終章

第35話 余話


手にした携帯ランプの火影を揺らし、宥めるようにエミリアは

そっと声をかけた。



   

   「ちゃんと休んでくださいね」

   「もう少しだけ……」




まるで駄々っ子のように男が首を振ると、少し離れたところで

押し殺した声がした。


   

   

   「おい、お前だけずるいぞ」

   「だって、昨日縫ってもらったばかりの傷が痛むんだ」

   「痛いのはお前だけじゃないさ」

   「そうだ、甘えるのもいい加減にしろ」




とまた他から別の声もしてエミリアを引き止めていた兵士は、

ちぇっと口を尖らすと毛布をかぶって拗ねてしまい、

苦笑を浮かべながらぐるりと病室を見わたして異常がないことを確認し、

彼女はそっと静かに部屋をでた。



ここは戦場近くに設けられた野戦病院の一つ。


ロンドミルの西にある修道院の敷地に建てられた学び舎を使い、

教室は今は傷ついた兵士が休む病室になっている。

重傷のものは大きな町の病院に運ぶのでここは比較的軽傷のものばかりだが、

前線に近いため運ばれてくる者は多い。


病室をでてエミリアは暗い廊下を歩き、元は図書室だった部屋に入った。

ここにはリバルドから送られてくる医療品が積み上げられていて、

いつの間にかその管理はエミリアの仕事になっている。


というのも、七マール程離れたところに駐屯している反王軍とリバルド軍の

合同司令幕舎から三日と空けず届く手紙の主に、” こういうものが足りない “と 返事のついでに伝えると、正規の手順を踏むよりも早く物資が届くからだ。


医師も看護婦達も忙しく “ 何故、早いのか?” と思ってはいても、

深く追求するよりは薬が早く手に入る方がよく、エミリアがリバルドの名家

アンヌ公爵家の令嬢だからだろうと、皆、勝手に納得しているが、

まさか彼女の背後にいる人物がリバルドの王太子だとは誰も思っていない。



木箱に貼り付けられた紙と中身を、ランプのわずかな明かりで確認していた

エミリアは、カタンと窓下でした音にふと視線をあげた。



   

   「にぁ〜」




猫の鳴き声がして、いつもの野良猫が餌をせびりに夜闇に紛れて来たのだと

わかった彼女は、入ってきたドアとは反対側の外に通じるドアを開け

呼びかけた。



   

  

   「おいで、ミルクをあげる」

   「にぁ〜う」




可愛い声に頬を緩め、ドア近くに置いてある猫用の皿を取ろうと

外へ踏み出した彼女は、さっと動いた影に捕まり大きな手で口を塞がれた。



   

   「しっ、静かに」




耳元で囁かれた声に、もがき突っ張ろうとしていた力が抜ける。


影はエミリアの腰を引き寄せたまま、敷居を跨いで部屋の中にはいって

ドアを閉め、彼女を愛しげに抱きしめた。



   

   「王子!」




驚きと叱責を込めたエミリアの押し殺した声に、アスターが笑う。



   

   「酷いな、君に逢いたくて抜け出してきたのに」

   「抜け出して!? もちろん護衛の兵士を連れてでしょう?」

   「まさか、恋人に会いに行くのに、護衛を頼めるわけがない」

   「!」




怒りを通り越して呆れてしまい、エミリアはしげしげとアスターを見た。



   

   「自分のお立場を解って《わかって》おいでですか?」

   「それを言うなら君もだよ、未来のリバルドの王太子妃なんだよ、

    貴方は」

   「それは……」




まだ決まったことではないと言おうとした唇を王子の唇で塞がれて、

そのままキスは深くなり、エミリアは何も言えなくなってしまった。


熱い唇は、いつも彼女を簡単に溶かしてしまう。


王子は後ろからエミリアを抱いたまま腰の剣を抜くと、

ランプの乗った台の上に置き、クリーム・ブロンドの髪をかきあげて

項にも口づける。


何度も何度も唇が触れれば、たまらず熱の篭る息が溢れでて、

エミリアは潤んだ声をだした。



   

   「王子、もう……」

   「駄目だ、どれだけ逢えなかったと思っているんだ」

   「だって……」




誰か人が来たらと気が気でないのに、王子はキスを止めない。

しゅるりっと襟の青いリボンを解き、アスターは

エミリアのブラウスのボタンに手をかけた。


その時、



   

   「まだお仕事が終わりませんか、エミリア様」




廊下側の窓外にランプの明かりが揺れ、問う声と共に

コンコンとドアがノックされた。



   

