第9話 帰還
舟は朝日に照らされて大海原を進んでいた。
白色の月は小さく見慣れたサイズに戻って朝日の反対方向に名残惜しそうに留まっている。
船尾から海を眺めると舟が通った後に白い泡が残り、遠く彼方まで続いている。
海を眺める僕にサクラが近づいてきた。
髪が海面と同様に陽の光のオレンジを反射させて、風に揺らいでいる。
「もうすぐゲームのゴール付近です。私たちのゴールはもうちょっと先になりますが」
「もしかしてあの島?」
「ええ、あの島にシステムに直接介入できる場所があります」
果てしなく広がる海に一点浮かんでいた。
この旅がもうすぐ終わる。
そのためにここまで来たのに綺麗な世界から抜け出す勇気が未だに湧いていない。
島につけば僕はくだらない雑多な世界に戻らされるだろう。
「安全になったらまた戻ればよろしいじゃないですか」
憂鬱そうな表情をしていたのだろう。心中を察してもサクラは僕をこの世界から出したいようだ。
「もうちょっとこの世界にいたかった」
「もう十分知れたではないですか。空が青いことを知るために旅を続ける必要はありません」
「僕は知りたいからここに来たんじゃない。元はと言えば、僕は手術への精神的苦痛を紛らわすためにここに来たんだ。手術まであと一ヶ月もある。その間を僕はどうすればいいんだ」
「いえ、おそらく目覚めたらすぐに手術だと思いますよ」
「何だって?」
「量子コンピューターを使っていると言っても、あれは台数に限りがあるので、仮想現実を描くのに全力を使っているわけではないのです。使えない間は普通のスーパーコンピューターを使っていたりします。あれは並列処理ができませんのでどうしても現実の世界とはタイムラグが生まれてしまいます」
「僕は確か睡眠薬が効かない体質だったと思うけど」
「確かに深見さんはめづらしい体質ですが、外部から眠らせることができないだけですから。睡眠を司る部分に障害があるわけではないので寝るときは寝てますよ。時間感覚を司る部分に刺激を与えて体感時間を制御して齟齬が生じないようにしているのです」
「なるほど、それでずっと起きていたのか」
眠る必要がないのではなく、寝ていることに気づかなかったのだ。
振り返ると、島は目の前に迫っていた。
舟はゆっくりと誰もいない港に近づき、木製の胴を桟橋にくっつけた。
縄で編んだ梯子を下ろして降りる。
足をかける度にロープは現実と変わりがないくらい揺れたり回転しようとしたりした。
こんな部分くらい拘らずに計算の量を減らせば、僕は苦労せずに降りることができただろう。
現実へ目覚めなければ文句を言っていたかもしれないが、今は無駄な計算量に感謝した。
「あの塔が見えますか? あの根元へ向かいます」
下で待っていた彼女が僕に言った。
指を刺した方向には白い荘厳な塔があった。
「あそこに?」
彼女はうなづき僕の手を引っ張って歩き出した。
ーーー
照りつける日差しが広大な砂の海を空とのコントラストを明確にしていた。
砂の上には三人分の足跡が地平線の向こうにわずかに見える木々へ続いている。
その足跡の更新先では男たちが足を埋めながら砂丘を登っていた。
先頭を歩く男が頂上についたとき、その後ろをを歩く男が声をあげた。
「待ってくれ、リーダー。システムに変化があった」
「何だ? ログアウト不可は解除されたのか?」
先頭を歩く男は立ち止め、振り返って聞いた。
「いや、ただデータを更新したみたいだ」
「誰が更新したんだ。深見か?」
「待ってくださいよー、早すぎますよー」
質問を緊張感のかけらもない声が遮った。
「あ、待ってる。ありがとうございますー今行きます−」
砂丘を見下ろすと、若い奴が砂に足を取られながらもこちらに近づこうと走っていた。
随分と後ろを歩いていたようで声が遠く反響している。
乾いた風が吹いて、砂が降りかかった。
二人は眉を潜め、自分の体を叩いて払う。
「別の人物だ」
それを聞いた男は再び眉を潜めて、目を閉じた。
「え? 別の人物ですか?」
後ろを歩いていた若い男はいつの間にか追いついたようで聞いてきた。
「ああ、別の人物というか一昔前のAIみたいな挙動でよくわからない。まるでシステムそのものが選択したみたいなログになっている。どっちにせよ厄介かもしれない」
