第10章

綺麗に生きることが全てじゃない。そんなの人生をただこなすだけだ。一回の失敗に怯えて思い通りに動くこともできなくなった僕がいい例だ。新宿のネオンは綺麗だ。遠くから見れば美しい。でも一歩足を踏み入れると、幻想は打ち砕かれて輝くネオンとゴミが共存していることに嫌でも気がつく。闇を照らすために美しさを放つはずの光は、いつから何かを隠すように光り始めたのだろう。綺麗なもので蓋をしてしまうのはいつだって人間の常套手段だ。道端に落ちているゴミほど人間の怠惰と自己中心さを物語っているモノはない。ゴミ箱までのほんの少しの距離も小さなゴミひとつ持ち歩けないことがあるだろうか。みんな隠れてうまくやっているのだ。汚いモノはその辺に捨てて、見て見ぬ振りで誰かに押し付けてしまう。都合のいいところを前面に出して、自分が生きやすいように適当に。そんなもんだ。僕も例に漏れず、少しの失敗をごまかしながら上手く生きているように見せている。そんなことをしない君と彼女は、ときには自分だけが汚く思えるだろう。ゴミまでも大切に抱えた両手で身動きが取れなくなってしまうだろう。優しい君たちは汚くなんかない。不器用で純粋すぎるだけだ。就職して本当はつまらないくせに順風満帆を気取っている僕こそがゴミ本体で、汚い人間だ。


ほとんど破壊するように玄関を開けると、真正面に木製の椅子が置かれていた。部屋に続くまっすぐな廊下を進むことを妨げるように置かれている。椅子の上には君が絵具を使って書いたであろう看板が立てかけられている。『Au revoir』。フランス語でさようならだ。中学生のとき君と僕だけの間で流行ったその言葉の意味を彼女は理解していたのだろうか。君による僕と彼女のためだけの展覧会だとわかった。彼女を見る。僕たちは手を握る。互いを励ますように手を握る。彼女の身体のどこかの関節が鳴る音が響く。椅子をそっと右に寄せてから廊下を進む。右、左、前と扉がある。右の扉に1、左の扉に2、目の前の扉に3と君の好んだ少しくすんだ赤い色でドアに直接書かれている。1と書かれた右の扉を開いて部屋に入る。白く塗られた壁にはプロジェクターで映像が投影されている。君がいる。画面いっぱいに君が。君はなんで泣いている?僕はパニックになる。彼女だけが妙に落ち着いていて、機械を操作して映像の最初に時間を合わせる。

・・・・・ジッ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沈黙。

数秒の沈黙の後、再び壁に君が現れる。鼓動が早くなり予感で涙が出る。玄関で僕らを迎えた椅子に君が座っている。さっき見たばかりの場所に君が座っている。髪はさっぱりと切られていて、かわいい顔がよく見える。頬がコケてしまっているせいか、二十六歳の君は少しだけ大人の影をまとっていて、とても綺麗だ。相変わらず血色が悪い唇を動かして君は僕たちに話しかける。


“僕はこの展示をするにあたって、自分の好きな場所を考え直した。

僕はこの玄関が好きだ。この玄関は僕の大切で大好きな親友と彼女だけが入ってくる。

僕はいつもここにいた。君たちが来るのを待って、いつもここに座っていた・・・”

ゆっくりと言葉が繋がっていく。

「僕のことを愛する二人には僕のことを正確に知ってもらいたい。それは君たちを深く傷つけることになると思う。それでも僕の全てを知って欲しい。知って欲しいと言う欲望を抑えることができない。今から話すことが本当か嘘かは君たちの判断にまかせる。君たちは僕が狂っていく様子を知っていたと思うから君たちに決めて欲しい。僕の妄言かもしれないと疑ってくれて構わない。実を言うと、僕には世界と僕の境目が分からなくなってきている。自分の記憶が正しいのか、自分の過去すらも創り上げた作品なのかもう自分でも分からないんだ。でも僕はいまを逃したら永遠に真実を、いまこの時点での本当の気持ちを伝える機会を逃すことになるだろう。人生において逃してはいけないタイミングは必ずある。僕はそれがいまだと確信している。今の僕には過去も今も未来もよく見える。それはやっぱり僕の妄想だからこんなにクリアなのかもしれない。けれどよく分かるんだ。」

