愛しき最後の日

夏永遊楽

消えた金魚の子

 りんご飴の少女を探している。


 小さな両手に、大人の拳くらいあるりんご飴を1つ、握りしめた女の子だ。

 私と二人で、この夏祭りを回っていたのに、忽然と消えてしまった。


 まったく何処へ行ったのやら、明々と賑わう通りを何度戻っても、彼女の金魚が泳ぐ浴衣は見つからない。



 *

 もう一度、よく思い出してみよう。

 夕焼けのころ、手をつないで祭り会場へ入った。


 しっとりと汗ばむ彼女の額をぬぐってやり、きんきんに冷えたラムネを買って飲ませた。彼女は氷水から水色の瓶を選び取り、うれしげにカラカラいわせるのだった。


 彼女が残したラムネを煽っていると、つんつんと手を引っ張られ、彼女はヨーヨー釣りをおねだりする。

 ふにふに柔らかな手のひらに100円玉を2枚握らせ、それが屋台の強面おやじに手渡されるのを、感慨深く眺めた。

 上手にできたねと、温かな頭をなでた。


 お腹がすいたと言って、本坪鈴ほんつぼすずを鳴らすように腕を揺らしてくるので、焼きそば屋の列に並んだ。

 ただ立ち尽くす間、焼け焦げたソースの香ばしい匂いをゆったりと吸い込む。

 ようやく落ち着いて祭りの気分を味わえた。


 列はなかなか動きそうにないので、しゃがみ込んで彼女の顔に浮かぶ汗を、ハンカチで吸い取ってやった。

 おとなしく目を閉じてじっと待つ彼女の、赤い頬にかかるまつげは、私のそれより幾分色が薄い。

 もういいよ、と声をかけると、提灯の明かりに透ける瞳が、笑いかけた。


 適当な場所に座って不健康な晩飯を、二人して啜った。

 ここでも彼女の食べ残しを食らっている間、暇を持て余した彼女はさっき獲った紫のヨーヨーを振り回して遊んでいた。私が焼きそばを食べ終わって立ち上がるころには、飽きてしまってその水風船を持たされた。

 控えめに波打つ水の冷たさに癒され、彼女の首にも当ててやった。


 気持ちよかったのだろう、今度はかき氷が食べたいと言い出した。

 しかし、もう今日は冷たいラムネを飲ませていたので、お腹をこわすから我慢しなさいとたしなめた。彼女は不満げに足踏みして抗議したが、私が引かないのを悟ると「じゃありんご飴たべたい」と要求する。

 りんご飴を食べたがるのは初めてだった。

 私ははいはい、と手を引き、りんご飴の屋台を探した。


 りんご飴には大小2種類の大きさがあり、小さいのが2つで丁度良さそうではあった。

 どっちにするんだと訊くと、彼女は案の定大きいほうを指さして私の顔色を窺った。

 食べられるもんと必死に弁明する彼女が可愛くて、大玉のりんご飴を1つだけ買った。

 りんごに刺さる割り箸を握ると、ずっしりと重たい。しかし彼女は自分で持つと言って聞かないので、ちゃんと両手で持つように言い聞かせた。そうなると手を繋げないので、彼女を抱き上げる。