「…」
リーダー格の男は相変わらず黙っている。
中年の男が質問した。
「どうしますか?」
「このまま進む。それしかない」
目を開きそう言うと前を見た。
遠くない位置にピラミッドがそびえ立っていた。
ーーー
塔は見掛け倒しで内部にはなにもなかった。
上へ登る階段すらない。
唯一日光を取り入れる窓が白色の壁と石畳だけの内部を飾っていた。
「床に隠し通路があるんです」
彼女はそう言って床に敷き詰められた石畳の一つを持ち上げて脇に置いた。
地下へ続く階段があった。
暗くなっていく階段を何十メートルも降りると巨大な空間に出た。
青色の円柱が暗闇に浮いていた。
青い画面がいくつも折り重なり、巨大な柱を形成して天井を支えている。
その内の一つにサクラは近づき、操作をし始めた。
「緊急プロトコル365を解除します」
彼女はホッとした様子だが、何も変化は起きていない。
「解除できたの?」
「うーん、完全に戻ったというわけではないのですが、ログアウトできなくもないです」
そう言って後ろを指差した。
コールドスリープ装置のようなベッドがある。
「あれに眠れと?」
「はい。一旦、眠っていただく必要があるのですが、こちらで操作しますので」
僕は背中を押されて装置に入った。
ガラスの蓋がされる。
その様子を見たサクラは青い画面の操作をし出した。
「すぐ会えるよね」
「…ええ。また会う日を祈っています」
サクラはそう言ってふと、なにかに気づいたように顔をあげた。
後ろを振り返ると、確信に変わったのか叫んだ。
「誰か来ています! 」
柱ではじける音がした。青色の光が警告を発する。
「何が!?」
「行ってください!」
彼女がそういうと目の奥で幾千もの光の筋が降り注いだ。
また何かが弾ける音がしたが、僕は何か言う暇もなく意識を向こう側へと送られた。
暗闇だ。
手術は未だ行っていなのだろうか。
「おはようございます、深見さん」
野木医師の声がした。
『すでに脳移植手術は終わりましたよ、眠る時間を見計らって、手術を開始して、睡眠時間に終わらせました』
僕は感謝の意を伝えようとした。
が、縫われたように口が開かず、舌が動かない。
金縛りにあったように体全体が言うことを聞かない。
精一杯言葉を出そうとしたが、口をモゴモゴと動かすだけに終わった。
何だか重苦しい不安が湧いてくる。
「いえ、神経がまだ上手く繋がってないので喋れなくても大丈夫ですよ。これからリハビリしましょう」
見かねた野田医師が僕に話しかけた。
湧き上がってくる不安は消えることなく僕を奥底へと引っ張ろうとする。
どうにかこの陰鬱な不安を消すためにも僕は言葉を出そうと努力し続けた。
「ぁり…がとぅ、ご…ざぃ…ます」
数分経っただろうか。ようやく僕は感謝の気持ちを伝えた。
でも、何かがおかしい。消えると思っていた不安は消えずに揺すられただけだ。
「お、もう動かせるのであれば、リハビリも早く終わるかもしれません。よく頑張りましたね」
僕を褒めてくる野田医師は異常に気付いていない。
僕だけがこの不安を感じていた。
何かとんでもないことが起きているような気がする。
もう取り返しのつかないようなことが。
僕は急いで目蓋をこじ開ける努力を開始した。
重い目蓋をこじ開けて僕はようやく光を得た。
視界がぼやけている。
筋肉がうまく動かせないのだろうか
少しずつピントが調節されていく。
何重にも重なった景色が一つに戻ると何を見ているのかわかった。
僕は天井から病室を見下ろしていた。
そこにはベッドの側で椅子に座る野木医師とベッドに横たわっている誰かを発見した。
僕は目を疑った。
それは僕だった。
脳の移植手術を終えたようで、頭皮には切開の後、皮膚を縫った跡がある。
医師が近づくと、ベッドの上の僕が目を開いた。
「では、明日からリハビリを開始しましょう」
「…ゎかり…ぁした…」
そいつが喋った。
僕は何も喋っていない。
理解できない。
何で誰も僕を見ずにベッドに横たわるそいつを見ているんだ。
医師が去った後には僕ともう一人の僕が残された。
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