03



イルムヒルト様と初めて出会った日を今でも鮮明に思い出せる。

あれは私のデビュタントの日だった。とても緊張していて、精一杯に着飾ったドレスに勇気を貰ってパーティー会場にいた。

ウェルカムドリンクを給仕から受け取り、どこか落ち着けるところはないかと視線を彷徨さまよわせていると、トン、と背中に軽い衝撃が襲った。

近くにいた男性のひじが少し触れたと理解する間もなく、私はバランスを崩し、前方につんのめる。デビュタントの日だからと、普段より高いヒールで来たことを後悔した。

上体を崩したことで、手にしていたグラスも傾き中身が前方に零れた。その液体が他人のドレスのスカートにかかる様がスローモーションで私の眼に映る。

スカートが濡れた瞬間、時が動いたようにも、静止したようにも感じた。いずれにせよ、私は一時停止していたが。

どれぐらい固まっていたか定かではないが、恐る恐るスカートを濡らした相手を確認するため、視線をゆっくり上に移動させた。

すると、満月と眼が合った。

それが、金色の瞳だと気付くのに数秒かかった。白銀のさらりと真っ直ぐな髪も月光のようで、月の化身かと思った。

さらに数秒を要して、月の女神のような彼女が人間だと気付き、自分のしでかしたことを理解して、青ざめる。


「も……っ、申し訳ありません!」


慌てて私は謝った。

上質な生地のドレスだ。明らかに私より上位の貴族令嬢に、弁明しようもない失態をしてしまった。弁償できるだろうか。父親に叱られるかもしれない。

今後の悪い未来しか浮かばない中、少しでも染みを防ごうと、自分のハンカチを取り出しスカートに近付けると、その手を私より指の細い手が阻んだ。


「そんな綺麗な刺繍を汚す訳にはまいりませんわ」


ただの趣味で刺繍をしたハンカチに、丁寧な扱いを受け、私はぼっと頬が熱くなるのを感じた。


「で、でも……っ」


こんな綺麗な人に自分の刺繍を褒めてもらえたのは嬉しいが、他に拭うものを持っていない私は困る。

少しでもお詫びがしたいが手持ちが何もない。弱りきった私は、手にしていたハンカチを差し出した。


「お詫びにもならないかもしれませんが、よ、よかったら……!」


頭を下げてハンカチを差し出してから、お世辞だった可能性に思い至る。もしくは、彼女にとっては安物のハンカチで拭かれるのが嫌だったのかもしれない。

失態に失態を重ねた可能性に気付き、下げた頭が上げられなくなった。

だが、ふっと手に持っていた布の感触が消えた。

驚いて顔を上げると、花の刺繍がある箇所を見つめてから、彼女がハンカチを手にしたままこちらに微笑んだ。


「ありがとう」


内気故に家でひたすら趣味の刺繍をしていたのが報われた瞬間だった。


「けれど、貴女が謝る必要はありませんわ」


美しい微笑みに見惚れ、私が返答しあぐねていると、彼女は私の向こうに視線を移した。


「そこの貴方」


私の背後で歓談していた男性らが、彼女の凛とした声に反応して振り返る。


「これはこれは、ヴォーヴェライト公爵のご息女、イルムヒルト様ではありませんか。お声がけいただき、光栄です」


男性の言葉で、私は初めて彼女の名前を知る。イルムヒルト様、と胸中で復唱して、忘れないようその名を胸に刻んだ。


「貴方は、騎士団に所属されているシンジェロルツ侯爵家の方ですわね」


「はい。未来の国母にお見知りおきいただけ嬉しいです」


にこやかに肯定する男性に、微笑みながらもイルムヒルト様は冴えた月のような眼差しを向ける。


「騎士は民を守る立場だと思いますが」


「勿論です! か弱き国民を守るため、日々鍛錬に励んでおります」


自慢げに胸を張る男性を見て、イルムヒルト様は笑みを深くした。


「では、か弱き者を守り支えるべきその腕で、彼女に当たったことに謝罪もないのはどういうことかしら?」


言うと同時に、男性の視界に入るよう、私はイルムヒルト様に肩を抱き寄せられた。やっと私を視界に入れた男性は、私の持つグラスが減っているのと、イルムヒルト様のスカートに染みができていることを確認し、状況を察して蒼白になった。

私は、そんな場合ではないと解っていながら、イルムヒルト様からほのかに香る爽やかな香水の香りにどぎまぎしていた。


「こっ、これは、大変失礼いたしました!!」


「謝罪すべき相手は、わたくしではありません。ぶつかったことにも気付かなかったようですし、身体を鍛えられると随分と鈍感になられるようですわね」


「申し訳ありません、レディ! お怪我はありませんか!?」


「あ……、はい。少しバランスを崩しただけですので」


イルムヒルト様の手厳しい言葉に怯えつつ、一回り以上体格の大きな男性に謝罪され、私は眼を丸くする。彼と歓談していた他の男性陣も、顔色悪く状況を見守っていた。これは、私が許さないかぎり、彼らは生きた心地がしないことだろう。


