アメリカではすでに行われている手法だ。日本での初実施に向けて我々は準備してきた。すでに臨床試験に移す一歩手前の段階まで来ている。脳を保存しておく装置も新しい体となるクローンを作る方法も、仮想現実を用いた患者の精神負担軽減も実用化の段階まできている。脳を、もう不要になった体からサクラを救出してくれ。どのみち、このままでは死ぬんだろう?」
「…」
あまりにも返事が遅いので僕はそいつを押し除けてサクラを乗せたベッドに近づいた。
「本気でやるおつもりですか」
脇目を振らずに廊下に出る。
「…その責任は誰が取るんですか?」
僕はその声も無視して、彼女を連れて手術室に移動させた。
手術室のドアを開くと阿藤教授の邸宅にいた。
横を見ると鏡に映る僕もだいぶ歳をとっている。
LIMBOもビッグシステムも開発した後だ。
「教授の元教え子の方ですか? すいません、阿藤さんがまた暴れ始めて」
「わかった」
介護士の方に連れられて、部屋に入ると床が紙やコップで散乱していた。
教授はベッドの上で暴れ、テーブルのものを落としていた。
「娘は死んでいない! 本当だ」
「阿藤教授」
「事故に遭ったのは顔がよく似た別人なんだ! まだ帰りを待っているんだ! 早く帰らせてくれ!」
「阿藤教授!」
僕が大声を出すと、すっかり老いてしまった教授はようやく大人しくなった。
黙って周りを見渡している。
「おつらいでしょうが、娘さんは亡くなったんです」
教授は呆然としていた。
「…すまない」
僕は教授の横に座る。僕を見ないまま教授は呟いた。
「玄関を開ければ、そこに娘が帰って来ている。そんな夢をよく見るんだ」
「教授…」
「私も意識がはっきりしなくなってきた。もう…そろそろだろう」
「そのようなことは」
「私の取り乱す様はさっき君も見ただろう。君が私の後を継いでくれ」
「いえ、私には」
「私には受け継ぐ人物がいないんだ。もう君しか残っていない。頼む」
教授に懇願されて僕は頷いた。
「それと君に私の贈り物を渡す。と言っても今は渡せない。未来の君への贈り物だ。もし何かどうしようもなくなったら。時が来たら開けてくれ」
「スキャンをお受けにはなられておいるのでしょう? 仮想現実で延命しないのですか?」
「そこにサクラはいない。サクラのもとへ行かせてくれ」
教授が消える。僕はこの邸宅の主人になっていた。
机の上で書類を眺める。タブレットよりこっちの方が好みなのは弟子として
受け継いでしまったこだわりだ。
ドアが開く音がした。
前を見ると廊下に女性が立っている。
「サクラ?」
「深見さん」
「許してくれ」
僕は謝った。今日で数千回目の謝罪をした。
「私から感覚を奪って苦しめた」
「違う。延命方法はそれしかなかった。予想された精神的苦痛も後一歩のところで、仮想現実につなげれたんだ。ほんの数時間で君は楽になるはずだった」
「何で私を地獄の苦しみの中で殺したの?」
「殺すつもりはなかった。疑似血管ケーブルが詰まってしまうなんて想定外だったんだ! 僕のせいじゃない!」
「何で眠らせてくれなかったの?」
「それは君が睡眠薬が効きにくい体質だったからだ。あの状態で、覚醒してしまうなんて想定外だった」
「違う」
「あぁ、もうやめてくれ」
「あなたは実験がしたかっただけ、上手くいけば功績も好きな女性も手に入った」
「一体何度この夢を見させたら気が済むんだ! いい加減にしろっ!」
僕は立ち上がって彼女に文句を言った。
いつもならここで夢が覚めるのに悪夢はまだ続く。
「一瞬でも論文のことが過ったでしょ。事実あなたは教授の後釜に座れた。別の人に失敗の責任を押し付けて」
「黙れ」
「残念ね、責任を取る前にあなたは不死になってしまった。もう責任は永久に取れないし、もう誰もあなたを捌けない」
「黙れっ」
「あなたはもう救われない」
「黙れぇぇえぇっっ!」
「装置の不備は僕のせいじゃないっ! 逮捕されたあいつのせいだっ! 僕は悪くない、
第一、何で君は睡眠薬が効かないんだっ! ベンゾジアゼピン系も、バルビツール酸系、試せるものは何から何まで全部っ、試したじゃないかっ! 不眠症もっ大概にしろっ! 」
「装置の異常が原因であったことを、そしてそれに気づかずに指示を出し続けてしまったことをどうして認めないの?」
