第9章

部屋の時計が二周目を迎えようとしている。もう少しでいつも昼食を摂る時間だが、お腹が空く気配はない。彼女が来る気配もない。君と僕は彼女を深く傷つけた。この一年で彼女が気持ちを整理して、この部屋に来れるようになるだなんて僕は思っていなかった。今年がダメならまた一年が過ぎるのを待つだけだ。僕にできるのは待つだけだ。あの日、彼女は告白した。君の彼女は告白した。


告白の場所は僕たち三人が初めて顔を合わせた喫茶店だった。そのときのことも、その数年後に彼女とよく二人で喫茶店で落ち合って君のことについて話し合っていたことも懐かしく思う。まるで誰かに聞いた物語を思い出すみたいだ。

その当時の僕は一月に数回程度しか君に会わなくなっていた。彼女がどうしても君の側に居られない時に駆けつけるだけになっていた。君の活躍と情熱に気後れしていたし、合わせる顔がなかった。毎日の仕事に追われて、君や大学の同期の展示会の誘いからも足が遠のいていた。君の会話の相手にはもっと適切な人がいる、悔しいけれどそう思った。彼女は苦しそうにしながらも君にしがみついていた。彼女は都内の私立高校の美術の非常勤講師をしながら自分の絵を描くことも君の展示の手伝いをすることも辞めなかった。彼女を尊敬していた。僕は社会人としては順調だった。指示通りに映像を撮ることも、人とコミュニケーションを取ることも僕にはとても簡単ですごく退屈だった。だから君や彼女と会うことは、僕に緊張感を思い出させてくれる大切な時間だった。その日も君のことでの相談だと思った。彼女の形の綺麗な唇が目の前で開いたり閉じたりする。いつもと毛色の違う話し方だと思った。元気がない。違う。元気なフリをしていない。今日の彼女はこぼすように言葉を吐き出す。言葉の組み立ても滅茶苦茶だ。どんな状況でも惚気話を最初にするのに、それがなくて不思議に思った。話を遮ることはしなかった。「私たちが知り合って付き合うまでの経緯って話したことないよね?」唐突な質問に僕は愛想の良い笑顔をしながら頷く。彼女は表情を取り繕うこともせずに口を動かす。「出会ったのは私が大学一年生の夏で、展示会の手伝いの時だった。あの何だか赤くて不思議な絵のこと覚えてない?」僕は自分の意識を大学二年の夏に戻す。確かその夏はひどく暑くて、そして僕は自分で脚本を書いたり映画を作ったりしていた。早朝に映画が完成して、一人ウイスキーを煽っていた時に君が部屋にやって来て、展示会場へ絵の搬入を手伝わされた。まあまあ大きな規模なのに僕たちは二人きりで作業した。徹夜続きで体は辛かったけれど、君の世界を表現するのは楽しかった。最後に運んだキャンバスの大半が赤で埋め尽くされた絵は、今でも僕の実家に飾られている。サイズこそ小さかったが、あの絵に衝撃を受けた人は多かったと思う。僕はその絵を両親に頼んで秘密で買った。あの絵には君の体を巡る血が混ざっていたことを知っていたから、僕のものにしなくてはならなかった。僕は思い出の詳細は自分だけのものにして、思い出したとだけ答える。彼女は話を続ける。「最初は顔が綺麗で天才感を出しているだけの嫌な人だと思ってたの。自分で言うのも恥ずかしいけどね、物心ついた頃から何かと理由をつけて男の子が近づいてくることが多くて、その下心みたいなの・・。だからね、展示の手伝いメンバーと馴染めていなかった私に最後の最後まで話しかけてくるなんて、あわよくばセックスに持ち込みたいのかなって。私を落とせるチャンスと思ってるんだって、自意識過剰にそう思ってた。またかあって。つまんないって。でも話し方とか表情を見て本当に気遣って話しかけてくれていることが分かって、自分の勘違いだって思い直した。穿った見方を止めると優しくて面白い人だってすぐに分かった。それから呼ばれる度に作品の手伝いを続けて、だんだんと喫茶店とか古本屋さんに連れて行ってもらうようになった。話すほどに心の綺麗な人だと思って惹かれて行った。好きだったから彼からの好意を感じれなくて悲しかったけど、側に居続けてクリスマスの夜にキスしたの。それが私たちの始まり。」

