第1章

 出会った瞬間から君を忘れられなくなることを僕は分かっていた。それは、生まれた瞬間から死に向かっていくのと同じように、自分の意思で避けることではできないと僕は直感的に理解した。あの瞬間から僕の視線の先にはいつでも当然のように君がいる。それは今も何ひとつ変わらず、僕はとても苦しい。


 出会いは中学校の入学式だった。出会ったという言い方は僕にとって都合が良すぎるかもしれない。僕が君を一方的に見つけた。君への気持ちが、あのときの胸の高まりが、初恋だったと今なら素直に認めることができる。一目惚れの恋だった。君は容姿があまりにも美しく、多くの視線の先にいた。切れ長で奥二重の目も、神経質な芸術家が創ったような整いすぎた鼻も、隙間ひとつなく閉じられた薄い唇も、どこを切り取っても綺麗で、神聖で、目で追うことを自制できる者などいなかった。背は低く身体の線が細すぎたが、皮膚を突き破りそうなほどに浮き出た頑丈そうな骨と濃く太い眉が人間らしさを強調し、造形のアンバランスさが奇妙で魅力的だった。あらゆる視線から逃れるように伸びている長めの前髪と、流行を無視した手入れの間に合っていないウルフカットすらも人を魅了する武器の一つとなり果てていた。君はどのような身なりをしていても人を惹きつけてしまう運命を背負っていたように思う。

