第5章
第21話 蜜月
冬の間、凍るような乾いた空気と、シンと重い雪に閉ざされていた森に、
音が戻った。
谷川はちろちろと雪解けの優しい音を奏で、凍っていた枝は陽光を浴びて
パシパシと命を吹き返す音をたてる。
甲高く鳴いて枝を渡っていき、太陽の光が枝葉を通し溢れる。
アスターとエミリオは、今、そんな森の中にいる。
「その細腕に、こんな魔法が隠されていたとはな」
森の入ってそれほども経たぬうちに、もうすでに二羽目の山鳥を仕留めた
エミリオに、馬上のアスターは驚きそう声をかけた。
「確かに細っこい腕ですから剣は振れませんが、弓は得意なんです」
「頼もしいな。いざという時は守ってもらえそうだ」
「任せてください」
軽口をたたきながら誇らしげに射止めた鳥を鞍の後ろに結わえ、
再びエミリオが馬にまたがると、彼らはさらに森の奥へと馬をすすめた。
” 一日休暇をとって狩りに行く “
と昨晩アスター王子が言い、気遣い《きづかい》なしのプライベートがいいからと、エミリオだけを共に、まだ皆が寝静まっている早朝に二人は城をぬけだしたのだ。
三時間ほど馬を駆けさせ、西のホランの森に着いたころには太陽は昇り、
薄い冬雲に
天気になった。
エミリオにとっては久しぶりの外出。
リバルドに来てからほとんど城の東棟からでることはなかったし、
その上、好きな狩りができて彼の心は弾む。
侍従としての振る舞いを忘れてはいけないのに、何時になく
はしゃいでしまうが、そんな彼を見つめる王子の瞳は、いつにも増して
やさしい。
見つめられるたびに、言いようのない喜びがエミリオの胸に湧き上がる。
久しぶりの狩りで気持ちが高揚しているせいだとエミリオは思っているが、
春を迎えた瑞々しい森の中で、王子と二人きりなことが、喜びをさらに
甘く満ちたりたものにしているのだった。
空を見上げ胸いっぱいに吸い込んだ空気が、甘く芳しく感じられるほど。
ー ー 変だな、まだどこにも花など咲いていないのに。
微笑みをうかべ空を仰いでいたエミリオは、前を行く王子の馬が止まった
気配に、視線をもどした。
王子の背中越しに、外套に毛織の帽子を目深にかぶった紳士が、
馬に乗りこちらに向いているのが見え、王子が、一旦は止めた馬を
軽く歩かせその男に近づいていく。
「王子!」
制止の意味を込め鋭く声をかけ、エミリオは前に出ようとした。
こんな森の中でしかも相手は見知らぬ者だ、不用意に近づくのはよくない。
だがそれを手で制し、アスター王子は男に近づくと、親しげな様子で
呼びかけた。
「博士」
応えるように馬上の紳士も帽子を取り、アスターに礼を返す。
どうやら二人は知り合いのようだった。
「エミリオ、来なさい」
王子がエミリオを呼び、ほっと安堵の息を吐いて馬を進める。
「こちらはゲイル=アンブル博士だ。博士、彼がエミリオです」
そう紹介をうけた博士の顔に驚きと困惑の表情が浮かび、それを訝しげに
思いながらもエミリオは頭をさげた。
「エミリオ=デュッソといいます」
「エミリオ、博士はロンドミルの方だよ」
「そうなんですか?」
ぱっと顔をあげ、驚いた声で応えた彼にアスターが問う。
「出会ったことがあるかい?」
面長な顔に、丸メガネ。
眼鏡の奥の瞳は柔和で先ほどまでの表情は消え、
今は優しげな笑みをたたえ、博士はエミリオを見ている。
「いいえ。でも、もしお逢いしていたとしても、
僕には記憶そのものがありませんから」
わずかに憂いが博士の顔に浮かび、エミリオは罪悪感を覚えた。
ー ー でも、有名な博士なんかと僕が知り合いなんて、そんなことあるはずが
ないもの……
「そうか」
王子が小さく言い、
” 祖国を離れて久しいから、懐かしいのではと思ってね、
博士はブラン将軍を御存知だそうだから”
と続ける。
その言葉にエミリオが、将軍のことやベルンの砦の様子について尋ねると、
博士はまた穏やかに微笑んで、知っているかぎりの事を話してくれた。
「北部第二部隊のキースリー少尉は、元気でしょうか?」
「ブラン将軍の末子のキースリー君だね。元気でやっていると
聞いているよ。」
「博士はキースもご存なのですか?」
「やんちゃ坊主の頃に、何度か逢ったことがある」
そう言って、ふふっとアンブル博士が笑ったのを見てエミリオも笑顔になる。
「やっぱりやんちゃ坊主だったんですね」
「あのブラン将軍が、ため息をつくほどのね」
ふふふっ、はははと二人の笑い声が森の空気にとけていく。
きっと今頃、この空の先の遠いベルンの砦で、キースはくしゃみを
連発しているだろう。
それでは、そろそろ……と王子が言い、博士がすっと手を差し出して、
エミリオは博士と握手をかわした。
「Abubuan, エミリオ殿、お元気で」
「はい、博士も。Oburyd! 」
別れの挨拶をして王子に頭をさげ、博士は馬を進め去っていき、遠ざかる背中を
見送っていたエミリオにアスターが声をかけた。
「最後にかわしていた挨拶は聞きなれない言葉だったが?」
「ええ、古い言葉です。
” さようなら、幸せを祈る “ そんな意味があるんですよ。
古いガラニアの言葉ですが、ロンドミルでは親しみを込めたい時に
使います、まあでも、一部の人だけでほとんど使われないですが。
僕もすっかり忘れていました。
博士の言葉につられて出てきただけで……。」
「お前はほんとうに博識だな。どこでそれを身につけた?」
「わかりません、が、そんなに特別ではありませんよ」
「いや、リバルドの貴族の子弟でもそれだけの知識があるかといえば、
それはほんの一握りだろう。」
すっと目を細め、刺すような視線でアスターがエミリオを見る。
「自分で自分の事を、おかしいとは思うことはないか?」
「えっ……」
「ただの使用人の息子が受ける以上の教育を受けてきている。
ブラン将軍家が特別にそうだったとしてもだ」
王子が手綱を引いてずいっと馬を近づけ、エミリオの顔を覗き込んだ。
急に、まるで怒っているかのように王子の雰囲気が変わり、
馬は落ち着きをなくしてひずめを鳴らし、手綱を握りしめてエミリオは
身をすくませた。
どう答えていいかわからない。
どうして今、王子がそんなことを言い出しのたのかわからないー ー。
「そ、それは……」
その時突然、唸るような風が吹きつけざぁーっと木々が騒いだ。
巻き上がった木葉や砂つぶに思わず顔をそむけ、はっと頭上を見上げれば、
晴れていた空にいつの間にか暗雲が広がり始めている。
「降り出すかもしれないな。
小さいが休憩用のコテージがある、降り出す前にそこへ急ごう」
難しい顔のまま王子が早口で告げて先に駆け出し、追ってエミリオも
馬の腹を蹴った。
はっ!と、はげしく馬を御しながらエミリアは思った。
ー ー 僕も、自分をおかしいと思っています、王子 。自分は何者なのかと、
いつもー ー。
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