ああ、僕たちがキスをした次の日だ。その前の日に僕が君を深く傷つけた。君は僕とのキスで終止符を打って、彼女と付き合ったのだ。あの喫茶店で紹介されるまで、僕は彼女の話を一度も聞いたことがなかった。変だと思っていた。これは僕の思い上がりだろうか。キスの意味を知って僕は苦しくなる。彼女の口は動き続ける。「付き合ってからも、その前も、私、風俗で働いていたの。お金をもらって、セックスしてたの。上手く隠しているつもりだった。私たちはセックスをしていなかったから。でもね、ある日お店に来たの。いつも通りの汚れた服装でいつもの喫茶店に来るみたいな感じで。珈琲を注文するのと変わらない言い方で、お店の人に一緒に謝るから帰ろうって。私、どうしていいのか分からなくて。何か言わなくちゃって思うのに涙ばかり出てきて。初めて、その時になって初めて自分が傷ついていることに気がついた。心が痛いって。軽蔑される方がよっぽどマシだって。嫌って見捨ててくれる方が良かった。こんな私に優しくしないでって怒った。ごめんねって言われた。私が落ち着くまで何回でも謝って、私を受け止めるのに今までかかった、僕が悪いって。それは違うってすぐわかった。私が彼を信頼して、居なくなったら寂しくて生きていけないくらいに好きになるのにそのくらいかかったの。最初から好きではあったけど、私の性格的に一人の人に深くのめり込むことは難しいことだと見抜かれてた。優しい人だよね。二人で店の人に謝って、そのまま辞めさせてもらった。引き止められることも無くあっさり辞められた。私、少しショックだった。自分の代わりなんていくらでもいるんだなあって。こんな幸せを受け取りながら、そう思ったの。これは憶測でしかないけれど、私と付き合う前から彼は風俗で働いていること知っていたと思う。だから私の側にいてくれた。展示メンバーにしたのも、そこからまた誘ってくれたのも私の心を助けるためって分かった。付き合ってからは親友の君にも紹介してくれた。私にね、どれだけ私が大事な人間か、大事にされるべきか教えてくれるの。私に優しく触るの。それがね、ずっと痛くて。ごめんね。そんな私の事情で君から彼を奪ってごめんね。」ここまで話すと、彼女は生ぬるい珈琲に口をつけた。花柄の薄いマグカップは大きく震えている。僕の表情を気にしているようだが、こちらを見ることは無かった。僕も不自然な方向に向けられた視線を無理に捕まえることはしなかった。珈琲のお代わりを頼んで、彼女の口舞台の第二幕が始まるのを待つ。珈琲が席に運ばれると続けても大丈夫?と彼女が訪ねてくる。僕は持っている優しさを全部集めて声にのせた。声は裏返ってしまったが、彼女に笑う余裕はないようだ。彼女の唇が動き出す。

「辞めたままの足で、手を繋いで吉祥寺の公園に行った。なんで井の頭公園に行ったのかはよく分からないけど、とにかくそこに行った。口を開く頃には周りは夜と私たちだけになってた。その日、初めて自分の過去を人に話した。私のお父さんはね、アルコール依存症だったの。一日中お酒を飲んで、お母さんを殴った。仕事には行かないのに殴ることは休んだことがなかった。何かに取り憑かれたような顔をしていて、誰かが乗り移っているんだって本気で思ってた。どんなに豹変しても私のことだけは殴らなかったから、お母さんをやっつけるためにそうやって戦っているって思い込もうとしてた。だから殴る姿ばかり見ていてもお父さんのこと嫌いになれなかった。大好きだった。でもね、五歳のときにお母さんに連れられて、お母さんの実家に逃げたの。真冬の夜中にお母さんに手を引かれて駅まで歩いた。夜行バスに揺られた気がする。記憶が薄いけど、とても寒かったことだけはしっかり覚えてる。東京から東北の田舎に着いて、見たことのない雪がキラキラしてて、綺麗で悲しかった。雪は今でも嫌い。古い平家の家に着くと、老夫婦が出て来てお婆さんの方が私を抱きしめた。私はその胸の中でこの人は誰だろう、早く帰りたいって思ってた。自分の家に帰りたいなって。お父さんと会えなくなることには薄々気がついていたと思う。お母さんはヒステリックだったから、あんまり好きじゃ無かった。私の願いは無かったものみたいに、それから当たり前のように祖父母の家が私の帰る家になった。祖父母は二人だけの生活で寂しかったらしくて、私によくかまってくれた。とても優しかったけれど、上手くなじめなかった。冷蔵庫の物を飲むときは「飲んでもいいですか?」って無意識に確認してた。ある日、あなたの家だから確認しなくていいよって寂しそうに言われて焦った。自分がどう振る舞えばいいのか探る毎日だった。祖母は優しさゆえに毎日お父さんの悪口大会を開いた。それがお母さんと私を慰める方法だと信じていたと思う。お母さんは本当にお父さんを憎んでいたから、嬉しそうに悪口を言った。私はそれが嫌だった。嫌で嫌で仕方がなかった。毎日「早く死ねばいい。」「人間の屑。」って言葉を浴びて疲れ果ててた。「あんな人になるな。」って言われると悲しかった。そんなふうに過ごしているうちに、お父さんは肝臓の病気になって、あっさり死んじゃった。初めてお見舞いに行ったときには身体から管をいっぱい出したお父さんがベッドに置かれていて、ショックだった。自分のせいだと思った。悲しかったけど泣けなかった。太ももを指で痛めつけて、涙を押し込んだ。悲しい素振りを見せたらお父さんを嫌っている家族に嫌われると思ったの。家に置いてもらえないと思った。だからお父さんの手を握って泣きつきたいのを我慢して「お父さん臭い!」って叫んで病室を飛び出した。お母さんはその言葉に満足しているようで、私を抱いて頭を撫でた。家族を愛せなくて自分は変だと思った。

