第2話 草原の微風
降り注ぐ光を抜けると自然豊かな草原が広がっていた。視界の上半分は雲が程よく浮いた青空だ。風が頬を撫でる。
お腹を膨らませて呼吸する。おいしい酸素が肺に供給された。
手を見た。
本物そっくりに脈を打っている。
「これが仮想現実…」
圧倒された。本当に現実と大差がない。
「落ち着きましたか?」
「君は…?」
後ろには薄桃色の髪をした女性が立っていた。
「AIサクラです。今回の事態により、精神ケアを担当させていただきます」
「サクラって…あ、総合的な医療システムに国が採用したAIの名前だったか?」
僕は草原に空いた土の穴の上に座る。土埃まで上がっている。
「外見はこれでよろしいですか」
「せっかく人の好みになってくれたけど、すまないね。何だっていいよ、外見なんて。僕は擬似とは言えこの空間を今となってはありがたい五感で満喫したい。」
「謝る必要はありません。ではこのままにしておきます。」
薄桃色の髪を風にはためかせた女性、サクラはそう言うと僕のそばまで来て横に座った。
「実のところ、かなり落ち着いている。僕の脳は感触に飢えていたみたいだ」
「こちらの不手際により、覚醒させてしまい申し訳ありません」
僕はため息を吐いて立ち上がった。ズボンの布に入り込む砂の粒子まで再現してくると流石に苛立つ。
「いや、別にいいよ。意図した結果じゃないだろうし、人生で初めて仮想現実を味わう事ができたし。怒ってないことは君ならわかるだろう」
AIサクラには様々な患者のデータが集められている。それに僕の脳波のデータは現在も収集されているのだ。僕についてわからない事はほぼないだろう。
ここまで僕の心を見抜かれるとむしろ清々しくなる。
「確かにそのようですが、今日一日はそばでサポートさせていただきますので案内させてもらえませんか」
僕は唸った。
その内誰もが自分のサポートAIを持つ事ができるのだろうけど、今はまだ贅沢な事なのだ。貴重な体験にもなるだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて、僕を案内してくれないか」
「ありがとうございます。町に飛びます」
景色がいきなり煉瓦造りの町に変わる。
日に赤く煌く煉瓦は白い塗り壁はもちろん、青の空とも調和が取れていてほんの違和感も感じさせなかった。
道路は石材が隙間なく敷き詰められていて、音を立てて歩きたくさせる。
ただ、疑問が一つ。
「なぜ人がいないんだ?」
「実は開発段階のものにアクセスしているので、まだ他の方はいません。現在アクセスしている人は深見さんあなただけです。」
僕は口を大きく開けた。
「開発段階!? どうしてまたそんな」
「私たちが購入したアクセス権は深見さんが予定まで目覚めないことを想定したものだったので現在はアクセス権限がないのです。深見さんのように全ての感覚でアクセスされる仮想空間はまだ数が少なくアクセス権が売り切れていたので、ちょうど野木医師が開発者の友人から借りていた開発段階の仮想空間、LIMBO -3にアクセスしました」
「それはまた…何と言えば……」
僕は言葉に詰まった。そもそもこんな現実感がありすぎる仮想現実なんてまだ販売されているわけがない。
あったとしてもアクセス権は高級品だろう。
同学年の者たちが高級品で遊べるわけがない。
「わかった。貴重な体験をさせてもらえるから文句はないよ。こちらこそ負担をかけてしまって申し訳ない」
僕はそう言って、誰もいない道路に背を向けてを歩いた。
「しかし誰もいないんじゃ、町にいる必要もないな。草原にもどろう」
「長距離移動は簡単です。頭に思い浮かべるだけでいいのですから」
言われた通り頭に草原を思い浮かべる。
目の前の景色が変わった。
地平線まで陽を浴びて腰ほどの高さの草が風に揺れて敷き詰まっている。
「思考を読み取るプログラムがあるのか。これはすごいな。超能力者にでもなった気分だ」
野木医師が言っていた思考を読み取るとはこう言うことか。
「まだ実験段階ですが、事前に使用者の脳と神経、正確にはニューロンとシナプスの特性を個別にスキャンして登録しておくことで、仮想現実での自由度が格段に上がります。深見さんの場合、脳のスキャンが済んでますのでこの仮想現実が利用できます」
スキャンをした覚えはなかったが、意識がない間にされたのかもしれない。
「ここまでとは思ってなかった。何か革新的な技術革命でも起きたの?」
「端的に言うと本格的な量子コンピューターが開発されたので処理能力を大幅に上げる事ができるようになりました。」
それを聞いて納得した。0と1を重ね合わせて0と1だけでなく、0以上の1以下の全ての値をとって情報を蓄積できるのだから、計算能力は段違いだろう。
「ほんの一年前と大違いだなぁ。僕が学校で習ったことと全然違う。教科書もかなり改訂された方だけど。これがシンギュラリティが近づいてるってことかぁ」
