第4章

この部屋に来てから時計が一周したらしい。煙草は半分くらいが無くなって、箱の中がいくらか寂しくなってきた。約束の時間の数字を時計の針が追い抜く。彼女は来てくれるだろうか。僕たちは弱い。少なくとも僕は弱かったし、今でも弱いままだ。二十歳のとき、僕は自分の心の弱さに近づいて怯んだ。弱さは何層にも積み重なっているようにも、無限に広がり続ける砂漠のようにも思えた。自分はいつだって弱い人間だったと認めたのも、強いふりをすることを諦めたのもその年だった。


僕と君は高校生活も中学時代と同じように過ごし、日本で一番と言われる美大に進学した。その期間の語るべきことを探せばいくらでも出てくるけれど、彼女が来る前に大切なことを思い出しておきたい。僕がいつも思い出すのを拒むのは、僕たちが二十歳を迎えたことを記念してアメリカに旅行に行った時のことだ。二十という数字がどうしてそんなに特別だったのか分からないけれど、とにかく僕たちはその年齢を共に迎えたことを祝うことにした。大学二年の冬だった。最初の一週間はニューヨクの知り合いの家にお世話になった。その人は君の才能に惚れ込んでいて、美術館に案内してくれたり、友人のアーティストを連れてきたり、とても親切にしてくれた。僕は君のおまけで自分に興味を持たれないことに慣れ始めていたので、目立たないように気を配って過ごしていた。そんな僕の気持ちを無視して、君は僕のことをみんなの前で褒めた。夜には僕の作ったショートムービの鑑賞会を開いた。僕は気まずい思いで自分の作品について早口に語った。それは夢を持っている人間の態度では無かった。みんな重い思いの言葉で褒めてくれたけど、純粋に興味を持っているのは君だけなことは明白だった。君は日本にいる時と変わらず僕を憧れの眼差しで見つめた。その時間と観光以外、君はいつも通りどこでも絵を描いていた。僕はカメラを回してその姿を収める。親切な知り合いたちは君が描くのを見つめたり、競うように絵を描き始めたり熱意に溢れていた。彼らの熱意で地球が回っていると言われても信じてしまいそうなほどだった。僕は心が挫けてしまいそうだった。レンズを覗き込んでいると、現実とは違う世界を見ているようで安心した。僕は自分の惨めさを忘れるためにレンズ越しに傍観し続けた。ニューヨークを離れる頃には、僕の惨めな逃避行に気がつかない情熱家たちに「映像への熱心さに感激した」なんて称えられ強く抱きしめられた。中学生のときのように嘘の自分だけが一人歩きする。遣る瀬無い気持ちをキャリーケースの奥に押し込んで、飛行機で次の目的地のロサンゼルスに移動した。ロサンゼルスの街は夜に到着したにも関わらず元気よく輝いていた。新宿のネオンより美しく感じるのは電圧の問題か、僕たちが他所者であるが故なのかなんて話をした。君はひどく居心地が悪そうだった。カジノをすることも洒落た店でディナーすることもなく、ふらりと街を彷徨い歩いた。僕は熱心に君の写真を撮った。光と陰。反対のもの同士が同じ枠に捉えられるだけでどうしてこんなに美しいのだろうか。僕たちは疲れていたし、次の日は朝五時に集合してグランドキャニオンに行くことになっていたので早めにホテルに戻って眠った。僕たちは幼い頃から親に余るほどのお金を与えられ続けていたけれど、今回の旅行はアルバイトの金を貯めて来たのでなかなか不自由が多かった。おかげで君とならどんなことが起きても楽しいと実感もしたけど。

翌日の早朝のツアーは、国籍も話す言葉も違う人と同じバンに詰め込まれ、長い時間をかけてグランドキャニオンを目指すもので、本当に何時間も車にゆられ続けた。往復で約900キロの距離を知らない人の隣で迷惑をかけないように座るのは、休憩を挟んでも厳しいものがあった。それでもただただ広い道と砂漠を自分の目で見ると感動した。空には作り物のような立体的な雲が浮かんでいた。映画の世界に居るようで、自分の好きなシーンを重ね合わせて興奮したりもした。けれど感動はすぐになれるもので、四時間を超えたあたりから徐々に苦痛の方が強くなった。巨大な渓谷への希望を胸になんとか乗り切った。君はいつも通りメモを取ったり、スケッチをしたりしていた。僕は数枚の写真を撮っただけだった。