それから次の記憶は中学生になった頃に飛ぶけど、そのあたりからおかしなことが起こるようになった。最初はモノがなくなったり、メールが消えていたり小さなことだった。お父さんと離れてから神経質気味になっていた私は少し気にしてた。それが私が男の子にモテることに気がついたお母さんからの監視される生活の始まりだった。私が誰かに取られて自分が一人になるのが怖かったんだろうね。私に大事な人ができたら自分は見捨てられると思っていたみたい。違和感は日々積み重なり続けた。下校しているとね、仕事しているはずのお母さんの車とすれ違うの。小さな町だったから交通量も少ないし、道路もこじんまりとしていて、自分の家の車に気がつくのは簡単だった。最初は偶然だと思ったけど、何回も遭遇すると流石におかしいと思い始めた。私を見張っているって疑い始めた。無くなる物も消えるメールも男の子に関わるものだって気がついていたけど、確信したのはお母さんにメールの内容で直接怒られたときだった。男友達と私のメールの内容を書き写した紙を投げつけられて、「ハシタナイ!」って怒鳴られた。男の子の名前には赤いボールペンでバツ印が付けられていた。メールを勝手に読まれたことも、突然嫌な言葉を投げつけられたことも怖くて、泣いて謝ることしかできなかった。それからは私に男の影がないか堂々と見張り出した。男の子のメールアドレスを母は全部消した。一人ずつ名前を読み上げて消した。私が恥ずかしい思いをすることも、友人関係に支障があるかもしれないこともあの人は考えずに実行した。私の全てを監視した。体が成長してないかお風呂を覗きにきて私の下着まで漁った。テレビでキスシーンが流れたら、汚らしい!と叫んで、大げさに消した。夜中に私の部屋に来て処女かどうか確認するために私の中に指を入れた。私は体が女になるのが怖くなって、食べる量が減った。食べたものをひたすらに吐いた。女性になるのを少しでも遅くしたかった。だから大人になっても背が低いのかもね。」彼女は笑う。笑わないと正気を保てないのだろう。僕は愛想笑いをすることはしない。「その頃から現実から逃げるために絵を描くようになった。芸術家は繊細な人が多いって聞いたことがあったから、自分も芸術家肌だから繊細なだけって思いたかった。私のお母さんは普通で、私が天才だから過剰に反応してしまう。そう言い聞かせた。そのおかげで今があるとも言えるけど、そんなのとってつけた慰めだよね。」彼女が珈琲を啜るので、同じようにそうした。彼女の言葉が続くのを待つ。「高校生になって、家から汽車で四十分ほどかかる高校に通うようになったから男の子と付き合ってみた。いろんなことが限界で、優しくしてくれる人に甘えたかった。上手く誤魔化せるとも思ったし、受け入れてくれるかもしれないって期待もした。結局は見つかって、お母さんに包丁で太ももを切られた。一生セックスできないようにしてやるって怒ってた。なんかもう面白くて、太腿を切ってるお母さんの顔を思いっきり蹴り飛ばしたの。包丁奪って、切られてない方の太腿に自分で包丁を突き刺した。お母さんは泣きながら止めてって叫んで、私を抱き抱えて病院に連れて行った。流れる血が心地良くて安心したなあ。お母さんは病院で私が病んでいる子に仕立てることは忘れなかった。それからは何も言われなくなった。何回も謝られたけど、全部どうでもよかった。感情が全部なくなって、お母さんの一番嫌がることしているときだけ満たされるようになった。だから残りの高校生活はセックスしまくった。小さい町だから私が“自傷行為”をしたことは噂になってたけど、私はそれでもよくモテたし、噂のおかげで一々傷のことを説明しなくてよくて楽だった。傷を見て泣いたり、君を守るとか言い出したり、みんな優しかったよ。東京に出るために必死に勉強もしたけど、男が途切れることは無かった。東京に来てお母さんから離れても、嫌がるだろうことをしないと満たされなかった。嫌われないとまた傷つけられるって怖かった。私がお金をもらって知らないオヤジに抱かれて、そのお金で買った高い服を身に纏ってるなんて知ったらどんな顔をするのかなって。いっぱい自分を傷つけて、さっさと死んじゃおうって決めてた。私を失うことにあの人が耐えられるはずがないし、私のしたことを知って一生苦しめばいいって。でもさ、どんなに心が傷ついても死ねなかったの。初めておじさんに抱かれてお金をもらった日も、なんかこんなもんかって。電車を待っているときも、信号を待っているときも、あと一歩足を前に動かしたら死ねるのにできなかった。自分が苦しいのかもわからなかった。ただ一つだけ私を生きることに繋げていたのは、誰かの娯楽になりたくないって気持ちだけだった。人間の一番の楽しみって人の噂話をしているときだと私は思うの。それもとびっきり不幸なやつ。幸せに育った友達の娯楽になんかなりたくないって。死んだ後のことを考えて死ねないなんて、自分が人間臭くて、バカみたいで、ムカついた。生きているだけであらゆる誤解をされて、暇つぶしのネタとして消費される私みたいな人間が死んだりしたら格好の餌だもん。あらゆる噂を楽しみ尽くした後に、簡単に忘れられて終わりなの。自分の小さな名誉のために生き続けるしかなかった。死にたいよ。死なせてよって一人で泣いてた。」 少し間が空く。僕は言葉を探していたし、探すのを諦めてもいた。僕に使える言葉なんてなかった。「私の話を聞いて、君の親友も君と同じように泣いたり無理に慰めたりしなかったよ。私のお父さんがいなくても慰めたりしなかった。みんなね、私のお父さんが死んでいることを知ると優しい言葉をかけてくるの。私はその度に泣かないといけないの?同情してくれてありがとうって感謝しなきゃいけないの?私の苦しかったことを自分の優しさを見せつけるために使わないでって腹が立つの。どんどん性格が曲がるのが自分でもわかった。私は嫌な人間なの。汚いの。君たちはよく似ているね。家族の大切さを説教することも慰めの言葉を言うことも泣き出すこともしない。ただ一緒にいてくれる。私を私として見てくれる。作品を見てくれる。私の前でカッコつけない。私はそんな彼をどんどん好きになって、幸せを知った。大事にされることの暖かさを覚えた。でも、なくなっちゃった。」

