第6話 春の森 ~ 5 ~
青空にくっきりと白い雲が沸き立っている。
枝葉が作る緑の天井から漏れてくる強い日差しを見上げ、エミリアは目を細めた。
地面からゆらゆらと熱い空気がたちのぼり、けだるい午後の時間が流れていく。
もうずいぶん待っているのに、デューは現れない。
森の中は虫の声と、時々渡っていく風が奏でる葉擦れの音だけだ。
ー ー 今日は来ないのかもしれない。
ほっとするような、すごく残念なような、どっちかよくわからない気持ちが
湧き上がる。
朝、起きたときからエミリアはずっと考えていた。
” どんな顔をすればいいんだろう “ と。
何事もなかったように…… そうよ、いつも通りが一番いいわ、きっと!
でも昨日ことがあるのに、もしデューの態度がいつもとなんにも、いつもと
少しも、変わらなかったら、それはちょっと悲しい。
悶々とする気持ちをかかえ彼女は、麦の穂に似た雑草をむしっては捨て、
むしっては捨てを繰り返していた。
ーー 来る、来ない、来る、来ない……。
待ちどうしいようなでもちょっと困ったような、だけど、逢えなかったら
きっとがっかりする。
ー ー 逢いたい、あなたに逢いたいわ、デュー。
彼がなんとも思っていなくてもいい。
昨日みたいなドキドキがなかったっていい。
時間が過ぎていくにつれ、ただ純粋に彼に逢いたいと思う気持ちだけが
濾過されたように残っていって、エミリアは心の中でそう祈るように思った。
でも、いくら待っても彼は現れなかった。
幸せな色で満ちていた期待はだんだんとしぼんでいき、大きなため息がころがりでる。
ーー いつも約束通り会えるわけじゃないもの 、今までだってそうだった。
でも、もし避けられたとしたら……
そう思った瞬間、鋭く尖ったものがちくりと胸を刺し、彼女のそんな心が
呼びよせたのだろうか、ごろごろと低いうなり声のような遠雷が、空の彼方で
鳴り始めた。
「夕立になる前に帰ったほうがいいわね」
まだもう少し待っていれば……と心の隅で小さな声がするが、エミリアは
振り切るように言うと、立ち上がった。
ぱっぱとドレスについた草を勢いよく払い、さっと顔をあげる。
すると目の前に、はにかんだ顔の彼が立っていた。
「デュー!」
「やあ…… 遅くなって、ごめん」
「もう、今日は来ないのかと思ったわ」
「うん」
「でも、来てくれて……嬉しい」
素直にそう言えたのに、彼は困ったように微笑んだ。
遠雷の音が大きくなりはじめる。
心の中でも不穏な音が鳴りはじめ、エミリアはそれを誤魔化すために
わざと明るく、大急ぎで話し始めた。
「早くカゼグロビタキの巣箱を見に行きましょうよ。
私もまだ見に行ってないの…… その ……、
一緒に行こうと思ったから。
で、でも…… 気がすすまないなら行かなくてもいいのよ。
私、独りで行くから、気にしないで。 全然かまわない。
巣をかけてくれただけで十分よ、ありがとう。
私はこれからすぐに行ってくるわ、雨が降り出しそうだから」
早口でいっきにそう言って、エミリアはひとり駆けだそうとした。
デューの口からどんな言葉を聞くのも怖い気がしたから。
「待って」
背中をむけたエミリアの腕を、デューが掴む。
「どうして逃げ出すの」
「逃げてなんか!」
なぜかかっとなって少し怒鳴るように言ってしまい、振り向けば、
心配そうにデューがこちらを見ている。
「なにか僕に怒ってる? 来るのが遅かったからいけなかった?」
「違うわ、なにも怒ってなんかいない」
「そうかな……」
「そうよ……」
“ なんだ、そうかぁ “って言って、いつもみたいに大声で笑ってくれたら
いいのに、デューはいつになく不安そうな顔で、黙ってエミリアを見ている
だけだ。
それは引っ込みがつかなくなったエミリアが、怒ったような顔で
俯いているせいなのに、不安げに見つめられて、エミリア自身も不安になる。
どうして今日は笑わないの?
一緒にいるのが、嫌なの?