僕と君は幸運にも−少なくとも僕にとっては幸運にも−同じクラスだったけれど、どれだけ時間が過ぎても短い挨拶以上の言葉を交わす機会は訪れなかった。君はほとんどの時間を一人で静かに過ごしていた。仲間はずれでもなく、ただ一人だった。君と友達になろうと試みる人は多くいたし、君はそんな人たちを受け入れて数週間ほど行動を共にすることもあったけど、気がつくと一人に戻っていた。気まずさの気配も無く、最初からそうだったように君は一人だった。一人の君は教室で人目も憚らず本を読み耽っていた。思わずギョッとするような恐ろしいタイトルの本から気恥ずかしくなるようなものまで、あらゆるジャンルの本を読んでいるようだった。君は長い前髪であらゆる視線から逃れているように見える一方で、人から判断されることに対する意識みたいなものがまるで抜け落ちているようだった。自分の容姿は一切飾らず、振る舞いはいつでも自由だった。そんな君の存在はまるで学校の中を猫が徘徊しているようなものとして学校中に受け入れられていた。僕はそんな君のことが羨ましくて仕方なかった。その頃の僕は君とはまるで正反対で、人目を気にせずにはいられなかった。それはほとんど病気のようなものだった。毎朝シャワーを一時間ほど浴びて、耳の裏から爪の間まで徹底して洗った。櫛と整髪料を駆使して髪を整え、身に着ける衣類のニオイを何度も確認した。見た目だけに留まらず、常に表情に意識を巡らせ、どんなに体調が悪い日も理不尽な目にあっても笑顔を絶やさずに過ごした。とにかく相手から見ていい奴であることに全てをかけていた。先生でも友達でも清掃のおじさんでも虫にさえ愛想を振り撒いていた。そんな努力に加えて、幼い頃から教育熱心な両親のおかげで成績は良かったし、運動だってできたので僕は人気者だった。けれど好かれる努力を放棄した君の方が大勢の人に好意を抱かれていた。そもそも君の中には人にどう見られるかという傲慢な自意識みたいなものが存在しなかったのだろう。とにかくそんな君のことを学校中が気にして、一挙種一動を伺っていた。その存在は僕の凡庸さを容赦なく暴く。僕はいつも人に囲まれていたけれど、寂しくて虚しい気持ちばかりが募っていた。作り込まれた僕が僕を置いていく。僕は友達が夢中になっているスポーツや漫画、恋愛にまるで感心が無かった。特に女の子に対する愛情や性欲みたいなことがよく分からなかった。僕と赤ん坊を比べても差が見つけられないほどに分からなかった。それでも相手が求める答えを渡すのは簡単なことだったので、さも興味があるようなふりをしてごまかし続けた。そのうちに偽りの自分の成長を止められなくなった。恋愛以外についても、落ち着いて一人で映画や本を読むことが好きだったけど、それでは誰の興味も引けないので言わなかった。自分の好きなモノを茶化されることが怖くもあった。良く思われたいという自我から抜け出すことができなかった。そのときの僕の世界は学校が全てで、新しい世界に慣れようと必死だった。僕だけじゃない。誰しもが必死で、自分を欺いていた。学校という小さな入れ物で自分だけが異物にならないようにそのように振る舞う必要があった。だからみんな素直に生きる君に憧れた。美しい容姿のためだけなら興味の移ろいやすい思春期の子どもの気持ちなどすぐに移り変わっていただろう。誰もが自分を曝け出すことを諦めたふりをしながら渇望していた。ありのままの自分を好きになって欲しい、本当の自分を知って欲しいと心の中で叫んでいた。僕は君ならありのままの僕を分かってくれると直感的に決めつけて、勝手に期待して、視線に気持ちを込めてぶつけ続けた。なぜあんなに無防備に君を信用していたのか今でも分からない。でも君を信じていた。けれど緊張と嫉妬で話しかけられずに結局は何ヶ月もの時間をただ同じ教室で過ごした。正直に告白すると、君の登校時間に合わせて登校していた。君の好きそうな言葉を聞こえるように言ってみたり、馬鹿みたいなストーカー紛いのアピールをしていた。君とどうにか接点を作りたくて、君の読む本を真似して追いかけた。図書室で貸し出されている多くの本の貸し出しカードには君の名前を見つけることができた。僕は何かに取り憑かれたように定期的に図書室にある全ての本の貸し出しカードを確認した。まるで自分の存在を刻むみたいに君の名前は増え続けた。いつまでも僕の冴えないアピールは届くことはなくて、結局は自分から話しかけた。衝動を抑えるには僕はあまりにも幼すぎた。大人と呼ばれるようになった今でも、君に話しかけない選択肢は思いつかないけれど。人とつるむことをしない君と軽薄が故の人気者の僕。君は僕のことを軽蔑していると思っていた。僕が友達に抱いていたのと同じ見下すような気持ちを僕に持っているだろうと。けれどもうなんでもよかった。天気の良い昼休みに一人で本を読む君のところに押しかけた。図書室の近くの空き教室が君のお気に入りの読書スペースであることを僕はもちろん知っていた。僕は足音を立てないように君だけが居る空き教室を歩き、君の机の前に立った。ヤケクソで「俺も本が好きだ。トルーマン・カポーティの『冷血』とか。」と言った。空っぽの教室は僕の放った声が嫌に響いた。泣き出してしまいそうだった。消えてしまいたかった。沈黙は恐ろしいものだと知った。恐る恐る君の表情を確認すると、君は笑っていた。もう少し気の利いたことを言えと突っ込みたくなるような僕の告白に、君は目を細めて笑ってくれた。「家に本が沢山あるから来るといい。」と言った。僕は奇跡を起こした。恋に落ちて半年が過ぎた肌寒い日のことだった。


 その日の放課後、物心ついたときから一度も休んだことのないスイミングスクールをサボって学校からそのまま君の家に行った。僕は君と並んで歩きながら生まれて初めての勃起をしていて歩き方が不自然になってしまった。心臓は壊れそうなほど暴れていた。世界を救いに行くための英雄になったような誇らしい気持ちも同時に感じていた。勃起した英雄は手のひらに滲む汗を制服のズボンで何度も拭った。