コロラド川の侵食により形成された渓谷、グランドキャニオン。それを目の当たりにしたとき僕は恐ろしくなった。同じ学科の友人は、グランドキャニオンを見て自分の悩みがちっぽけに感じた、なんて鼻の穴を膨らませながら意気揚々と語り、僕の旅行を知ると付いて来そうな勢いでうらやましがった。そんな友人の楽観主義は筋金入りだったことを思い知る。僕は慄然としたのだ。圧倒的な大きさの自然の壁たちは僕自身のちっぽけさを容赦なく剥き出しにした。自然はただそこにあって、誰にでも平等だ。僕を見た目だとか持ち物で優遇してはくれない。防寒のために親の金で購入したお気に入りのノースフェイスのダウンが急に恥ずかしくなった。今すぐに脱ぎ捨てて泣いてしまいたかった。僕自身は何も持っていないと叩きつけられた。立派な実家も整った顔もここではなんの意味も持たない。目を閉じると、着てきたはずの衣類が一枚ずつ脱がされる。皮膚が剥ぎ取られ、肉を毟り取られる。掴み、投げ捨てられる。心臓をめくり、魂だけが大切に取りだされる。僕は初めて自分自身と対面した。僕はもう限界だった。もう無理だった。それは大学に入学してすぐに感じ始めていた。映像研究科に入って、初めて君以外に同じ夢の方向を向いている仲間ができた。正確に言えば、絵画科の君より自分と近い道を目指す人間に出会った。大学入試のために予備校に通っていたときでさえ君との二人の世界からはみ出さなかったのに、大学に入学して学部が離れると流石にそうは行かなくなった。新しい世界には広がりなんてなかった。自分より知識を多く持っている人が当たり前のようにいてそれだけだった。人生をかけている人、楽しんでいる人、苦しんでいる人、多くの人間に出会うたびに僕の心は試された。みんな夢に熱を燃やしている。嫉妬は一切生まれなかった。僕にあるのは無関心な寂しい心だけだった。僕の心に火が付くのは、君との共同のアトリエに帰って話をするときだけだった。その火も今では小さなキャンドルの灯火ぐらいしかなかった。かろうじて形を保ちながら、何かを誤魔化すように甘ったるい匂いを放つだけ。その静かな火もたったいま消えてしまった。僕は気がついていることに気がついてしまった。僕は君と居たかっただけであることを。君へ恋心を抱いていることを。映画への関心も、芸術を好きなのもいつからか君の気を惹くための手段に過ぎなくなっていたことを。君以外と世界を見つめても意味がない。自分だけで突き進むほどの情熱もない。君についていく気力も日々少しずつどこかに落としてしまった。そんな僕の隣で君は命を燃やしていた。情けなかった。君はいつでも作品を創り、それを通して人生に向き合っていた。その時間は苦しくて辛いことを熱意が消えて惰性的に作品を創る僕にでさえ嫌になるほどわかっていた。自分を客観視して醜さをむき出しにする。それを否定されることも少なくない。媚びるように取ってつけたような優しさや汚さを表現しても誰の心にも響かない。自分を省みる。情けなくて、軽薄でどうしようもない自分を引きずり出して表現する。汚い。それでも自分の中から捻り出す。気持ち、経験、思い。作品が完成する度に自分が薄くなっていく。削って、削って、削り続ける。湧き上がるモノなんか無い。僕はもう全てを失っていた。グランドキャニオンを見つめながら確信した。もう映画監督になる夢を追い続けられない。僕は頑張った。美しい虚像を創るために、何にも興味の無い自分を受け入れようと挑戦した。何度も試した。涙だって流した。本来なら見て見ぬ振りをできる虚しさを追い求めた。追い求めると、人間は誰でも痛みを持っている。家族にもお金にも困ったことのない恵まれた自分の中に暗い沼を見つける。かわいそうな自分に恍惚な表情を向けて溺れていると、時々、甘くて優しいどん底に出会う。暗くて寂しいその底は案外居心地が良い。現実の後悔も、叶わない恋も、完璧な家族も、挫折も取り除いた自分だけの真っ暗な世界。これ以上の失敗をしなくていい理想郷。自分で仕立て上げたかわいそうな自分から抜け出せない恐ろしさは魅惑的だ。不幸なことに僕はどんなことがあってもその中に没入することができなかった。僕は精神的に強いと褒められる。僕は弱くて小心者だから、かっこ悪さをどうにかごまかしながら生きているだけなのに。順風満帆に育って来た自分と安定した将来の安心感を捨てる勇気がないだけなのに。僕は精神の強い人間だからこそ、沈まないと思っていた。でもその強さは弱さを知らない見せかけの代物だった。何事においても深く沈み込んだことがなかっただけだった。底を見て見ぬ振りして、すぐに浮かび上がるだけの簡単なことだ。僕はそれを認めた。大学に入学してから、夢を諦める言い訳を探し続けた日々を。視界を埋め尽くす巨大な岩に言い訳するみっともなさすらももう持ち合わせていない自分を。人は自分を知るほど自分の愚かしさを知る。人間にできるのは、そのことを認めてもがくか見て見ぬ振りでとにかく生活を保つかだ。僕は後者で、受け入れたものにしか見ることのできない世界を見ることを放棄した。自分を守ることに徹することを決めた。大事な君を捨ててでも、僕自信を守りたかった。君に夢を見続ける約束を果たせないことを伝えなければいけない。それがどんなに残酷なことか分かっていても。君は絵画で、僕は映画で有名になる。大学に進んだら院に行く。院に進んだら休学して二人で映画を撮る。高校生のときに交わした子どもじみた約束を小さく口に出してみる。口から放たれた言葉はどこに行くのだろう。言葉の行方を捜して途方にくれた。人々が発し続けた言葉がまとまって落ちてきて今すぐに世界が終わればいいのに。両親は僕が安定した収入を得ることを望んでいるに違いない。人のせいにして自分を納得させる。グランドキャニオンからの帰り道もバンに揺られながら言い訳ばかり考え続けた。旅行から帰る飛行機では、大学院に進まないこと、就職活動を始めることを決意していた。君に出会って夢を見てしまったことを後悔もしていたと思う。僕はどこまでも情けない人間だ。