僕は再び蹲った。睡眠薬は効かなかったのではない。疑似血管の中に留まっていたのだ。事故の後、原因解明のため装置を解体した。途中で流れが止まっている管を見つけてようやく彼女が死んだことを実感した。
無駄に長く生きているせいかすっかり忘れていた。
今となっては呆れるほど自分勝手な理由をつけてしまっていた。
「僕は悪くない僕は悪くない僕は悪くない」
僕は耳を塞いでそう言い続けるしかなかった。
そうじゃないと狂ってしまうからだ。
もしかしたら僕はすでに狂っているのかもしれない。
何度もこんな夢を見ている。
早く贈り物を開かなくては、僕はこの地獄を終わらせることができない。
ふと、近づいてくる影が目に入る。
影は僕の目の前に来て止まった。
サクラがすぐ側に来ている。
僕は絶対に見てはいけないと思った。
己のやったことを理解しているからだ。
それでも気になり、つい顔を上げてしまった。
「あっ」
彼女は目から涙を流していた。
ゆっくりとその顔が僕に近づく。
そして動くことができない僕の耳元で囁いた。
「…………る」
深見博士は目を開いた。
堀川社長が逮捕されたとの報告に深見博士は焦りを抱いていた。
その焦りが過去の辛い記憶を呼び覚まして悪夢を見せたのだろう。
ノックがされた。
雇って働かせている堀川社長の社員だ。本物のパダーロクを探す手伝いをさせている。
「入れ」
「どうかしましたか」
「早く要件を言え」
「それなら良いのですが…、」
「吉田と名乗る刑事が来ています。博士に捜査協力を願い出てます」
「わかった。通せ」
再び目を瞑った。
意識がシステムを経由して、仮想現実へと輸送されていく。
「彼の逮捕は想定外だったが、まだ修正できる範囲だ。いざとなれば、所有している仮想現実に逃避することもできる。まだ慌てる時間じゃない」
一人、会議室に残された深見博士は呟いた。
ここまで上手くいかないと手に入れたパダーロクは偽物だと確証が強まってしまう。
目的の機能を果たすプログラムを築くには非常に強力な数千万次元もの格子暗号を解かなくてはならない。
そのせいで現状は武器には個人データの消去性を付与するだけにとどまっている。
暗号が解除できないせいで計画の遅れが戻らないままだ。
堀川社長も逮捕され、非常に行動しにくくなっている。
羽柴大臣の乱心も大きい。
今は地下室に閉じ込めているが、いつまでそうしなくてはいけないのだろうか。
そもそもこんな仕掛けをしておいて暗号をかける目的は何だ。
ドアが開いた。
ヒョロイ男が部屋に足を踏み入れた。
この男が吉田なのだろう。
笑みを浮かべてこちらに寄って来た。
「この度はありがとうございます。いやぁ、博士もいい趣味をされていますね。何だか見覚えのある建物で、来たときは懐かしくなりましたよ」
「早く本題に入れ」
遮ると吉田は笑顔を消して話し始めた。
「では、遠慮なく。違反行為をされていますよね。危険な武器の密造などとか」
「していない。ログを調べたらわかるだろう」
「ええ、調べました。見た限りは何も違反行為はされていない」
「そうだろう」
博士は吉田に見えないように、机の引き出しを開いた。
銃がることを確認すると、死角に入るように取り出す。
「しかし、言い切れないのです。羽柴大臣が二人に増えちゃっているのですから」
博士は安全装置を外した。吉田は黙った博士を無視して話を続ける。
「もう一人の彼をどこにやったのですか?」
「想像力が高い刑事さんだ。小説家にでもなったらどうか」
「うちのマモルを舐めないでください。あなたの違反行為の証拠は必ず見つけられる」
いつ撃とうか、そう考えていた時だった。
『不法な侵入を探知しました』
アナウンスが建物中に響いた。
立ち上がり机を蹴り倒した。
「若造めっ」
「何事ですか」
吉田は机を直して聞いて来た。
「お前は隅っこに立っていろ。何もするな。ここで迎え撃つ」
ここで潰す…と呟くと椅子に座った。
足音が聞こえた。走っている。
雇った社員が数人、入り込んで来た。
うち一人がドアに鍵をかけて博士に駆け寄った。
「突破されました! ここに来ます!」
「知っている」
ドアノブが音を立てて地面に落ちた。
ゆっくりとドアが開いていく。
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