景色を見る余裕もなく自分の挙動だけに注意してただ歩いていると、突然君の歩みが止まる。顔をあげると大きな門があった。門の中には白いレンガに覆われた清潔な家がある。庭は丁寧に手入れされていて、名前の分からない美しい花が澄ました顔で並んでいる。白いレンガは汚れの一つも見つけられないほど清潔で、どのような仕組みになっているのか不思議なほどだった。門をくぐり、少し歩いてから玄関を開けると茶色い犬を抱いた美しい母親が小走りで君を出迎える。君の生まれ持ったもの全てが素敵に思えた。母親は僕を見つけるなり息が止まりそうなほど驚き、今にも泣き出しそうな表情をした。君は“友達”を部屋に入れてもいいかと尋ねる。僕も泣きそうになる。母親は僕たちと話したそうにしていたけれど、傲慢さを出すことなく「いつでも連れてきていいのよ。」と短く柔らかい声のトーンで言った。後で飲み物を持って行くと付け加え、珈琲は飲めるか、何かアレルギーは無いかと本当に心配そうに尋ねた。僕が出会った中で一番優しい人間のように思った。母親よりも細く上品な腕に抱かれた犬の方が君に似ていることには気がつかないふりをした。

君に促されて横幅が広い大きな階段を登ると、二階の廊下の壁には多くの絵画が飾られていた。絵に見守られながら真っ直ぐに進んで部屋に入ると、そこは僕にとっての理想の部屋が広がっていた。天井付近まである大きな本棚からは本が溢れ出して床にまで積まれている。描きかけのキャンバスと描き上げられた大量の絵が溢れ、奇妙で上手いとは言い難い形の粘土作品にレコードやCDも大量にある。No.30と表紙に書かれたノートは君の自作の詩が詰まっていた。僕は自作の詩を隠さない思春期の友達に遭遇したのは初めてで、衝撃的だった。君は自分を誇張することも隠すこともしない。そんな姿に圧倒されているとドアが丁寧にノックされ、母親によって珈琲とケーキが運ばれてきた。犬も一緒にやってきてなぜか僕の足のニオイを嗅ぐ。驚かせないようにそっとしゃがみこんで撫でる。大人しく撫でられている犬を通して君を撫でているような不思議な気分になる。母親が大きなテーブルの上に高級そうなケーキを並べている間に君はレコードを選んで流してくれた。耳に触れたことのないジャズの音が流れ込んできてまた僕を居心地悪くさせる。その居心地の悪さは決して嫌な種類のものではなかった。君は音に合わせて適当な言葉を並べて歌いながら、本棚に手を伸ばして手に取ったカミュの『異邦人』を僕に渡した。「僕はこの本の主人公なんじゃないかと思うことがよくある。僕こそが、トルソーなのだ。」と。真顔で言う。すぐに表情を崩して、「今の冗談は酷いね。」と笑顔を見せる。僕は犬から手を離して本を受け取る。母親はいつの間にか部屋から居なくなっていた。犬が君の足元に移動する。君は犬を抱き上げる。僕が覚えているのはそれだけだ。君の家を後にして僕は現実と夢の間にいるような気持ちになった。頭にモヤがかかり視界が歪む。君の家がだいぶ見えなくなったあたりで僕は道端で胃液を吐き出した。僕は今起こったことが現実のことなのか理解できずひどく混乱した。舌の上に残る飲めないことを言い出せずに口をつけた珈琲の苦味だけが現実であることを肯定してくれる。家にたどり着くと、無断でスイミングスクールを休んだ僕に楽しそうな怒り声が飛んでくる。僕と目が合った母は怒ったフリをすることをあっさりとやめて、楽しそうに話しかけてくる。僕の混乱に気がついて無理やり明るくしているようでもあったし、単純に息子の初めての反抗を面白がっているようでもあった。ごめんと言葉を投げつけて部屋に逃げ込む。制服も脱がずに君が貸してくれた『異邦人』を読み始める。僕は読みながらまたひどく混乱する。自分を納得させるため朝になるまで繰り返し読んだ。君のママンは死んだのだろうか?全く似ていない母親の顔を思い返してそんなことを考える。眠気を飛ばすために覚えたばかりの珈琲を飲む。苦いそれのせいで反射的に涙が出た。カーテンを閉め忘れた窓から差し込む朝の太陽の日差しが強く僕の目を刺激する。