胸が苦しい、黒い暗雲が心の中でむくむくと大きくなって爆発しそうだ。
「昨日のこと……」
そのとき、ぽつ と空から最初の雫が落ちてきた。
「あ!」
「大変だ、雨宿りできるところはあるかな すごく降りだす前に
どこかに雨宿りしなきゃ」
デューが空を見上げて叫ぶ。
いつの間にかエミリアの心情以上に発達した黒雲が、稲光を底に光らせて
空を覆い始めていて、ぽつ、ぽつと落ちてきた雫は数を増し、またたく間に
激しく雨が降り始めた。
「こっちに行くと、森番の用具小屋があるわ」
「わかった」
手をつなぎ二人は駆け出し、まるで二人を追い立てるように雨も降り走る。
小屋に着くころには雨はすっかり土砂降りで雷は荒々しさを増し、
エミリアとデュ一は体当たりするように小屋に駆け込み、ドアを閉めた。
安全な場所に逃げ込んだ二人を悔しがるように、つん裂くような雷鳴が
小屋の窓を震わすほどに響き渡った。
二人は頭から足の先までずぶ濡れで、しばらくは声も出ずただ荒い息を
繰り返すばかりだったが、だんだんと息もおさまって、やっとまだ強く
お互いの手を握っていることに気がついた。
ぱっと同時に手を離し、視線もそらし、でもまたすぐに探るように相手を
ちらりと見る。
相手の表情に拒絶がないことにようやく安心して、二人は頬を緩め、微笑みを
交わした。
「すっかりびしょ濡れだわ」
「まったくだね」
エミリアは、しげしげとデューを見て不思議そうに口を開いた。
「幽霊も雨に打たれれば濡れるのね」
デューは初めて気づいたというように、やっぱりしげしげと自分を身体を
眺め回し
「そうみたいだ」
と答える。
エミリアがぷっと吹き出した。
「幽霊になって初めてなのね、こんなひどい土砂降りに遭ったのは」
明るく笑いながらエミリアが言い、デューはそんなエミリアを見てほっとした。
「よかった、いつものエミリアで。
さっきはどうしたらいいかと思ったよ。
急によそよそしくなったから」
エミリアは、目を伏せた。
ごめんなさいと、小さな声で謝る。
なにか気の利いた言い訳を言いたかったが思いつかず、困った彼女は責任を
なすりつけることにした。
「だって…… あなたの機嫌が悪そうだったから」
「僕が? どうしてそんな風に見えたの?」
「それは…… 」
「……」
「……」
「さっき、昨日はって言いかけてたけど?」
「えっ、…… …… そうだったかしら……」
「……昨日、僕は不用意に君に近づいたけど……」
「いいの、なんとも思ってないわ、あなたは幽霊だもの、
普通の男の子とは違うし」
「……」
「……」
エミリアは焦った。
デューが難しい顔で黙り込んだからだ。
ー ー 傷つける言い方だったかしら、でも、気にしてるなんて言えないわー ー。
ごろごろと雷は鳴り続けている。
雨の音が、耳に大きく響く。
「僕が、幽霊じゃなかったら」
唐突にデューがそう言った。
そして、一歩、また一歩とエミリアに近づく。
「気にしてくれた?」
まるでどこかが痛むように苦しげで、そして怒っているかと思うほどの
強い眼差しで、彼はエミリアを見つめている。
その瞳に、” あなたを捕らえ、離さない “ と言われているような気がして、
身体の自由がきかなくなり、エミリアは息が苦しくなった。
胸の鼓動が加速する。
窓に叩きつける雨のテンポと同じくらい、速く激しく、プレスト(急速に)からプレスティッシモ(さらに速く)へ。
「私……」
ぴりっと、いきなり空気に見えない稲妻が走った。
ぴっしっと空気が裂ける音、そしてすぐ、雷鳴がどおぉぉぉんと空気を震わし、
「きゃっ」
と悲鳴をあげ、エミリアはデューの身体にしがみついた。
柔らかくデューがその身体をうけとめる。
背中にまわされた腕が守るようにエミリアを包み込んだ。
どれくらいそうしていただろう、ごろごろと不穏な音はするものの、
もう先ほどのような激しい落雷はなさそうだと、伏せていた顔をおこした
エミリアはどきっとした。
自分を見つめるデューの瞳が熱い。
「エミリア」
デューの手がおずおずと伸びて頬にふれる。
背中に回された手に力が込もり、エミリアの腰を引き寄せて二人の身体が
隙間なく寄り添う。
「エミ……リア」
もう一度、かすれた声で名を呼んで、デューはエミリアにキスをした。
小降りになった雨音だけが満ちる小屋の中で、エミリアは床に座ったデューに
身体をあずけ、幸せな気持ちに包まれていた。
小屋の外で吹き荒れた嵐のように激しく燃え上がった愛しさは、今は
ゆっくりと穏やかなものになり、二人は満ち足りてお互いの温もりを
感じている。
何度も、何度もキスを交わした。
引き合い、絡み合って、お互いがひとつに溶け合ってしまうようなキス。
思い出すと恥ずかしい。
今も、デューが肩にかかった髪を、遊ぶように何度も指に絡めては
解いているのが、嬉しいけれど恥ずかしくて、くすぐったくて、
堪え切れなくなったエミリアがかすかに身じろぎした途端、デューが
ぱっと髪から手を離した。
「ごめん、引っ張りすぎた 痛かった?」
「ううん、平気よ」
甘い声の返事に彼が眼を細める。
「細くて柔らかくて気持ちいいんだ、エミリアの髪」
「アルゴもそうよ、いつまでも撫でていたくなるの」
「うん、いつまでもこうしていたい。 ここでこうしていつまでも、
君を抱いていたい」
囁かれ、抱きしめられて身体がぽっと熱くなる。
胸が詰まって、息苦しいほどの悦びでいっぱいになる。
「明日も会えるわ、明後日も、その次も、その次も。
私はどこにも行ったりしないし、ずっとこの森で、ここで、
私たちは逢うことができるの
私はきっとお嫁にはいかないから。
本当なら社交界デビューの準備を始める歳だけど、お父様は何も
言わないし、お母様は亡くなって、世話をしてくれる人は
誰もいないの。
そんな女の子を、誰もお嫁に欲しいとは思わないでしょ」
屈託無くエミリアは笑ったが、なぜかデューは複雑な顔で思い悩むように
俯いた。
「デュー?」
「エミリア、もし……僕が幽霊じゃなかったらどうする」
「え? どういうこと」
「もし僕が、実在する人間で、それで…… あっ」
またしても突然だった。
姿が淡く揺らぎ消え始め、声がだんだん遠くかすかになる。
「ダメだ、まだだ!まだ、全部伝えれていない!」
何かに抗うように必死に叫び、デューがエミリアの手を掴む。
「デュー!」
「エミリア!僕は、リバルド国の……」
引き止めれるならとエミリアも必死で手を握るが、肌の感触はするりと消えて、ただ空気を必死で掴もうとしているだけだ。
「デュー、待っているわ、私!」
ところが、雷はもう遠くに去ったと思っていたのに、突然かっとひき裂くような稲妻が走った。
「エミリア!」
「デュー!」
どおぉおんと大きな雷鳴が空気を震わせ、と同時に、ぱっとデューの姿は……
掻き消えた。
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