 妖しく艶めく赤い飴に、すっかり魅了されたようだった。彼女はそれをしげしげと眺め、なかなか食べようとしない。


 気づけば空は暗くなり、人混みもかさを増していた。もう大分歩かせたし、そろそろ帰ったほうがいいだろう。


 帰りの道すがら、かき氷屋の前を通りかかった。彼女は私の肩越しに、屋台を見つめているのがわかった。

 まあ、今日くらいいいかと―――一杯を分ければ、いいかと―――思い直し、引き返す。彼女は、満面の笑みを見せた。


 かき氷の屋台の前で、彼女を下ろす。

 彼女は、りんご飴を握りしめ、白い削り氷が降り積もってゆくのを観察していたが、やがて興味を手元の飴に戻した。


 真っ青なかき氷を受け取ったところで、級友に声をかけられた。数人で集まり、これから花火を見るという。私も誘われたが、妹を連れて帰るところなのだと断った。

 すると彼らは、私の背後を覗いて言った。


「え?ひとりじゃなかったのか」




 *

 祭りの情景は不気味だ。


 おぼろげに照る提灯が連なり、あの子を何処かへ誘った。

 赤々とたゆたう空気が、私をあの子の元へと誘う。


 気は確かに保っておれず、向かってくる人々のひとりも避けられない。

 花火、放送、人の声、ありとあらゆる雑多な音が混じり混じって、大きな不協和音がざりざりと鼓膜を削る。

 雑音に混じるあの子の声が私を呼ぶ。

 美しく生きていた、あの子が私を呼んでいる。


 この場所は、不気味で、恐ろしくて、そしてどうしようもなく美しい。


 走っているはずなのに、足の感覚はなく、ゆっくりゆっくり視界は移ろう。

 ラムネを売っていた店。何やら黒い玉の沈む飲み物を並べている。

 ヨーヨー屋の店主は若返り、顔が変わっていた。

 焼きそばの屋台は人がまばらで、隣の揚げたフランクフルトのような食べ物に客が集まっている。

 りんご飴の店はみかんやらブドウやらの飴を売り、りんごは端に慎ましく並ぶだけ。


 かき氷の店は……ここだけは、何も変わっていなかった。

 あの日と同じ店主、あの日と同じ、真っ青なかき氷。


 じっとりと汗をかき、上着が背に張り付くのに、全身の血液は落ち込んで、凍えるほど寒い。

 通りの真ん中で立ちすくむ私の左手からは、人工的に青い涙が滴っている。

 青い氷山はもはや形を成さず、動くたびに零れてきて、私の左手を濡らしていたのだった。

 けたたましい花火が光を降らせるたび、べたべたの左手が色を変えた。


 私の来た道は血痕のような水痕を描き、私は黒い瞳を揺らして固い石畳を見つめる。



 ひとつ瞬きすると、黄色いものがふわりと視界をかすめた。



 祭りの夜には不思議なことがおこる。


 赤々と妖しい空気のなか、見えた気がしたのだ。


 揺れて金魚の尾ひれのような、黄の兵児帯。



「見つけちゃったね、お兄ちゃん」



 彼女は私の隣に立っていた。私を見上げる彼女の顔は、記憶よりも幾分近い。ただ意味もなく残ったかき氷の残骸が、左手からすり抜ける。


 瑞々しい彼女の頬を包んだ私の手は、くすんで皺枯れていた。

「やっと会えた。やっと会えたよ。ずっと探してたんだぞ」

 震える声は不明瞭で、それでも彼女はにこりとして。

「ごめんなさい。わたしも、ずうっと待ってたよ」

 弱々しい両腕で抱きしめると、彼女の汗と幼い肌の匂いが鼻腔を満たす。


 待ち焦がれた幸せだった。


 丸く柔らかな頭に手をすべらせ、何度も撫でる。

 顔をよく見せてくれと言って、右手の親指で瞼をなぞる。

 明るく透ける懐かしい薄茶が、私をとらえる。


 不安と歓喜が入り乱れ、もう一度妹の小さな身体をかき抱いた。彼女は苦しいと文句を言う。

 ふたりの胸の間でごろごろと邪魔なりんご飴を、彼女はやっぱり大事そうに握っていた。


「あのね、これどうやって食べるのかわからなかったの」

「普通に齧りつくんだよ」

 私の顔とりんご飴を交互に見て、彼女は飴に被さる袋をはいだ。

 かじかじと歯を立てるものの、一向にりんごの肌が現れず、訝しげに私を見てくる。

 思わず笑ってしまった。

「飴ごと思い切り噛んでごらん」

 がり。

 鈍い音とともに、笑顔がはじけた。

「お兄ちゃんはなんでも知ってるね。やっぱり、あのおじさんじゃなくてお兄ちゃんにきけばよかった」

「何を?」

「りんご飴のたべかた。おじさん教えてくれるっていったのに、うそついたの。それからずうっと、お兄ちゃんまってたの」


 そうかあ。遅くなってごめんな……



 あのね、お兄ちゃんもあげる。

 



    わたしやっぱりおなかいっぱい…………




  じゃあお兄ちゃんが持っててやるから……




         手をつなごう――――――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛しき最後の日 夏永遊楽 @yura_hassenka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