   「は、はいっ、もう少しです」




エミリアが慌てて返事をすると、ぎぃとドアが開き、

初老の修道女長が顔をのぞかせた。



   

   「部屋にまだ戻って見えなかったので。

    急ぎの仕事でしたら手伝いましょうか?」

   「いえ、大丈夫です。もう終わります」

   「そう……」




柔和な顔の修道女長はそう呟くと、ちらりと台の上を見たようだったが、

すぐに柔らかく微笑んで諭すように言った。



   

   「もう随分と遅いわ、あなたももう休まなくては。

    日中も随分と無理しているでしょう」

   「はい、明日の分の確認だけ終えて、すぐ休みます」

   「そうしてね、修道院の裏口の鍵はいつものところよ」

   「はい」




パタンとドアが閉まり、明かりが遠ざかっていくのを目で追って、

エミリアはぁーと息を吐いた。


数名の医師や看護婦に混じり彼女は隣の修道院に部屋を借りているのだが、

エミリアがまだ戻っていないのを知って、心配して見にきたのだろう。


遠ざかる靴音がすっかり聞こえなくなると、ことんと音がして、

積み上げた荷の後ろに隠れていたアスターが顔をだした。



   

   「やばかったな」

   「剣に気づかれたようだったわ、どうしましょう」




口元を覆い羞恥に頬を染めるエミリアを、アスターは宥めるように腕に包む。



   

   「リバルドの王子の想い人だと、私は言って回りたいぐらいだが」

   「やめてください」

   「いくら傷ついているとはいえ、兵士は皆、男だ。手紙を託す伝令兵が、

    ” 病院の傷病兵は皆 “ 天使 “ と呼んでエミリア嬢を慕っています” 

    と笑顔で言った時の、私の気持ちがわかるかい?」

   「……」

   「ここがロンドミルだという事、ここが戦地だという事、

    その上、あなたの周りには飢えた男どもがうじゃうじゃと……」




アスターがそう話している途中だった。


かたっと小さな音がして、今度は外に通じるドアの向こうから

ひそめた男の声がした。



   

   「おい、エミリア、居るか?」

   「!」「!?」




エミリアもアスターもそれぞれの意味で息を飲み、驚き固まっている間に

ドアが開き、後ろ向きに外を伺いながら入ってきたのは…… ……

キースだった。



   

   「お前!?」

   「お前こそ、なんでここに居るんだ!」




顔を突き合わすや否や、電光石火で押し殺した怒号が飛び、

エミリアは観念したように天を仰ぎ見る。



   

   「何しに来た」

   「それはこっちのセリフだ」

   「婚約者に逢いに来て悪いわけがない」

   「へえ〜、こそこそ逢いに来きて、婚約者だとは笑わせる」

   「こそこそはそっちもだろう、気弱な泥棒みたいな格好だったが」

   「何っ」

   「やる気か」

   「やめてください!!!」




にらみ合う二人の間に無理やり割って入り、エミリアも声を荒げる。


真夜中にこんなところで騒ぎを起こしてもらっては一大事、

頼れる侍従長もイアソン補佐官もここにはいないし、自分が

なんとかするしかないと彼女はぐっと腹に力を込めた。


ー ー そうよ、クリティールド様のように、威厳を持って言い切ればいいの!



   

   「二人とも子供のような喧嘩はよして。

    王子、あなたはリバルドの軍を率いる責任があり、

    キース、あなたも反王軍を纏める責任があるはずです。

    後先考えない馬鹿な争いは、慎むべきですわ!」




きっと眉を釣り上げ(外に聞こえないよう押し殺してはいるが)

きりりっと声を張るエミリアの姿に、アスターとキースはぽかんと口を開け、

目を見張った。



   

   「王子、キースは頼んだアンセルの郷土菓子を持ってきただけです。

    アンセル出身の兵士で、元気をなくして食事がとれない者がいるので。

    キース、王子は……」




二人が争いを止め神妙に話を聞いているのに勢いづいて、

エミリアはそう説明を続けたが、アスターがこんな時間にここに居る

良い言い訳が、咄嗟には見つからず言い淀んだ。

しかし、


” 時には <無理矢理> も必要なのよエミリア。それで運命を引き寄せれるなら、

 やるべきなの “


公爵夫人の口癖が頭をよぎり、彼女は、ぱぁと顔を輝かせた。


そしてわざとらしく背中を丸め、こほん、こほんと咳払いをして、

さも苦しげに、胸に手を当てる。



   

   「王子は私が風邪を引いたのを知って、心配して見に来たのです。

    クリティールド公爵夫人から私の事を頼むと言われていますから、

    責任を感じたのでしょうね」




早口でそう言い切り、ふぅと息を吐くと、エミリアは

子供が上手に発表を済ませたような誇らしげな顔になり、頬を紅潮させて

にっこりと笑った。

だが…… 、



   「ぷっ」「くっ」



アスターとキースが同時に吹き出して、すぐに二人とも

肩を揺すり腹を抱えて声を殺して笑いだし、今度はエミリアがぽかんとした。


ー ー そんなに、何が可笑しかったかしら?