そのときの僕は、何が始まるのか不安で逃げ出したかった。僕はいつだって本当の危機に直面することを避けてきた。彼女は妙に凛とした顔でその映像を眺めていた。僕のことを盗み見ることもしない。彼女も真っ直ぐ自分の人生に向き合ってきたから即座に対峙することができるのだ。僕だけが目を忙しなく動かしていた。

「これは僕の愛の話だ。愛を語るにあたって、僕の毎日の日課から聞いて欲しい。

僕は朝目覚めると、心の中で“お父様のお言葉”を三回唱える。例え心の中でも一言たりとも間違えることは許されない。発音まで正しく三回唱える。その呪文は母と僕を繋ぐ秘密で、十歳から十二歳になるまで毎日欠かさずに続いた。それをいまでも一日だって休むことができない。昨日の朝までそうだった。こんな習慣なんて馬鹿らしいと思いながらも、これを止めたら不幸になってしまうという妄想から逃れられないのだ。僕は君たちと数えきれないほど朝を迎えたけど、いつも目を瞑って寝たふりをしながらこの儀式を続けていた。そのことをどうか許してほしい。

・・・・・・・・・・・僕がお父様に出会ったのは、父が死んで少ししてからだった。それまでの僕の家族は母と父と僕だけで、とても仲がよかった。父は仕事が忙しかったから、毎日同じ食卓を囲むことはできなかったけれど、休みの日は必ず僕たちのために時間を作ってくれた。手を繋いで映画館や美術館、コンサート、遊園地、公園、古本屋、多くの場所に家族揃って出かけた。子どもだからという理由で僕を仲間外れにしない両親が好きだった。父は多くの趣味を持っていたけれど、その中でも特に絵が好きだった。僕は父に喜んで欲しくて絵を描いた。一日も休むことなく描いた。毎月一回、その月のお気に入りを父が決めてくれて、絵に合う額を家族で買いに行って絵を収めた。家は大きくて広かったけれど、次第に僕の絵で埋め尽くされた。父は僕が生まれる前から家中に飾っていた高価な絵を少しずつ手放して、代わりに僕の絵を飾ってくれた。その度に父に認められた気がして誇らしい気持ちだった。僕は純粋で、褒め言葉をそのまま受け取り、愛を信じていた。同じように母も父の愛に溺れていた。母が父を愛していることは誰の目から見ても明白だった。父は素敵な人間だった。大学の教授をしていて、勤勉で多くのことを知っていた。母は頭がよくなかったけれど、素直で優しくて思いやりがあった。お互いを気遣う両親を見るのが大好きだった。自分の生きている世界が愛で溢れていることを疑わなかった。しかし、父は死んだ。父は一人で死んだ。桜が舞う季節に桜と一緒に散ってしまった。父は桜だった。裏切られた気がして悔しかった。母は気が狂ったように泣いた。泣いて、泣いて、まるで泣くために生きているかのようだった。だから僕は泣かなかった。母が壊れそうだったから、僕は涙をこらえていた。それは祈りと同じ性質のものだったと思う。母まで失いたくなくて僕は父の代わりになろうとした。僕は十歳だったけど父の代わりになれると本気で信じていた。母を励まして、できる限りの時間を一緒に過ごした。冗談もたくさん言ったし、絵も毎日プレゼントした。絵は僕の涙の代わりだった。お父さんの仏壇にも毎日のように絵を見せた。写真の中で微笑む父に絵の説明をする度に泣きそうになったけど、やっぱり泣かなかった。母は僕の励ましに気が付かずに日を増すごとに弱っていった。清潔だった母の見る影は無くなった。一月ほど経ったある日、家に帰ると母が僕の絵を破いていた。帰宅した僕を捕まえて、絵を描くなと怒鳴った。ほとんど食べていなかったのに母の声は驚くほど大きくて、僕を恐怖に落とすのに十分だった。母は続けて、お前が悪いと僕を叩いた。お父さんは画家を諦めたのに、お前が絵を描くせいで追い詰めたと言った。子どもに追い詰められたお父さんがかわいそうだと泣いた。壁に掛けられた絵を叩き落として、僕の部屋の絵の具を全部捨てた。僕は自分が父を殺したショックで見ていることしかできなかった。

