第13話 深い傷
寒空の下、油屋容子は延々と獣道をゆく。片方の脚を引きずって繁みに分け入り、ひたすらに暗がりを進む。スーツやパンツには汚れが目立つ。枝に引っ掛けて出来たような解れも見られた。
少し呼吸が荒くなる。糸目を僅かに開いて足を速める。不自然に伸びた右腕を構うことなく、木々の隙間を抜ける。左腕に提げたビニール袋の揺れが激しくなった。
開けた場所に出た。曇天の下、沼は酷く澱んで見える。容子は希望を見出したかのように表情を緩めた。
「我は妖狐! いれば答えて欲しい!」
容子は口を閉ざす。遠くの方で鳥の鳴き声が聞こえる。強い風が吹いて近くの梢がざわついた。
一度、肩の力を抜いた。大きく息を吸い込んだ。直後に背後から枯れ葉を踏むような音がした。
「貧相な尻だ。これじゃあ、良い相撲は取れねぇな」
容子は顔を後ろに向ける。背の低い子供のような人物が中腰で尻を触っていた。
口角が急激に上がる。
「やはり、いましたか。今日はエロ河童さんにお願いがあってきました」
「エロじゃない。河童の長吉だ。ここの肉の張りがもう少しあれば、実に惜しい」
長吉は両手で尻を撫で回す。左右の臀部を掴んで伸ばしたり、縮めたりと変化を加えた。
容子の笑みが深くなる。口の両端が裂けて獰猛な牙が迫り出してきた。
「命は惜しくないのですか」
「どういう、こわっ!」
顔を上げた長吉は後方に跳んだ。容子は迫り出した口で改めて、妖狐です、と濁音が混ざった声で言った。
「ちょ、ちょっとした悪戯は河童の本分だろ」
「下品な冗談は寿命を縮めますよ。長居をするつもりはありません。本題に入ってもいいですか」
容子は人間の姿に戻った。長吉は不機嫌な顔で相手の全身に目をやる。
「反応が鈍いと思えば、手負いのようだな。河童の妙薬が目当てか」
「察しがよくて助かります」
「まだ、恵んでやるとは言ってねぇぞ。大体だ、どうしてここがわかった?」
長吉はジャケットのポケットに両手を突っ込み、斜めの姿勢を取った。
「以前に
思い当たる節があるのか。長吉は右手を抜き出して顎を摩る。
「……陽ちゃんのことか」
「名は陽三郎さんと言いました」
「そうなるとアンタさんは九尾の配下の者なのかい?」
問われた容子の表情が陰る。
「そうでしたが……よくわかりません。我らの世界は、ある軍勢によって滅ぼされました。生き残った者達は散り散りとなって、今はどこにいるのか……」
重々しい言葉に長吉は押し黙る。目は左手に提げたビニール袋に向かう。
「それ、なんだ?」
「お土産です。長吉さんが好む食べ物を用意しました」
「どうせ、キュウリなんだろ。河童はキュウリが大好物、とか勝手に思いやがって。俺は、そんなどこにでもいる凡庸な河童じゃ」
「いえ、ズッキーニをお持ちしました」
「それを早く言えよ!」
長吉は一足飛びでビニール袋を奪い、その場で噛り付いた。
「おお、うまっ! ズッキ、最高じゃねぇか!」
貪り食う姿を容子は糸目で眺めた。
「……所詮は河童ですね」
したり顔で呟いた。
「天上の味であった。では、上着を脱いでみろ」
「
「エロ河童じゃない! 俺の気が変わる前に早く脱げ!」
長吉は童子の姿で目を怒らせる。疑いの目に対抗するかのように容子の右腕を指差した。
「右腕が折れていることはわかっている」
その一言を聞いて容子はスーツを脱いだ。右腕には添え木が取り付けられていた。
「それと脚はどうだ?」
「折れてはいないと思います」
「軟膏と丸薬の範疇だな」
長吉は背を低くした。容子の両脚の裏を腕で掬って胸に抱えると走り出す。
「邪な気持ちではないぞ。我が家に案内してやる」
「……これが河童でなければ」
溜息と共に吐き出した。
「おい、河童の聴力を舐めるなよ」
「聞こえてましたか」
「所詮は河童と言われる筋合いもねぇぞ。俺は医術の知識に秀でた特別な河童だ」
気張った顔で言い切る。容子は笑みを浮かべた。
「河童なのですね」
「そこは仕方ないだろ! 俺の存在自体を否定するな!」
「わかりました。じめじめした穴倉であっても我慢します」
