第12話 痴女

 人通りが途絶えた寂しげな道の空間に鈍色の穴が空いた。数瞬後、タマモが飛び出した。数歩を進んで立ち止まり、後ろを振り返ると穴は急速に萎んだ。

 ほっとしたのも束の間、血を流し込んだような空を見て身震いを起こす。着崩れた着物や乱れた髪を気にする余裕はなく、土色に汚れた白足袋の足を懸命に動かす。金色の瞳は微かに潤んでいた。

 白い服を着た女性に出会う度にタマモは身を固くした。俯いて速足で通り過ぎる。直後に何度も後ろを振り返った。

 大きな通りに出た。夕陽に照らされたタマモの顔が赤くなる。急ぐ程に身体が左右に振られた。状態は千鳥足に近い。

「酔いが……」

 顎が少し上がる。唇が柔らかく開いて、喘ぐような声が漏れる。

 吐き気を伴うのか。時にアマガエルのように頬が膨らみ、倍の速さで凹ませた。それでも足は止めない。懸命に歩く。緩慢な目の動きで周囲を見ながらコンビニエンスストアの前を通り過ぎた。

 細い路地を抜けると少し表情が明るくなった。小走りで道を進み、横手に見えたワンルームマンションに思わず涙ぐむ。

 敷地を突っ切り、通路を走った。行き着いた扉の横にある呼び鈴を思い切り指で押し込んだ。数秒が待てなくて何回も押した。

 しかし、反応は返って来なかった。

「まだ、帰ってない?」

 タマモはへの字で口を尖らせる。扉に背中を打ち付けてズルズルと下にずり落ちた。ぺたんと座ったあと、両脚を抱え込む。

「この、わたしが……」

 がっくりと項垂れる。その姿勢で瞼を閉じ、深い眠りに沈んでゆく。


 いきなり肩を掴まれた。乱暴な手付きで前後に揺さぶられる。タマモは薄っすらと目を開けた。

 一瞬で笑顔となり、勢いよく頭を上げた。

「お姉ちゃん、じゃない……なんで、いるのよ」

 一気に口角が下がる。苦々しい思いが表情に広がっていった。

 天邪鬼は笑顔でタマモの肩を叩く。

「助っ人に決まってるでしょ。酒呑童子様に頼まれて来たんだから」

「本当にぃ?」

 タマモはいぶかし気な目を向ける。

「もちろんよ。しばらくこちらにいてマリモの為に動いてくれると助かるって。それと他には……そうそう、話がややこしくならなくていい、とか」

「それなら、わかる」

 微妙な笑いでタマモは納得した。天邪鬼は隣に座って肩を組んできた。

「マリモ、これからは安心して過ごせばいいよ。お姉様の力を借りるまでもない。妖狐くらいなら、アタシだけでどうとでもできるわ」

「なんか、楽しそうだね」

「あ、やっぱりわかる? マリモのおかげでお姉様と一緒にいられるのよ。しかも、お父様に頼まれて、ここにいる。これが大きいわ。したい時にチューして、強引にチューされて、どこでもチューチューできる大義名分を得たのよ! 想像だけでご飯が三杯はいけるわ!」

 天邪鬼の熱弁にタマモは顔を引いた。微妙な尻の動きで数センチ、横へと離れた。

「だからマリモ、ヘンな色目を使ったら許さないからね。お姉様はアタシのものなんだから」

 顔を突き出してタマモに迫る。赤い双眸を近づけて、急に逸れた。満面の笑みとなる。

 靴音が高らかに響く。

「お姉様、お帰りなさ――」

 翠子に顔面を掴まれた。その状態で掲げられ、天邪鬼は宙に浮いた。

「私の家の前で妄想を垂れ流さないでくれる?」

「い、痛いです。お姉様、これも愛のカタチなのですね」

「全力の愛で握り潰してあげようか」

 翠子は酷薄な笑みを浮かべた。全体がほんのりと色付き、赤鬼の形相へと変わる。

 横で見ていたタマモは翠子のスーツの裾をさりげなく引っ張った。

「お姉ちゃん、人がくるよ」

 その一言で天邪鬼を素早く下ろした。握っていた手はタマモの頭を撫でる。

「タマモちゃん、寒くなってきたからお家に入ろうね」

「うん、そうだね」

 翠子は施錠された扉を開けた。三人の後ろを猫背の青年が何事もなく、通り過ぎていった。

「あの、アタシもいいですよね?」

 天邪鬼を無視して翠子は横目をやる。青年は立ち止まってジャケットのポケットに手を入れていた。

「寒いからね」

 にっこりと笑った直後に諦めたように溜息を吐いた。


 家に入ると翠子は二人を風呂場に連れていった。

「事情はあとで訊くわ。タマモちゃんの着替えは私の服だから、また大きいけど我慢してね」

「慣れたから平気だよ」

「アタシもお姉様の温もりを肌で感じたいのに」

 天邪鬼の恨みがましい目がタマモに向く。翠子は苦笑して言った。

「シャツならあるけど、それでもいいなら」

「大丈夫です! ご飯が、ごめんなさい。なんでもないです」

「そう、あとはよろしくね」

 翠子は鉤爪かぎづめの形にした手で微笑み、二人の着替えを用意した。自身はゆったりとした部屋着になり、賑やかな風呂場の声を聞きながら冷蔵庫に立ち寄る。

 冷えたビールの缶を取り出し、その場で開けて飲んだ。喉越しを十分に楽しんで溜めた息を一気に吐いた。

「この一口が最高なのよね~」

 翠子はスマートフォンを適当に弄って時間を潰す。

「お姉様、あがりました」

 天邪鬼は白いシャツを着て自身を抱き締める。下には何も履いていなかった。

「袴はどうしたのよ。見ているこっちが寒くなるんだけど」

「シャツに緋袴は合わないですよ」

 まともな答えに翠子は文句を呑み込んだ。隣にいたタマモに目を移す。

 厚手の白い長袖シャツに青いオーバーオールがよく合っていた。くるりと回って、どうかな、と恥ずかしそうに上体を横に傾ける。

「うん、かわいいよ。話を訊きたいんだけど、いいかな」

 タマモはこくりと頷いた。天邪鬼はベッドに横になって掛け布団を太腿の間に挟み込む。一部を鼻に押し付けて頻りに匂いを嗅いだ。もぞもぞと動く度に裾が競り上がり、隠れていた丸みが見え始める。

「アンタは!」

 翠子は裾を掴んで引っ張り下ろし、タマモに目で促した。

「あのね。タマモが鬼の人にお酒を注ごうとした時に、零しちゃって。それを鬼の人が拭いてくれてたら、白い女の人が来て浮気とかで怒っちゃったの」

「……こんな小さな子が、そんなわけないじゃない」

 翠子は呆れたように笑った。その直後、立てた親指を横に向けた。

「これはなに?」

「鬼の人が、タマモのために呼んでくれた……助っ人だって」

「そうなるか~。確かに力はあると思うんだけど」

 横目で窺う。天邪鬼は枕を胸に抱え込んで頬ずりをしている。

「痴女なのよね~」

 反応に迷ったタマモは、ぷぇぇ~、と不満気に鳴いた。

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