第2章

 火が煙草を飲み込んでいく。白い影はまだ僕の視界に入り込もうと画策している。どうやら風と共謀しているらしい。困ったものだ。久しぶりに吸った煙草に慣れることはなくて、僕はひどく安心する。今日が無事に終わったらもう二度と吸うことはないだろう。右手でコンビニで買った安っぽい青色をしたライターに火を点けて火が揺れ動くのを眺めながら余った手で上着のポケットの中を探り小さな紙を取り出す。高校生のときに一度だけ犯した罪の証が姿を現す。君の名前が書かれた図書室の貸し出しカードは全体が黄色くなり、名前は掠れてほとんど読むことができない。名前を読み上げてから火を近づける。火がカードに移って燃え始める。大切にしていた時間と消えゆく時間はいつも通り反比例で、侵略する火によってあっという間に君の名前が灰になる。ああ、僕は泣いてしまいそうだ。時間はなかなか進まない。


 君と僕は当たり前のように同じ高校に進んだ。君と僕との間に起こる出来事は全てが必然で、君の引き寄せる力に僕は争うことができなかった。僕は生まれたときから両親によって進学する高校が決まっていて、偏差値の高い高校に進むための勉強を幼稚園の頃からしていた。君はそのことを知ると僕と同じ高校に進学すると決めて、すぐに猛勉強を始めた。中の上くらいの成績は維持していたようだが、僕の目指す高校に入るのは絶望的だった。でも君は同じ高校に進むと言って聞かなかったし、同じ道に進むことが僕たちには分かっていた。僕は二人とも合格したら、両親に映画監督を目指すために美大に進みたいことを打ち明けると決めた。僕は君が居ればなんでもできる気がした。厳しい一年を君が耐えてくれたおかげで、僕たちは同じ高校に進学することが決まった。合格発表を見て僕はすぐに家に帰両親に映画監督になると宣言した。美大を目指したいと言った。多くの習い事を辞めたいとも言った。もっと自分のことにのめり込みたかった。自分で決めたかった。両親はひどく驚くことは無かった。君に出会ってからの僕の変化の理由が分かり安堵しているようにすら見えた。それでも母は複雑そうな顔をした。父も厳しい顔をしたけれど国立の美術大学を目指すこと、上位の成績を保つことを条件に僕を許した。その結論に至るまでは季節がひとつ丸ごと変わるほど話し合いが持たれたが、僕は一度だって折れなかった。話し合う中で両親が僕に父と同じ医師になることを求めていることが痛いほど分かった。だけどどうしたって譲れなかった。家族より大切な人や信じたいことが出来た自分に戸惑い罪悪感を抱いた。僕の将来の選択を増やしてくれたのは意外なことに医学部に入学したばかりの兄だった。普段は関わりの少ない兄が、弟の分も頑張るから、と両親を説得してくれた。一度方向性が決まると家族は僕を責めることを一切やめた。頭が良く、冷静で、優しかったので話がまとまると引きずって文句を言うことなどしなかった。特に一度決めてからの母は強く、君との約束を嗅ぎつけて、君の家族に挨拶に出向き、すぐ仲良くなった。美大に進学できたら僕たちが一緒に住むことを決めてきたときには驚いたけれど、それも遥か昔から決まっていたことのように僕はすぐに受け取ることが出来た。母は僕の気持ちを見透かしていたと思う。確信はないけれど、きっとそうなのだ。


 僕はどれだけ君と過ごす時間を重ねても、一緒に住むことが決まっても、君の家庭事情についてはよく知らなかった。家族構成がどうだとか、血液型だとかプロフィール帳を埋めるような付き合いを君は嫌った。家族のことや幼少期のことについて隠したいことがあるようだった。僕は踏み込まずに君が話してくれるのを待っていた。代わりに好きな画集を知っていたし、好きな本も、その中のセリフも、珈琲のこだわりも知っていた。そのことの方がよっぽど意味のあることだと信じていた。待つことと信じることしか能のない僕は、自分のことも同じように特には話さなかった。会話をしていると説明的に組み込まれることはあったが、それは生活する中で通り過ぎる景色と同じようなもので、それだけだった。僕には特別に話すべきことがなかったとも言える。優しい両親と兄のいる家庭に生まれて、特に何かを深く思い悩むことなく生きてきた。君への恋心もまだ自覚していなかった。母親の教育熱心さに疲れる事もあったが、多くの愛情を与えてもらっていたので些細な問題に過ぎなかった。僕は本や映画を通して他人にはそれぞれの事情があることを理解しているつもりだった。親を大切にしなくてはいけないだとか、人は平等に愛されるだとか社会の”普通”に疑問を持っていた。普通でいられるのは最初からそれを与えられた人間の特権だと分かっていた。だから恵まれている僕には語るべきことなどなかった。幸せなごく普通の家庭が君の前だと恥ずかしいような気さえした。僕には無い優しさを持っている君の方が持っている人間だとさえ思っていた。全く似ていない両親と敬語混じりに話す君を、無限に物を買い与えられる君を、目が死んでいる君を心の底から羨ましいと思った。闇も苦しみも全て知っている優しさに羨望の眼差しを向けた。そんな幼い自分を軽蔑する。知ったつもりの自分に自惚れて気持ちよくなっていただけだった。君に近づくほどに、君の目を覗き込むたびに、自分の浅はかさを思い知らされた。何も映さない君の目は冬の夜空より深い暗闇だった。星は輝きを失っている。誰もが君の真っ黒な瞳の中に取り込まれて自分を失う。君の目頭にそっと人差し指を差し込んで、眼球を取り出す事が出来たらどんなに良かっただろう。目を閉じて空洞になったその部分を思い描く。そっちの方がよっぽど僕を捉えている気がする。この世の全ての悲しみをひとつずつ削いでいきたい。君のためにそうしたかった。それで何かがこの世に生まれなかったとしてもよかった。悲しみを消し去ったらきっと感動する作品に僕たちは出会う事が出来なくなる。感動なんてものは結局、誰かの現実と苦しみを経て生まれてくる。現実はいつでも厳酷だ。冷たくて、痛くて、簡単には終わらない。取り除くことなんて永遠にできないかもしれない。そんなのもういっぱいだ。ナルシスティックだった綺麗事は本心に変わった。でも君はそんなことを望んでなどいなかった。作品として苦しみを表現することこそが自分への慰めで、悲しみで、怒りでだった。君はそれ以外の自己表現や感情表出の方法を獲得しないままここまで成長してしまったし、それは誰かが教えてあげられる種類のものでは無かった。絵を描いているときの君は目も当てられないほど弱くて、痛々しくて全てを取り上げてしまいたかった。自傷行為そのものだった。四肢を切り取ってやりたかった。そうするべきだとさえ思って、高校二年生の終わりに電動のノコギリを買った。大学に進んだら本格的に終わりだと思った。君は絵を学ぶ。今より描く量はさらに増えるだろう。君は絵に救われることを信じている。けれどそれは君を慰めはしない。絵に殺される前に、その前に君を綺麗に切断してあげられるように練習した。高校三年生の夏にはかなり硬いモノも切れるようになった。上達するにつれて、何が正しいのか分からなくなる。僕はおかしくなっていたのだろうか。


僕は、頭が、おかしくなっていたのだろうか?

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