落胆した声に長吉は喉に詰まったような笑い声を漏らした。
鬱蒼とした木々の中をひた走る。隙間のないところは幹を交互に蹴って宙を飛ぶように移動した。
周辺の木々は低木から高木に変化した。その中、目立って大きな巨木に長吉は突っ込んだ。
「しっかり捕まってろよ!」
一声を発して長吉は低い枝に飛び乗った。即座に上の枝に飛び移る。段階を経て数十メートル上の小屋に行き着いた。
「俺の自慢のツリーハウスだ」
「……これは驚きました」
長吉に抱えられたまま、容子は目を見開いた。山の頂に等しい。刺々しい木々の遥か向こうまで見渡せた。沼は横から見た草履のようであった。
「小屋の中に入るぞ。引き戸は頼む」
容子は左手で開けた。中は円形の一間で低い位置に糸が通され、干した薬草のような物が吊るされていた。
「ここに座っていろ」
丸太を切った素朴な椅子に容子を座らせると、長吉は大小の壺が置かれたところに急ぐ。
犇めき合う壺を前にして吟味するような目になる。熟考の末に一つの壺の蓋を開けて腕を突っ込む。人差し指に黒い
「それは」
容子の声が耳に入っていないのか。両手を合わせて揉み始める。ブツブツと何かを呟くと長吉の周囲の大気が揺らめいた。
一連の動きが止まる。長吉は童子に相応しい笑顔で戻ってきた。
容子の前に掌を差し出す。
「これを飲め」
「まさかとは思いますが、これが丸薬ですか」
「その通りだ」
掌には鹿の糞に似た丸い物が載せられていた。
容子は目を離さずに言った。
「医術の知識に秀でた結果が、これですか」
「いいから飲め!」
長吉は容子の口を強引に指で
「飲めたか」
「とても苦いです」
「良薬とはそういうものだ。飲んだ者の妖力を活性化させて傷を治す。次は右腕だ。添え木を外して袖を捲り上げろ」
言われた通り、容子は紐で縛っていた添え木を外す。長吉は再び、壺のところに引き返した。
「用意ができました」
「こちらもだ」
長吉は跳ねるように戻ってきた。掌には先程よりも黒い物体が蕩けた状態で張り付いていた。
「禍々しいですね」
「さっきの丸薬と同じ物に俺の唾を混ぜ込んだ特製軟膏だ」
「医術と掛け離れていくように思えるのですが」
「腕を出せ、ないか。折れているからな」
長吉は横手に回り込んだ。容子の腫れ上がった患部と手の状態を交互に眺める。
「僅かだが位置がずれているぞ。少し、我慢しろよ」
容子の折れた右腕の手の甲を掴む。引っ張るような仕草を交えながら患部に軟膏を塗り付けた。
「あとは添え木を当てて時間を待つだけだ」
「ありがとうございました。完治までの時間はどれくらいでしょうか」
「妖力の関係もあるが、二日は掛かると思うぞ。養生のつもりで居ればいい」
その場で長吉はごろんと横になった。
「そうですか。では、これで失礼します」
「河童の話は最後まで聞けよ。下手に動かして傷が悪化……。おい、どうしたんだ、その腕は!」
「完治したようです」
容子は右腕を適当に振っていた。続いて鋭い爪を伸ばし、空間に無数の穴を穿つような突きを見せる。
「回復力の速さに驚いた。妖狐の名は伊達ではないということか」
「そう見えますか。でも、あの化け物には通用しませんでした」
「その相手、俺も興味がある。最高の相撲が取れるかもしれないぞ」
「私は同胞を探していますが、新たな仲間も求めています。長吉さん、付いてきて貰えませんか」
容子は両脚を揃えた。躊躇いを見せず、深々と頭を下げた。
長吉は渋い顔で顎を摩る。何かを閃いたのか。急に明るい顔となって後ろに回り込んだ。
「何か意味があるのですか」
「意外と感触が良くてな」
長吉は容子の尻を両手で撫で回す。合間に指先に力を入れて弾力を楽しむ。
「……串刺しと噛み千切られるのと、どちらが好みですか」
「河童なんだから大目に見てよ!」
「人選を誤ったのでしょうか」
口にしながらも容子は糸目となって微笑んだ。
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