第6章

君の恋人とは下北沢の喫茶店で初めて言葉を交わした。その日の僕は、店内で流れるジャズを偉そうに説明する君を眺めながら君の死について考えていた。異様に鼻につくにおいの煙草を吸い、珈琲をよく冷ましながら飲む姿を見つめながら、死について考えていた。君が好むものはいつでも君を死に追いやる気がして心の中に不安が降り積もっていく。君のトレードマークの煙草は死ぬために吸っているような気さえした。煙を吸うたびに死が君の肺を悪戯に駆け回っているのを感じる。吐き出される煙、取り残される煙、おいてけぼりの死のかけらが肺を黒く染めていくことを想像して僕は泣きたくなった。実際に涙を流したことだってあった。君の煙草を吸う量は増え続けるばかりだった。自分を黒で満たしたくてそうしているのではないか?なんて問い詰めることは出来なかった。僕はいつも何もしなかった。望むほどに手に入らないと諦めきっていた。求めた後に望む結果が得られない絶望に勝てる心を持ち合わせていなかった。勝手に期待して、裏切られて、憎むなんてしたくなかった。それでも求めてしまうのは、弱さなのだろうか。そんな僕の心の声に君は気がつくことは勿論なく、ジャズの話に飽きるといつも通り作品展示の手伝いを無償でして欲しいとさも当たり前のように頼んでくる。君はもっと素晴らしいアシスタントを選べるだろうに。

あのときの君の周りはなんだか騒がしかった。同じ大学をずいぶん前に卒業した知名度の高いアーティストがSNSで君の作品を取り上げたことで、絵が売れたり、取材を持ち掛けられたりなんだか色々あるらしかった。新進気鋭の芸術家として注目を集め、インタビューの見出しには枕詞のように”新進気鋭”と付けられる。新たな才能を自分こそが発見したのだと大人たちは躍起になる。「俺はいつもここにいた。ずっと描いていた。」と、君は怒りながらケーキを食べる。いつも頑なに珈琲しか飲まない君がケーキを食べる姿を見て、戸惑っていることが手に取るようによくわかった。イケてる自分を演出したい若者によってSNSに投稿された写真は、作品そのものよりも自分の顔や身体を綺麗に見せるために施した加工で君の絵を歪ませて、なんだか違うものみたいだ。生きるために絵を描いていた君は言葉には出さないけれどファッションのように消費されることに悲嘆しているようでもあった。君は有名になることなんか必要ないと消えてしまいそうな声で言った。誰かの心の奥に閉じ込められたいと言った。僕は胸が苦しかった。歯車がズレていくのを肌で感じた。ケーキを食べ終えると急にいつもの調子を取り戻して勝手に打ち合わせを始める。僕をまだ頼りにしてくれていることに安心しながらメモを取った。  

喫茶店に着いて一時間が経過したころ、突然テーブルの上で君の携帯が激しく振動した。何かを手際よく打ち込んだと思うと、店員を呼び止めて自分の好きな珈琲を新たに三つ頼む。「今から恋人がくるから。」それだけ言うと巻き煙草のセットを取り出し、作り始める。珍しくいびつな形の煙草ができた。数日前のキスを思い出して虚しい気持ちになる。それから五分もしないうちに「お待たせしました。」と控えめな声量で言いながら彼女はやってきた。彼女を見て僕は驚く。大学でよく目立つ顔の造形が美しいとてもかわいい子だった。外したマフラーの静電気で広がる髪を恥ずかしそうに手で押さえながら、僕に向かって自己紹介をする。珈琲に喜ぶ言葉を添えた気もする。あまりに短い間に想像していないことが起こったのでどうでもいい情報ばかりが脳内に巡る。彼女は僕たちの一つ下で大学二年生だ。入学当初はその容姿からよく話題に上がっていた。しかし、あっという間に才能ある院生の男と付き合っていると噂になり、男たちの落胆と共に彼女の話題は減っていった。それでもなお構内の男たちは未練がましく彼女に視線を送り続けていたけれど。けれど、いい方の話題は長く続かず、次第に彼女の噂は不穏な空気に変わった。彼女が入学した年の夏に内腿に自分で切り刻んだ傷跡があると噂が流れた。羨ましい対象だった彼女のたった一つの暗い噂は原型がなくなるほど膨れ上がり、彼女はまるで人を殺しかのような、もはやそれ以上の罪人になり、噂によって裁きを受けた。目立つ人間は大変だ。誰も真実を知らないのに、誰もが彼女自身であるかのように語った。僕はそんな彼女になんとなくただ一人の親友を重ねていた。僕が言葉を返さずに回想に浸っていると、不安そうな瞳が視界に飛び込んでくる。僕は慌ててあまりの素敵さに呆然としたと言った。二人は笑った。安堵して僕も自己紹介をする。僕たちはごく自然にあっさりと打ち解けた。彼女はあまり声が大きくなくて、正確に聞き取るためには注意深く声を拾う必要があった。聞き漏らさないよう耳を澄まし、唇を見つめる。たまに澄んだ瞳と目が合って笑いかけられると、全てを見透かされているようで恐ろしくなった。慌てて珈琲を流し込み正気を呼び戻す。気持ちを落ち着けて話をすると、二人の話し方がよく似ていることに気がついた。乱暴さが無い分、彼女の方がより丁寧に言葉を発しているように感じるけど本当によく似ていた。唯一違うのは、彼女は何かを伺うように間違えないように慎重に話すことだ。僕たちはその日、何時間も話してあっという間に打ち解けた。その日から僕たちは三人でよく顔を合わせるようになった。一ヶ月も経たないうちに僕の提案で彼女はアトリエにも遊びにくるようになった。僕が提案するまで一切アトリエには足を踏み入れず遠慮してくれている二人のことが好きだったけど、君が一人にならないことの方が重要な気がしたから。それにしても彼女は僕たちの間に本当に自然に入って来た。君といると映画に出演しているように感じることがある。必要なタイミングで必要な人が現れる。僕も君が主演を務める映画に選ばれた一人。そんな気がする。新しい役者に選ばれた彼女は僕たちの間を空気のように満遍なく包んだ。進路の変更による気まずさやクリスマスに交わしたキス、君を囲む大人への不安を彼女が緩和してくれた。それは心地のいい感覚だった。僕は二人をたくさん映像に収めた。整った顔立ちの2人は美しくも可愛らしくも見えた。彼女は服にお金をかけるタイプらしく、いつもこだわった服を着ていた。ボロボロの服を着続けている君が隣に並んでも様になるのはどういうことなのかはよくわからなかった。今年の誕生日にはいい服を買ってやろうと思った。二人を見ていると中学生の時のような無限の創作意欲が湧いた。ふとした瞬間に生を放棄した目をする二人を、ガムシャラに生きさせたり、殺しあわせたりした。どうやってもしっくりこなくて、僕は夢中で創作し続けた。僕はすでに就職が決まっていたので戸惑ったが、就職するまでの気分転換だと自分に言い聞かせた。これ以上ない幸福を手に入れたと思った。幸せだったのは、僕だけだったのだろうか。傷だらけの君たちの世界に、空っぽの僕はどのように映っていたのだろうか。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る