その事件の少し前から、母の“優しいお友達”が家に来るようになっていた。優しいお友達の正体は、同級生の愛子ちゃんのお母さんだった。これまで話しているところを見かけることすら無かったのに、葬式に来て母の肩を抱いて一緒に泣いていた。ヘンナシュウキョウにハマっていると有名だったから嫌だったけど、母に優しくしてくれているようだったので何も言わなかった。学校に行っている間も母と一緒にいてくれることに心強さを覚えていたのも事実だった。気持ちが止まっていても月日はしっかり変わって、夏が近づいてきた。その頃に母が久しぶりに僕を外出に誘った。母に絵を破かれてから探り合うような会話が続いていたから、外出したときに上手く話せるように夜も眠らず紙に話すことをまとめた。朝早くリビングに行くと、母は僕より早く起きていたようで朝食を作ってくれていた。久しぶりの母の作った食事に涙が出そうになるのを我慢してそのご飯を食べた。母は僕に新しい服を渡した。真っ白いシャツに真っ白なハーフパンツ。同じ色の靴下にブリーフ。靴まで真っ白だった。年頃の僕には抵抗があったけれど、僕のために用意してくれたことが嬉しくて文句は言わなかった。玄関のチャイムが鳴って、愛子ちゃんのお母さんと愛子ちゃんも一緒に出かけることがわかった。不貞腐れそうになるのを堪えて、母の手を握って外に出た。僕たちは全員が真っ白な服を身に纏っていて気味が悪かった。母親たちは妙に浮かれていて大きな声で何かを話していた。その後ろを僕と愛子ちゃんは出来るだけ下を向いて歩いた。母にすぐ離された手を爪が食い込むまでキツく握った。友達に見られないことを何回も心の中でお願いしながら歩いていると、四角い建物に到着した。僕の家から十分くらいの場所で、どれだけ近くにあっても興味が無いと気がつかないものだと感心した。中は意外と広くて、大人が百人くらい入りそうだった。中は徹底的に真っ白で、一番奥に僕の膝の高さくらいのステージだけが置かれていた。そのステージの真ん中に、真っ白い姿の人間がいた。僕の持っている白い絵の具より白い布を頭からかぶっていて、てっぺんからつま先まで綺麗に白で塗り潰されていた。その布に開けられた二つの穴から嫌に大きい二重の目がのぞいていた。目の玉も白かった。今になって思うとカラーコンタクトを入れていたのだろうが、その時の僕を驚かせるのには充分だった。座っていてもわかる体格の良さから、でっぷりと太っている醜い男が中に入っていることを想像して怖くなった。僕の父とは正反対の男だと思った。