旅行から少しして僕たちは一つ進級した。課題をこなしたり、絵を描く君を眺めたり、就職先を考えているうちにあっという間に冬になった。何も成し遂げていない自分にとっての月日の流れの早さは驚異的なスピードだった。安定した収入の得られる就職先を求めて依頼された映像を制作する会社を探して彷徨った。その間、僕は相変わらず情熱的に生きているフリを欠かさなかった。君は絵を描いて、酒を煽って、イルミネーションで埋められた街の電飾の巻き方が汚いだとか文句を言って忙しそうだった。怒った口調は意思の強さが滲み出ていて、君のことをどうしようもなく好きだと思った。

年内に就職することを報告しようと意を決して、クリスマスの前日に君をいつもの喫茶店に呼び出した。大学院には進まないこと、就職をすることを伝えるためだ。緊張で胃が締まり、水のような唾が口中に広がった。我慢できずにハンカチに唾液を染み込ませる。三十分ほど約束の時間に遅れてきた君は謝罪の言葉を口にするでもなく当たり前のように席に座り珈琲を注文する。見慣れた小汚い服装は少し大人になった顔の君によく馴染んでいた。同じような服装の人を見かけることがあるが、君より汚い人にも、しっくりきている人にも出会ったことがない。服の話になると、今はもうおしゃれのためではなく生きるために服を着ているとよく言った。裸だと捕まるから着ているらしい。袖についた絵の具を愛おしそうに見つめる君が可愛くてスマートフォンの写真に収めた。珈琲が席に運ばれてくるまで君は次に創る作品の案を語った。どうやら葬式中に踊る男を撮りたいらしい。多くの人が故人を悼み、悲しみに暮れる空間で静かに踊る男を想像してみる。正座する人々の間に足をそっと差し込み、静かに踊る。男には非難の視線が注がれる。男は視線にまるで気がつかない。そんなものには気がつかないふりをして、徐々に踊りに激しさを加える。男はまるで僕みたいに滑稽だろうか?僕にはそれが面白いのか、面白くないのかもう判断する事ができなかった。ただ、それが僕たちの約束を果たそうと考えられたことだけは理解できた。君は大学に入ってから絵ばかり描いていた。君は画家になることが一番の目標だったから、映像は手伝い程度だったし、絵を描くことが何よりも好きなことを知っていた。僕たちはいつだって高校生のとき語り合った夢を大学に進んでからも酒の勢いに任せて確認し合っていた。二人の人生をかけようなんて、アルコールで気を大きくして具体的に話し合った。僕の嘘に君はおそらく気がつき始めていた。それでも僕と語りたがった。僕を焚き付けようとしているのは明白だった。だからこのタイミングで夢を叶えるための作品作りを切り出したんだろう?君はいつも何かを伝えたくて苦しんでいた。何かを伝えるために生きていた。それだけの人間だ。作品を産む。体調を崩そうが、泥酔しようが、何があっても一日だって休まない。どうしてそんなに自分を酷使できるのだろう。君の目に全てを諦めた僕はどう映るのだろう。君は他人には徹底的に寛容であった。きっと一番近い僕にも何も言わないだろう。それは人に対して諦めているとも言えた。珈琲が運ばれてきて話が中断されたところで、大学院には進まずに就職することを伝えた。自分の口から唾が飛び散るのがスローモーションで見える。机の下に潜らせた手は細かく震えている。君はそうかと一言だけこぼして、映像の話に戻った。話しながら細長い指で器用に手巻きタバコを作り始める。ペーパーの上にジャグを乗せて簡単そうに巻いていく。目線は煙草から離されることはなかった。突然、珈琲を一気に喉に流し込むと、この作品だけは手伝えと僕に言った。君は珈琲代を置かずに帰っていく。丁寧に巻かれた煙草が何本もテーブルの上に残されていた。それを指で転がしてから潰した。僕を責めてくれるのはチクチクと指先に伝わる静かな痛みだけだった。

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