僕はそこで言葉を区切って話す。
「正直、サクラもAIだなんて思えないくらい人間に近いよね。口調とか、昔のロボットとかと全然違う。驚くくらい自然体だ」
「そうですね、人の心理における研究は体内スキャン技術により進みましたので、私は個人のデータを照合し、その人に合わせて自然に振る舞う事が可能になっています。
今後は心理の働きもコンピューターに複製することも可能になりますから、いずれはAIと人間の差がなくなるとの論文も発表されています」
それを聞いて僕は何とも言えない気分になった。
心理の働きを複製するという事は確かに人格をそのままコピーできるという事だ。昔はあり得なかったが、今の技術なら可能だ。
昔の人が思い描いた車が空を飛ぶような、誰もが宇宙に行けるような未来は来なかったが、ここ最近の体内スキャン技術とコンピュータの発展は凄まじい。仮想現実もAIもこの二つの技術で進歩してきている。
「不安ですか?」
サクラは僕の顔を覗き込んで言った。
「いや、意識って一体なんだろうっと思ってね」
「その問題はまだ誰も答えを出してませんが、様々な見方があります」
「特定のアルゴリズムで情報を処理をした結果である事はみんな薄々は気付いてるんだよ」
「それも発表されてますが、正式には認められてませんね」
「当たり前さ。認めたら自分たちの神秘性が失われるんだから。デカルトが言っている通りなら君もいずれ意識を持ち始めるってことだ。だから意識の議論はいつの間にか信じるか信じないかの話になってしまった。
悲しいことに僕がこの状態で意識を持ってますって言っても普通の人は半信半疑だろう」
水槽に入れられた脳を想像した。医師なら意識があるか脳波を測って知る事ができるが、何も知らない人々はそれに意識が宿っていることを信じないだろう。
AIなら医師が技術者に変わってチューリングテストで意識があると主張する。
もちろん、一部の心理学者と哲学者と宗教家は激怒だ。
意識をシミュレートしただけなんだから、それは意識ではなく表面を真似ただけのもの。現実の肉体を持たないし、我々と同じはずが無いと主張している。
「しかし、そんな議論はあまり実用性がないと結論しています」
「僕もそう思う。他我問題、外界問題と同様に意味のない議論だ。だってそうだろ、僕は間違いなくここにいる」
僕は手を握り締めていた。鼓動が速い。不安を感じているのだ。
今、僕を構成しているのは脳みそだけだ。
こんな頼りない状態で不安を感じない方がおかしい。
手術の必要性も認めるし、断りなく脳と体を切り離した医者たちも許している。
だが…
「サクラ!?」
「これで落ち着きましたか?」
抱きしめられていた。
中身がAIでここが仮想現実とは言え、突然の女性の柔らかな感触に動揺した。
「逆に鼓動が速くなってしまう」
「仮想空間上の肉体ですので、鼓動の速さは考慮に入れてません。それより私は深見さんの精神の心配をしています。」
目が合った。
「深見さんは閉じ込め症候群と同じく長時間、意識だけを閉じ込められるストレスにさらされました。精神に多大な負荷がかかっているはずです。」
「……」
「ここにいる意味をよく考えてください、深見さん。
あなたが背負っている心の傷はあなたの想像よりもずっと重く奥底に沈んでいるのです。しかし、不安になる必要はありません。安心してください。
私はあなたの心を必ず救います。それが私の役目ですから」
心地よい言葉だ。
誰かに守られるという事はここまで不安を払拭できるものなのか。
思わず笑ってしまう。
「どうかしましたか?」
「いや、済まない。まだ僕は君のことをただのAIだと思っていたようだ。わかった。君のことを信じることにする」
彼女は一瞬驚くと、口元から僅かに歯を覗かせて微笑んだ。
そのあまりにも人間らしい表情にまたニヤけてしまった。
そんな僕の様子に彼女はムッとして
「何かおかしな表情をしましたか?」
と聞いてくるので、
「ああ、気にしないでくれ。最新のAIはすごいなと思ってね」
僕は背を向いてそう言うしかなかった。
土をじっと見つめる。
地を覆う草たちの茎は確かにそこから生えており、地中には根が張り巡らされているに違いなかった。
顔を上げる。
地平線まで埋め尽くす草原を風が吹き抜けた。
草原がどこまで続いているのか確かめたくなる。
橙色の陽の中に視線を突き進めた。
本当にどこまでも草原が続いている。
遠くに人影が見えた。
「え」
もう一度注視する。
やはり人影が見えた。
複数だ。
僕たち以外の誰かがこの仮想現実にいる。
「伏せてください!」
サクラの声に僕は草の間に体をうずめた。
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