ステージの下には大人とこどもが等間隔で几帳面に並べられていて、それに倣って僕たちは座った。愛子ちゃんのお母さんが得意げに説明するのが無性に腹立たしかった。床に直正座するので足が痛い。僕たちが座り終えると後ろの扉が閉められ、醜い白の塊が一歩前に進んで何かを話し始める。周りの人間たちは一々感嘆を上げる。不気味で、早く帰りたくてたまらなかった。母を横目で見る。きっと母も複雑な顔をして僕を見るだろう。つまらない話が終わったら手を繋いで帰るんだ。ここに居るヤツらの真似をして母と笑い合うのだ。そんな想像をしていると僕は少し楽しくなっていた。・・・・・・・僕はここまで来ても何もわかっていなかった。母は父に向けるような熱い視線をお父様に向けていた。父に向けるよりも情熱的で、なんだか気味が悪かった。隣に座っているはずなのに、数十センチの距離が果てしなく遠く感じた。お父様のお言葉が終わる頃には、泣いている人もいた。母も泣いていた。“ありがたいお話し”が終わると、一人ずつ握手をして帰っていく。大体の人が白い封筒を渡していた。新しく来た人は残ってお話しさせてもらえるらしく、僕たちはその白い箱の中に取り残された。その日の新入りは僕と母だけだった。愛子ちゃんのお母さんは誇らしげに僕たちの事情を話した。何度もかわいそうと言いながら母の二の腕をさすることも忘れなかった。愛子ちゃんは申し訳なさそうに靴のつま先を見つめていた。愛子ちゃんは僕と同じだと分かった。変な子だと思っていたけれど、変なのは愛子ちゃん自身では無かった。愛子ちゃんは僕がぬくぬくと愛情を受け取っているときから一人ぼっちで戦っていたのだ。愛子ちゃんのお母さんの話を聞き終わったお父様は、僕の母の手を握って、私がついていますと言った。それから僕の頭を撫でた。母は何かに取り憑かれたように父の話をする。最後に僕を差し出して「この子が絵を描いたからあの人は死んだ。」と泣いた。子どもみたいに声をあげて泣いた。僕は俯いた。お父様は「そんなことはありません。」と言った。この子に絵を描かせなさいとも言った。この子が絵を描くことで父が喜んでいるのが見えると言った。君は絵を描き続けなさい、としゃがんで僕の目を見つめて何度も言った。僕はそれが嘘だと分かった。それでも、どうしようもなく嬉しかった。僕は涙を流した。僕は罪の意識に殺されそうだった。僕は僕が父を殺したと言いながら泣いた。お父様は違うと言って僕を抱きしめた。「父を殺したのは誰?」と僕は問う。運命だとお父様は言う。父の望みは叶えられたとも言った。父にとっての幸せは死だったと。死は悪ではないと。私が今日からあなた達の家族です、と。やっぱり胡散くさいと思った。それでも涙を止めることはできなかった。その日の夜、母に絵を描くように言われた。僕は疲れ果てていたから断ったけど、母はそれを許さなかった。お父さんが喜ぶから描きなさいと強い力で僕の腕を掴み、リビングに引っ張って連れて行った。そこには絵を描くための新しい道具が恐ろしいほど積まれていた。僕はその中から適当に道具を選んで描いた。初めて絵をつまらないものだと思った。次の日の朝には母と一緒にお祈りをさせられた。母の言葉を追いかけて真似した。僕が言い間違えると母は心底悲しそうな顔をして僕を見つめた。休みの日には全身白い服を着て、お父様に会いに行った。寒くなると白いタイツなんか穿かされて馬鹿みたいだった。学校では愛子ちゃんに続いて、僕も仲間外れにされた。毎日飽きることなく、僕と愛子ちゃんの相合い傘が書かれた。僕はお父さんが死んだばかりだから少し同情されていて、されたことはそれだけだった。愛子ちゃんは毎日牛乳をかけられたりしていた。僕にはどうでもいいことだった。どうでもいい毎日を積み重ねて、月日だけが流れていった。図書室に逃げ込んで本を読む時間だけが僕を安心させた。

僕が十一歳になると、母は僕と一緒にお風呂に入るようになった。体の“隅々まで”何時間もかけて洗ったりほぐしたりした。半年くらいその行為が続いたのちに、僕と母はお父様のお部屋に呼ばれた。いつもの真っ白いステージの斜め後ろには真っ白い扉があって、その中がお父様のお部屋だった。お父様に心酔する信者の集まりが愛子ちゃんの家でよく行われ、親が熱心に話し合っている間に子ども同士で情報交換をしていたので、これから何が起こるのか大体の察しがついていた。僕の情報源はほとんどが愛子ちゃんだった。愛子ちゃんのお母さんは熱心にお父様を信仰していて、信者の中のリーダーみたいなものだった。知ることは自分を守ることになる、と愛子ちゃんは図書室の影で僕の隠部を手で摩りながら言った。自分達も覚悟しようと励まし合いながら、この世界にとどまり続けようともがいていた。愛子ちゃんはいつの間にか僕の大切な人になっていた。愛子ちゃんだけが心の拠りどころだった。お父様を自分の中に取り込む日が来ても僕が冷静だったのは、愛子ちゃんが情報をくれていたからだったと思う。愛子ちゃん自身が居たからだ。僕はもう自分の表情を上手く作ることができなくなっていたので、僕は死にたいのに笑っていた。口角を母の手が引っ張り上げている感覚がいつもあった。