「本当に、もうお気になさらないでください。慣れない靴を履いてきた私も悪かったのです」


更に謝罪を重ねようとする男性にそう言うと、救世主が降臨したかのように彼らに拝まれた。そのやり取りを見ていたイルムヒルト様は、仕方なさそうに嘆息する。


「貴女がそれでいいなら、私もこれ以上は不問にいたします。なので、弁償も不要ですわ」


イルムヒルト様の言葉が合図のように、彼らはへこへこと頭を下げつつ去っていった。早く針のむしろのような状況から脱したかったのだろう。

自然と、私とイルムヒルト様がその場に残される。

とにもかくにもお礼を言わなければ、と私は頭を下げた。


「イルムヒルト様、ありがとうございました……っ」


「構わないわ。私がああいう手合いを見過ごせないだけだもの。それよりも、貴女、名前は?」


「し、失礼いたしました。ブリギッテ・フォン・ノイエンドルフと申します」


名乗っていなかったことを指摘され、私は慌ててカーテシーをし名乗る。


「そう、ブリギッテね。ブリギッテ、素敵なハンカチをありがとう」


人差し指で軽く花の刺繍部分をなぞり、イルムヒルト様は微笑んだ。そして、またね、と一言残して颯爽と去っていった。

私はその場に縫い付けられたように棒立ちになり、付き添いできた父親が声をかけてくるまで動けずにいた。

後になって、イルムヒルト様が私と同じ歳と知って、とても驚いたものだ。

それからは、イルムヒルト様を一目見たくて極力パーティーに参加していたら、父親たちに内気だった自分とは思えないと驚かれたっけ。

彼女が、取り巻きの一人と化した自分の名前を覚えていてくれていたときは感激した。そのお陰で、取り巻きの中でも友人の枠に納まれたのだ。


「にやけながら刺繍するなんて、器用だな」


「ヘンリック」


出会いからこれまでの幸福な日々を反芻していたら、唐突な声が割って入り、思考が途切れた。無遠慮な乱入者が誰かと振り向けば、幼馴染みが温室の入り口にいた。


「どうせ、それも公爵令嬢サマのなんだろ」


「そうよ、お誕生日に贈ろうと思って」


呆れたようにほぼ断定的に問われ、当然だと返す。ヘンリックは敢えて椅子の背を前にして、対面に座った。椅子の背に肘を置き、その上に顎を乗せた。


「レディの前ではしたないわよ」


「レディがにやけ顔になるか?」


むっとなったが、言い返せず無作法を不問にするしかなかった。そんなにだらしなくにやけていたのだろうか。

ともかく、イルムヒルト様の誕生日まで日がないので刺繍に戻る。やり始めると自然と集中して、目の前にいる幼馴染みも気にならなくなった。

一針一針、想いを込めて丁寧に縫ってゆく。デザインを考えるのも楽しいが、私はこの作業が一番好きだ。

幼い頃は自室で黙々と刺繍に励んでいた。だが、昔のヘンリックはとても活発な少年で、私を強引に庭の探検などに付き合わせた。彼と妥協案を協議して、半分外の温室で刺繍をすることになり、今ではそれが定着している。

結果として、集中しだすと時間を忘れる私は、落日に合わせて作業を止めれるようになり、ちょうどよかった。

しかし、協議に至る前、連れ回されて我慢の限界にきて怒った私を、ヘンリックが嬉しそうに笑ったことだけは未だに謎だ。あれは彼に対して、内弁慶になるきっかけだった。笑われて、彼に意見を控えることが馬鹿らしくなったのだ。


「……なぁ」


「何?」


作業する手元に視線を落としたまま返事をする。


「お前、ヴィクトール殿下、どう思う?」


「はぁ?」


ヘンリックの中で、どういう経緯でそんなことを訊くに至ったのか、思いがけないことを訊かれた。だが、彼は私の反応こそが奇怪おかしいように、眼を丸くする。


「女なら、殿下みたいな男に憧れるんじゃないのか?」


「……私は、冗談でも訊かれたくないわ」


イルムヒルト様を見ていれば、殿下は自然と視界に入る。だから、極力意識から外すようにしているし、話題も避けていた。私にヴィクトール殿下の名が禁句だとは誰も知らない。


「そっか」


半眼になる私に対して、悪かったと謝罪するヘンリックの表情は嬉しげだ。謝罪には不釣り合いなそれを、私は不可解なもの、ということにした。


「ヘンリックこそ、私の話を聞き流すじゃない。イルムヒルト様を前にしても同じでいられるの?」


彼にする話はほとんどイルムヒルト様の話題だ。私がどれだけ彼女が素敵だったかを語っても、ヘンリックは呆れた眼差しを向けるだけ。だが、通り過ぎる男性らが尽く振り返る美貌を持つイルムヒルト様本人を前にしたら、流石に彼も見惚れるはずだ。


「そりゃ、美人だとは思うけど、俺は……」


「でしょう! あの月の女神のような方ですもの、誰だって見惚れるわよねっ。この間のパーティーのお召し物もーー」


私は、ヘンリックが言いかけていたのを遮って、食いぎみにイルムヒルト様自慢を始める。私が悦に入って話し始めると、彼が仕方なしに聞き役に回ると知っていた。だからだ。

ヘンリックの言葉の先を聞いてはならない、と胸中が警鐘を鳴らす。

気付き始めていることに、私は強引に蓋をした。



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