第3章

眠りから覚めると絶望する。毎日のことだ。君が隣で薄い唇を少し開けながら寝ていることを期待して瞼をゆっくり開けるけど、安心しきった可愛い寝顔を見せることはもうないから。こっそり唇をつまんで唇を重ねることも、綺麗な鼻筋を指でなぞってみることもできない。頭皮のニオイを嗅いでみたり、耳に息を吹きかけたりして君を怒らせたいのにそれもできない。少し機嫌が悪そうに私を抱き寄せて二度寝する君はもういない。目を閉じて、空気をなでる。頭の形を確認するように髪を撫で、瞼を親指でゆっくりとなぞる。数えきれないほど繰り返した行為をなぞっても、君の形も感触も思い出せない。声はとうの昔に分からなくなってしまった。君の低い声が好きで、呆れられるほど惚気ていたのに。君を確認する方法なんていくらでもある。写真に動画、お互いを描きあった絵、木を掘って作った不恰好な君、数え切れないほどあるのになんだかどれも嘘みたいだ。世界が私を騙すために作ったみたい。中学生のときに歴史の教科書に載っている偉人全員を虚像だと思っていたことがある。いま存在する自分たちの辻褄を合わせるために頭のいい誰かが国の偉い人に頼まれて作っているんじゃ無いかって。会ったことも無い人間をどうやって信じたらいいのか分からなかった。会えなくなってしまった君は今まさにそんな感じ。私が絶望的な現実を生きるために作り上げた偽物の記憶。そうならいいのに。そしたらまた作ればいい。でも自分が過ごしてきた時間を簡単に誤魔化すことなんかできないの。いつまでも会えないことに気がつかないフリをしていられない。今日が認める最後の機会だ。これを逃したら今度は本当に空想の世界に閉じ込められてしまう気がする。君がいつもしていたようにグミを噛んでから珈琲を口に流し込む。気持ちを整理するために君のことを思い返す。記憶の中でセミが必死に鳴いている。


とても暑い夏だった。私が美大生になって初めての夏は、記録的な猛暑で誰しもが少なからずくるっていたように思う。そんな夏に私は非常に居心地の悪い思いをしていた。君の展示会の準備の手伝いに駆り出されて一週間が経過していた頃だ。準備は展示の主導者で一つ上の学年の君の部屋で泊まり込みで行われていた。その部屋は学生の一人暮らしと思えないほど立派で嫌味だった。ここの他に共同のアトリエも持っているらしくて、自分の惨めさを浮き彫りにされたみたいでそれも私の気持ちを暗くする理由のひとつだった。メンバーは私を含めた年齢がバラバラの7人で、長い時間を過ごしていたけど私だけ距離を縮めることができず紛れ込んだ異物のようだった。それに加えてこだわりの強い君の要求の多さによる忙しさと、睡眠不足でナーバスな気持ちは止まらず、負のビンゴカードは次々と穴が開いて私は限界寸前だった。睡眠不足の人間が抱える気持ちにろくなものは無い。気持ちを落ち着かせるために隠れるように誰もいないベランダに逃げ込んで、涙を身体に戻すために空を見上げる。真っ暗な夜空で視界を満たすと少し安心する。ゆっくりとした深呼吸を繰り返すうちに気持ちが徐々に落ち着いてくる。気が緩んだ途端にお腹が空く。何か食べ物が入っていることを期待して鞄の中を探すことにした。ベランダ用のスリッパを脱ぐことが面倒で、上半身をベランダから部屋に押し込んで、無造作に置かれたカバンの群れから自分のものを引っ張り中を漁る。幸運なことに友人にもらったグミが出てくる。普段なら自分で選ぶことの無い着色料の塊がイヤに心に染みるのは、頑張れ!なんて袋に書かれているからだろうか。ベランダの手すりの外側に手を出して袋を空に掲げてみる。原材料の文字を目で追いかけたり、熊のキャラクターをつまんで眺めていると、後ろから袋の中に指が入ってくる。細くて、白くて、長い。関節だけが太く骨張っていて男の人だって分かる。手の行方をジッと見つめていると、赤い熊が親指と人差し指に抱き締められて宙に浮く。反射的に熊の行方を追っていくと、天を仰ぐような体制のまま君と目が合う。背丈があまり変わらないのでキスしてしまいそうな距離だけど、君はそんなことを気に掛ける様子もなく「僕これ大好き。」と笑う。少し笑顔の胡散臭いあなたのせいで私の貴重な夏休みが気まずい思いに支配されている、と文句でも言おうと思ったけれど、自分の性格の問題であると思い直して言葉を飲み込む。そんなことを考えているうちに君の話は勝手に進んでいて、その身体に悪そうなお菓子は友人に貰っただけであることも、そんなにすきでは無いことも言い出す機会を失う。君の低い声をただ味わっているうちにそれは君と私の共通の好きなモノになっていた。その場しのぎで人に適当に話を合わせて人生をやり過ごしてきた私は、世の中に多数存在する趣味や感性が同じ人はどちらかの勘違いで成り立っているのではないか、という疑問を証明できた気がして心の中で少しだけ得意になっていた。思い返しても嫌な持論だが、今でもやっぱり間違っていない気がする。

その些細な夜のおかげで君と気軽に話すようになった。最初から君は手伝いに来た全員のことを気にかけて話しかけたりしていたから、きっと特別なことではなかったけど私は嬉しかった。素直さが足りない私が、惨めさを盾にして受け取れなかった優しさを素直に受け取ることができたから。その次の日の夕方に作業は終了し、夜には部屋で打ち上げが行われた。隣に居続けてくれた君は、お酒のせいで少し呂律の廻らない話し方で、最後の仕上げは一緒のアトリエに住む親友と二人ですると嬉しそうに話していた。接点が無くなってしまうことに落ち込む私には気がつかず一方的に親友について語る君はとても幸せそうだった。悲しい気持ちを抱えたことが無駄なくらいに次の週には君に呼び出され、関わりは続いた。何かにつけて手伝いに駆り出され、多くの時間を一緒に過ごすようになった。君の人使いの荒さによって手伝いは常に不足していたから、二つ返事で駆けつける私は君の中で貴重な存在に変わった。私は優しい人間だから二十四時間営業のコンビニみたいな役割をしていた訳ではない。君のことが好きだった。あの夜から私は君のことが好きだった。関わる度に君の作品作りの姿勢に尊敬を抱いた。尊敬は恋を加速させる。君に釣り合うようになりたくて、自分の作品制作にも前より集中するようになった。そんなふうに過ごしていると時間は流れるように過ぎた。初めて話してから二回目のクリスマスに君とキスをした。意外とロマンチックな君が愛おしくて笑った。無色の関係に恋人という色がつけられた。とても良いと思った。

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