初めて入るお父様の部屋はやっぱり徹底的に真っ白で、真ん中にガラス張りのお風呂があった。僕と母はいつものように一緒にお風呂に入る。冬休みに入ってからまともな食事を与えられていなかったから、頭は霧がかかったように不透明だった。白に囲まれて、まるで雲の中にいるような気持ちだった。そのとき突然これは夢だとわかった。これは夢だと。現実なわけがなかった。僕が母によってこんな仕打ちを受けるはずがないと思った。悪い夢だ。悪夢の中で母はいつもより丁寧に僕を清めると、綺麗に体を拭いて僕に白い布を被せた。それから僕をお姫様のように抱いてステージのある部屋に移動した。母の心臓の音はとても早かった。ベッドの上に仰向けに寝かされてから布を剥がされる。顔を少し横に動かしてステージの下を見ると、大人たちがいつも通り几帳面に並べられていた。そこには無表情の愛子ちゃんもいた。みんな同じような目で僕を見た。目、目、目、目、白、白、白、白、大人、大人、大人、大人、怖い、嫌だ、助けて、助けて、助けて、助けて、僕は声が出せなかった。僕はなぜ選ばれてしまったのだろう。なんで僕だったのか、怒りがこみ上げてくる。絵を描いた罰だろうか。絵を描かなければこんなことにはならなかった?そんなことはない。僕の今までしてきた行いに罪を与えられるものはいるはずが無い。いや、罰を与えられることは救いなのかもしれない。父を殺した罰を受けることで、僕は許されるのか?僕がどれだけ頭の中で自問自答を繰り返しても、これから行われることが変わることは無い。逃げたら僕は一生許されないのだろうか。僕は死ぬのだろうか。それは素敵なことだと思った。お父さんの所に行きたかった。絵を描いてごめんなさいと謝りたかった。許せるのは僕自身と父しかいないはずだから。でも、そしたら母は?母はみんなに責められるだろうか。僕が許しても、他の人は許さないだろう。僕は母から父を奪ってしまったのだから、せめて意味のある人間にならなければ。母を守らなくては。僕はダメな息子だ。でも愛して欲しい。ダメなところも愛されたい。僕は最後の望みをかけて母に目で訴える。「助けて」・・・母は、いつも通り、違う世界を見つめながら死んだ父を探し求めていた。そこに僕は映っていなかった。母の目に反射する僕があまりに憐れで、自分から目をそらした。母は僕が死んだら泣いてくれるのだろうか?