僕は君たちが別れたことを悟ると、まずいと思った。これこそ全てが手遅れだ。

「あいつと別れたの?」

声が上ずる。

「昨日別れた。」彼女が言い終わらないうちに彼女の手を引っぱり上げて立たせる。乱暴を詫びる余裕はなく、反対の手でズボンのポケットに手を突っ込み千円札を何枚か抜き取る。一番近くの店員に自分たちの座っていた席を指差し、それを押し付ける。店に入って来る客とぶつかる。謝る余裕はない。僕たちに罵声を浴びせる者はいなかった。間に合え、間に合え、間に合え。間に合え、間に合え、間に合え。間に合え、間に合え、間に合え。間に合え、間に合え、間に合え。願いながら、もう手遅れであることが分かっていた。彼女をほとんど引きずるようにして走る。乱暴にタクシーを止めてアトリエの住所を告げる。僕の顔を見るなり運転手は何かを察して乱暴に走り始める。ほとんど暴走に近い運転に合わせてさらに鼓動が早くなる。何度も君に電話する。機械のような音声案内に腹を立てる。彼女も何かを察して泣きながら、金をあらかじめ運転席と後部座席の間、車の真ん中に置かれた青色のトレイに置く。「お金、置きました、1万円です。」と祈りの言葉を唱えるように何度も繰り返す。運転手は大丈夫と答える。彼女の言葉全てに大丈夫と落ち着いたトーンで返事をする。今でも君が住み続ける僕たちのアトリエに着くと彼女の手を握りしめて、階段を駆け上がる。鍵を差す手が震えて上手くいかない。左手で右手首を掴み、鍵を差し込む。








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