 初めて徹夜した高揚感や君と僕だけの時間の余韻を抱えて緊張しながら教室に入ると、普段と何ひとつ変わらない様子で本を読む君を見つけた。君は僕を見つけるとおはようとなんでも無いように軽々しく言った。眠そうで少し気怠げでもあった。僕は少しムッとしたが、君の冷静さが移ったかのように気持ちを落ち着けることができた。登校してくるクラスメイトは、僕たちが言葉を交わす様子を見つけると僕たちの周りに集まってきた。クラスの中心の僕が話しているなら大丈夫と踏んだようで、ここぞとばかりに君に話しかける。君は誰とでも気軽に話した。みんないい人だと僕に耳打ちした。その話し方は少し丁寧さが欠けていた。いつでも丁寧に言葉を紡いでいたのに。話す度に泣きたくなるほどに丁寧だったのに。だから君の言葉が少し崩れたとき、君が寂しかったことに気がついた。一人でいるのが好きだと決めつけていた自分を恥じた。孤独はいつだって周囲の人間の勝手な妄想によって作られる。僕は君を一人にしないと誓った。

それから僕たちは当たり前のように一緒に過ごすようになった。みんなそのことを自然に受け入れてくれたし自分でも驚くほど違和感が無かった。学校でも休日でも持てる時間の全てを共有した。同じ本を読み、同じ映画に影響を受ける。次第に空間を共有していても無言で君が絵を描き、僕が写真や動画を編集することがほとんどになった。ときには犬小屋を一緒に作ったり自作の詩を読み聞かせ合ったりもした。君との時間は自分を偽らずに過ごすことができた。自己開示をすることは気持ちがよくて、僕は世界が広がるのを感じた。何より君との時間の中で僕だけの君を見つけることが嬉しかった。君を知るほどこだわりの強さに困惑させられたけど。初めて遊んだ日から服装はくたびれた袖の長いカットソーとリーバイスの黒いデニム、疲れ切ったコンバースのチャックテイラーのスニーカーと決まっていた。君は僕を連れて下北沢の古着屋を行き来して安くて自分にしっくりくる服を探し続ける。5時間でも6時間でも平気で探す。最終的にいつもと同じような色と形のデニムに決めるので僕はため息をつく。もう付き合わないと呆れるが、次の週には古本屋巡りに振り回される。本の数円の差に酷く文句を言う君に振り回されながら、そんな君を知っているのは僕だけだと優越感に浸った。携帯の待受を犬にしていることも、髪を自分で切っていることも僕だけが知っている。僕だけの君を見つける度にクラスのみんなと仲良くする君に殺意を覚えた。僕のためにクラス全員を殺して欲しいと願った。君を見ているとそんな想像ばかりが広がり、物語が吹き出した。君との時間を通して映画監督になることを夢見始めた僕は、君を頭の中で幾度となく酷い目に合わせ続けた。学年がひとつ上がったころ、君の部屋で君に似ていない美しい母親が煎れてくれた珈琲を飲みながら、思い切って夢を打ち明けた。君はいままでで一番嬉しそうにして、僕に脚本を見せるようにせがんだ。それから毎日のように汚い文字が並べられたノートや監督気取りのプロットを渡し続けた。その中で殺され、傷つけられているのが君であることは口にしなかった。幸せそうな内容の脚本に複雑そうな表情をした君は、主人公が自分であることに気がついていたのだろう。僕たちは一緒に美大に行こうと誓い合った。君は絵画を、僕は映像を学ぶ。有名になって一緒に作品を作る約束だってした。君はいつだって僕が映画監督になることを信じていた。純粋に僕を信じるアノ目が呪いのように今でも追いかけてくるよ。

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