ステージには、真っ白のベッドの横に真っ白なテーブルが置かれていた。その上には銀色の入れ物が静かに佇んでいる。ごはん茶碗くらいの大きさで、液体を注げるように一部が尖っている。ステージの下に座る大人たちと愛子ちゃんは白い小さなお猪口を持っている。全部、聞いていた通りだ。この中の誰がこのベッドを準備したのだろうか。この大人たちは、僕を哀れむことなくこの状況に違和感を持つこともなく僕を見ているのだろうか。この中の誰かに一欠片の道徳心があれば僕は救われるのに。子どもを壊すのは大人だ。少なくとも僕の人生においてはそうだった。僕は大人の視線から、何より愛子ちゃんの視線から逃れるように空想の世界に逃げ込む。次は映画の主人公になった。これは映画のワンシーンで、こんなの大した問題ではない。演じるだけだ。全部フリだ。悲しいフリ、苦しいフリ、意味なんかない。お父様は偉そうな口ぶりで中身のない言葉を説いてから、布の間から大きく膨れ上がったモノを剥き出しにする。馬鹿な大人たちは感嘆して頭を下げる。愛子ちゃんは頭を下げずにジッとこちらを見ている。大人とはなんなのだろう。人間とはなんなのだろう。愛子ちゃん以外全員の額が床にめり込んでいる。このまま床が落ちて、みんな死ねばいいのに。そんなことは僕の出演する映画の中では起こらない。僕は四つん這いになる。促されて自分でその体勢をとる。生ぬるい液体の感覚を肛門に感じて涙が溢れる。母が僕の手を握って、余った手で頭を撫でる。母の視界はここまできても僕を捉えていない。冷たいものを念入りに塗られて、身体中に緊張が走る。おとうさまんの隠部が押し付けられる。体が強張り、震える。肛門に鈍い痛みと違和感が走り僕は大声で叫んだ。大人たちは、ボソボソと何かを唱える。僕は笑顔で涙を流しながら叫び続ける。数分かの運動ののち、お父様のありがたい体液が僕に注がれると、大人たちは万歳をした。恍惚の表情で僕を見つめる。その視線で僕は神になったような気がした。みんなの視線が僕を神にした。僕は、神になった。僕はカミサマだ。僕がいれば母はもう大丈夫だ。母が僕の頭を撫でてから僕の体液を搾り取る。銀色の入れ物に上手に溜める。こんな状況でも僕自身が収まらないのは、部屋に移動する前に口に流し込まれた錠剤のおかげかもしれないし、愛子ちゃんに見られているからかもしれないし、僕が神だからかもしれない。そんなのどれだっていいのだ。拍手が起こる。なんて心地の良い世界だろう。皆が僕の精液を求める。感謝しながら口に運ぶ。全員に行き渡るまで、ソレは何度も続いた。僕は壊れてしまった。カミュは『異邦人』の中で、主人公トルソーを通じて「ひとが慣れてしまえない考えなんてものはないのだ。」と言った。僕はそれを理解した。父が死んだことにも、母の仕打ちも、お父様との行為も嫌悪感こそ消えないけれど、僕はこの異様な世界に慣れていった。自分の運命に悪態をつくことも、涙を流すことも僕はついにしなくなった。できなくなった。慣れても、心は傷つく。だから僕はやめた。自分に愛情を持つことを。それは魂を削ることだから。無関心に徹した。僕は人間らしい心というものに疲れ果てていた。僕は、変な臭いのするその部屋で、ただ神になった。

その日から毎日大人たちが僕を崇め、僕に跪く。自分を保つために、僕は神になったと自分自身も言い聞かせ続ける。僕が神になっても父は生き返らなかった。儀式を何十回と繰り返してもダメだった。絶望した母は、僕が神になって半年が経ったときに急に正気に戻った。小さなアパートの一室で、泣きながら僕にあやまり続けた。ごめんなさい、ごめんなさい、言葉は僕に突き刺さる。正気に戻った母の謝罪は僕の心を粉々にした。母が僕の存在を認めたら僕は僕でいなくてはならなくなる。僕には僕たる存在はいらなかった。世界を跨いだ人間は元に戻ることは許されない。僕も母もこのまま気がつかないフリをして進む以外に道は無かった。正気を取り戻してはいけない。狂ったまま生きるしかない。

次の日の朝、母と僕はお祈りをしなかった。それは、お父様に出会ってから初めてのことだった。そして母はその日のうちに死んだ。僕が学校に行っている間に死んだ。僕が虐めに耐えている間にあっさり命を終わらせた。身体中から血を流した人間を見下しながら、美しいと思った。赤黒い水溜りに見とれながら、ああ、お祈りをしなかったから天罰が下ったのだと思った。僕には何も無くなった。唯一あるのは、絵を描きたいという欲求だけだった。僕は母の血で絵を書いた。筆に水を付けて、床にへばりついた乾いてしまった血を溶かした。色が足りなくなったら、首の傷口に筆を食い込ませて色を補充した。なんて美しいことだろう。素晴らしいことだろう。僕だけは生きて絵を描き続けよう。罪を償い続けようと誓った、愛する両親のためにそうしようと。