   

   「い、いや、キース君が、兵士の為の菓子を届けるという

    重大な任務を、エ、エミリアから任されていたとは思わなくて、

    ぷっ、くくく……。

    て、てっきり、隠れてエミリアに逢いに来たと、思ったものだから」




笑いをこらえながらアスターが、息も切れ切れにそう言えば、



   

   「お、俺の方こそ、くくくっ、王子がまた王太子らしからぬ

    振る舞いで、エ、エミリアのところに、よ、よ、夜這いに来た、

    とばかり思って……」




と、キースもむせ返りながらそう言う。


二人がなぜこんなにも笑っているのかわからなくて、エミリアは

眉間に皺をよせ小首を傾げたが、そんなエミリアを見ながら

アスターとキースは笑いながら近づいて固く握手を交わし、

彼女の方を向いてにっこりとした。



   

   「心配いらないよ、エミリア」




そうアスターが言うと、



   

   「そう、俺たちは戦場でも、結構仲良くやってるんだぜ」




とキースが言う。



   

   「そ、そう……、なら良かったわ」




若干腑に落ちないものの、目の前の二人の姿に、

エミリアもやっと、満足げな笑顔を浮かべた。



   

   「私はもう行くよ。キースリー君、

    私の婚約者との会話は認めるが、節度ある態度をお願いするよ。

    でなければ、明日、私は攻撃目標を変更せざるを得ないからね」




固く、お互い血管が浮き出るほど握り合っていた手を解き、

アスターはそう言って台の上の剣を取り上げた。


そしてエミリアの前までくると、くっと口角を上げ、

持っていた青いリボンをエミリアの襟に結びながら囁いた。



   

   「首輪を外してはいけないよ、子猫ちゃん」




唇が耳に触れんばかりの接近にエミリアは真っ赤になり、

身を翻したアスターは、すぐに外に通じるドア開けて出て行き

パタンとドアが閉まる。


しばらくは静寂があたりを支配して、暫くたってキースが、

ぽりぽりと頭をかきながら呟いた。



   

   「気障な野郎だ。ま、戦場では、思ったよりもマシだけどな」

   「危険なこともあるの?」

   「まあな、でも、大丈夫だ」

   「だけど……」




心配そうに顔を曇らせたエミリアを見て、キースが眉をよせ声を落として問う。



   

   「本当に王太子妃になるつもりか?」

   「……」




俯き黙ってしまったエミリアに、一歩近づきキースはいつになく

真剣な表情で口を開いた。



   

   「戦局は悪くない。反王派が勝ってばこの国は元のようになる、

    そしたらもう安全だ。ムリノーにだって戻れる。 

    もし、お前が迷っているなら……」

   「……」

   「もとのように公爵令嬢として暮らせるかはわからないが、

    俺もムリノーに行って、お前一人ぐらいは

    俺が食べさせてやってもいいんだ」




エミリアが黙ったままなので、彼は更に近づいて彼女の顔を覗き込んだ。


今はもう笑みは消え、彼女の瞳は哀しげで悩むように揺れている。

その瞳に語りかけるように、キースは心の中で思った。


王族、貴族の世界は権謀誅殺が横行する恐ろしいところだ、

王太子妃になれたとしても、もし、嘘がバレたらどうなる?

そんな危険が伴う息の詰まる王宮暮らしと、安全に暮らせるようになった

故郷と、どちらがいいかは一目瞭然のはずだ。


ふと、彼女の襟の青いリボンに目がいく。


” 首輪を外してはだめだよ “

甘ったるい漏れ聞こえた言葉が耳に蘇り、キースはぐっと拳を握った。


ー ー あいつがエミリアを愛しているのは本当だろうが、けどそれは、権力を

   持つ者の勝手な思い込みで、甘い幻想だ。

   力を持っているから幸せに出来るとは限らない。

   いや、なまじ権力があるから、醜い争いに彼女を巻き込むことに

   きっとなる。

   だからそうなる前にー ー!