絵が出来上がったので、絵を自分の部屋に隠して、隣の家のチャイムを鳴らした。部屋に呼んで、母をどうしたらいいのか尋ねた。隣の若い男女は僕の家に入るとすぐに悲鳴を上げて、男の方が僕を抱きしめた。警察が来て僕のことを撫でる。男の人は僕を泣きながらずっと抱きしめる。もう大丈夫と何度も言葉をかけられる。何が大丈夫なのだろう。何が大丈夫なのだ?僕は大丈夫なんかじゃない!僕は大丈夫じゃない!

それから警察に多くのことを聞かれた。毎日続いた質問はある日を境にピタリと止まった。母の血で描いた絵についてもついに何も聞かれなくなった。母は父の後を追って自殺したことになった。僕が神になり損ねたから死んだことは言わなかった。お父様のことは最後まで聞かれることはなかった。それから僕は取って付けたように真っ当な扱いを受けた。東京に引っ越して、半年間は病院やカウンセリングに通った。新しい親を与えられ、苗字も変わった。優しくてお金持ちの夫婦だった。犬がいたので、僕はその夫婦に懐いたふりをした。犬は好きだ。僕に本当の意味での同情をしないから。夫婦は涙を流しながら、僕を歓迎した。何で泣いているのだろう?僕はもう何も分からなかった。カウンセリングの先生は、新しい自分に生まれ変わったと思って過ごしなさいと言った。神でもない僕は、壊れかけの心を抱きしめて中学生になった。学校というのは、傷ついた子どもには容赦ない場所で、絶えず親や性の話題が僕の周りを泳いでいた。仲良くなるほど、親のことや好きな人のこと、セックスについて、極めて個人的な秘密の共有を求められる。曝け出すことで信頼が増すのは理解できたが、できない方が避難されることに馴染むことができなかった。僕はそれに気がつかないフリをしていたので、何回か話しかけてくれた人も深入りしてくることはなかった。僕と仲良くなっても寂しさを感じてすぐに離れていく。そんな毎日の中で、君だけは秘密の共有以外で僕を求めてくれた。全てから僕を隔離してくれた。明るい君は意外なことにじっとりとした内容の本や映画を好んだ。君の周りに同じ趣味の人間がいなかったことをいまでもありがたく思う。君は僕を見つけてくれた。僕を脚本で殺してくれて、僕は嬉しかった。現実から逃れるために映画も本も絵も貪るようにみていたから僕は多くのことに詳しかったけど楽しいと思ったことは一度もなかった。君からそれらに縋る以外の楽しみを学んだ。映画について語り合うのは楽しかった。僕の人生に楽しい日が来ることは想定外だった。君の見解は僕には新鮮で優しかった。僕はいつだって死のうと思っていた。罪を償うのは死なのか生なのか分からずに彷徨っていただけだった。君ともう少し話したくて、死ぬのはとりえず先延ばしにした。絵を描くのは相変わらず苦しかった。君にほめられると罪悪感が増した。その罪悪感に安心した。僕はどんな人間に見えだろう?この独白は君をがっかりさせてしまっただろうか?本当の僕なんてこんなもんなのだ。あんな扱いを受けたのに、すがるように絵を描き続けるしかできなかった弱虫だ。絵で罪を受けることが救いだった。これが僕の全てだ。」


君が泣いている。拭うこともしない。僕も彼女も泣いている。そのまま泣き崩れて、叫び出してしまいたかったけど、それをしてしまったら二度と立ち上がれない予感があったので無理やり隣の部屋に移動する。彼女も同じようにしてくれた。余韻に浸る強い心なんか持ち合わせていなかった。2と書かれた部屋を開けると、先ほどと同じように壁に映像が投影される仕組みになっていた。時間を合わせるとまた君が現れて、話を始める。


僕たちの物語は終わりに向かっていく。



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