心の中の言葉はキースにとってまことであり強いものだったが、

その裏にアスターに対する、なんとも言えない躊躇いもまたあるのだった。

だが今はその躊躇いに目をつぶり、無理やり心から追い出して、キースは

エミリアを抱き寄せようとした。


が、憂える横顔を見せていた彼女の手が、すっと襟元のリボンに触れて、

瞬間、かすかな、本当に微かな輝きが彼女の瞳に宿った。


それは小さな蝋燭の明かりに似てほんの一吹きで消えそうなのに、

誰にも侵すことのできない何かを秘めていて、

キースは伸ばしかけていた腕を慌てて引っ込めた。



   

   「貴方と一緒だったら、きっと毎日が楽しいわね」




深い息とともに彼女の心の奥から出てきた言葉は、

肯定の意味とも言えるのに、キースはなぜか動けない。


そんな彼へと視線を向け、エミリアは微笑んだ。



   

   「でも、だめなの」




そう言い、彼女はキースの腕にそっと手を置いた。



   

   「あなたの愛情に、どれだけ助けられたかしれないのに……」




隠すように顔を俯けて、エミリアは唇を噛んだ。


本当にどうしてだろう?

キースの申し出を受けた方がいいとわかるのに、心はそれに沿っていかず、

頭の中にアスター王子の顔が浮かぶ。


” 首輪をはずしてはいけないよ、子猫ちゃん “


くっと口角を不敵にあげた揶揄う口調だったのに、彼の瞳は切なげで、

隠した苦悩が滲んでみえた。


ー ー 王子もわかっているのだわ。

  この戦に勝てば、私がリバルドに留まる理由は無くなると。



   

   「あの時、あなたと一緒に行けばよかったと思う日が、

    きっとくると思う」




身体を離し、彼女はキースを見つめる。



   

   「後悔するとわかるのに、でも、王子に向かう心を

    私は止めることができないの。ごめんなさい、キース」

   「い、いや…… 」



さっと目をそらしキースは口ごもった。


ー ー なんて顔をするんだ 。


揺るぎなく、強く、美しい…… 、それはアスターとの愛によって育まれたもの。



   

   「そうだ、肝心の物を忘れてた」




取って付けたようにキースは言い、慌てた様子で腰ベルトにつけた袋を外した。



   

   「菓子は二包みある、一つは兵士の分、もう一つはお前の分だ」

   「え?」

   「お前もこれが好きだったろう? いつも事務机の引き出しに

    隠し持ってた」

   「うん」




すっかりエミリオの口調になったエミリアが、子供のように目を輝かして

袋を受け取るのを満足げに見て、キースはさっと身を翻し

ドアに向かって歩き出した。



   

   「帰るよ。いつまでもいると王子の嫉妬に要らん火をつけかね

    ないからな。 明日、リバルド軍がこっちに向かってきては困る」




ドアを開ければ、夜半の月はもう下りはじめている。



   

   「気をつけてね、キース」

   「おう」




いつものように元気な声で応じキースは歩きだしたが、数歩、

歩いて立ち止まり、半身だけ振り返った。



   

   「戦いが終わったら、俺はベインに戻る。

    お貴族様の相手など嫌だからな。もし、リバルドで

    これ以上は無理だと思ったら、いつでも帰ってこい。

    ベインのみんなが待ってるから」

   「ありがとう、帰れる場所があるなら、きっと頑張れるわ」




返事代わりに片手を振って、背中をむけて歩み去るキースの姿は、

急ごしらえの厩舎の影に消えていきエミリアは夜空を見上げた。


遥かに変わらぬ星の瞬きの向こうから、こちらを見下ろす

大きな力があることを、彼女は感じる。


これから先どうなっていくのか、確かなことは何もわからない。

自分で選びとっているように見えて、それはなにか大きな力に導かれたものだ。


” 本当に大切なものだけが、何度も巡り巡って自分の元にやってくるのだよ “

ヴィオラールの声が聞こえた。


懐郷の念にかられ、逃げるように故郷に戻ることになるのかもしれない。

でも、きっと違う形になっても、また巡り会い、やはり惹かれて


ー ー 私は彼を愛するの。


リバルドよりは北に位置するロンドミルでは北方山脈が近く高く聳え立ち、

その峰の上で一つ大きく瞬いているのは、ガラニアの古代神がこの地を去る時、人々に残したと伝えられる “ 神の目 “ と呼ばれる星。


エミリアは静かにその星を見つめ、そして祈るように、誓うように、

目を閉じた。



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