第9話 赤く染まる
タマモは浮かない顔で便座に座る。用を済ませるとダブダブのズボンを引っ張り上げた。取り付けたサスペンダーを手早く両肩に掛けて水を流す。
軽く息を吐いて横手の洗面台の前に立つ。ずれる袖を指で摘まみ上げながら手を洗う。最後に掛けられたタオルで手の水気を取って遠慮がちにトイレを出た。
豪快な
側を通る時、タマモは鼻を摘まんだ。
「……酒臭い」
呟いて足を速める。窓際の布団にいく途中でベッドの軋む音がした。顔を向けると横になっていた翠子が掛け布団を捲って微笑んでいた。
タマモは目を丸くして自身を指差す。翠子は笑みを浮かべたまま、小さく頷いた。
横目の状態でベッドに近づき、翠子に背中を向ける形で横になった。掛け布団がふんわりと身を包む。タマモは頭を撫でられた。
「私の服で我慢してね」
真後ろからの囁きにタマモは頷く。
「……気付かなくてごめんね」
タマモは頭を横に振った。頭を撫でる手が優しくなる。
「酷いことをされていたんだね」
「……あ、あのね、あの妖狐は」
「心配しなくていいよ。仲間がいるみたいだけど、私が全て叩き潰してあげる。こちらから出向いてもいいかもね。怪しいところを片っ端から当たって。あ、お姉ちゃん、少しだけ、腕力には自信があるの」
耳にしたタマモは泣き笑いの表情になる。
「狐の妖怪みたいだから、もしかして玉藻の手下だったりして。そう考えると私も恨まれているのかもね」
タマモはギュッと目を
「……でも、玉藻の亡骸を見た者はいないのよねぇ。今もどこかで生きていて復讐の機会を狙っている、なんてこともあるのかなぁ」
のんびりとした声ではあったが、タマモは震えた。
「ごめんね。少し、怖い話をしたみたいで。今頃になって、こんなことに気付くなんて、おかしいとは思うんだけど。タマモちゃんって……同じ、名前なんだよね……」
頭を撫でていた手が止まる。タマモは泣きそうな顔で目を見開く。後ろを窺うような横目となって、震える右手を左手が抑え込む。祈るような姿で沈黙に耐えた。
「……お姉ちゃん?」
小さな声で呼び掛ける。反応はなかった。
「……寝たの?」
静かな寝息が答えだった。
極度の緊張から解放された。同時に強烈な睡魔に襲われ、タマモは安らかな表情で眠りに就いた。
早い調子の息遣いが聞こえる。耳にするだけで息苦しくなるのか。タマモの顔が苦し気なものに変わった。
耐え兼ねて薄っすらと目を開けた。
眼前の真紅の双眸に、あっ、と上ずった声が出た。
「なんでアンタがお姉様と一緒に寝ているのよ。アタシが寝入るのを待っていたんでしょ。全身の痣を見せ付けて可哀そうな自分を演出したのも、これが狙いだったのね。こましゃくれたガキが、よくもやってくれたわね。その地位を今すぐ、アタシに寄越せ」
しゃがみ込んだ天邪鬼は静かな早口で迫ってくる。タマモは焦った顔で後退した。
「……ん~、柔らかい」
瞼を閉じたまま、翠子がタマモを抱き締める。天邪鬼は目を剥いた。
「ああ、憎い。色白の長髪で愛らしいところまでアタシと一緒なのに。なんでアンタだけがベッドなのよ。その鼻を噛み千切りたい。両目を抉り出して、両耳を削ぎ落して、血反吐が出るまで腹を蹴り続けて――」
「そんな殺伐としたモーニングコールは頼んでないんだけど」
翠子の右手が天邪鬼の顔面を掴んだ。こめかみに軽く指が食い込む。
「お、おはようございます。お姉様、昨晩はぐっすりと眠られたようで」
「目覚めは最悪になったわ。まずはタマモちゃんに謝って」
「でも、お姉様」
指の力が増した。天邪鬼は忙しない手振りで頭を下げた。
「マリモちゃん、ごめん。ちょっと言い過ぎ、かなり言い過ぎました! ごめんなさい!」
「いいけど、タマモだよぉ」
少し口を尖らせて控え目に言った。
「はい、これで仲直りね」
翠子は手を離した。天邪鬼は両方のこめかみを摩って、酷いですよぉ、と不満を漏らす。
「それはそうと、今後のタマモちゃんのことなんだけど」
上体を起こした翠子が二人に目を向ける。
天邪鬼は胡坐を掻いた状態で小難しい顔となった。
「妖狐は執念深いですよ。真面目でアタシとは反りが合わなくて、よく口喧嘩してましたね」
「タマモちゃんに一人でお留守番は無理みたいね」
言葉を区切って視線を落とす。翠子は身体を前後に揺らし始める。考えを巡らした末に、そうね、と口にしてベッドを離れた。
「お姉様、なにか名案でも思い付きました?」
「名案かもしれないけど、あまり気乗りはしないわね。寂しくなるし」
苦笑いに近い顔で翠子はキッチンに向かう。姿が見えなくなった瞬間、天邪鬼はタマモに詰め寄る。
「お姉様はアタシのものなんだからね。そこのところは忘れないでよ」
「最初から狙ってないよぉ」
「それならいいわ。ベッドの件は忘れてあげる」
「用意ができたから、こっちに来て」
翠子の声で二人はキッチンに向かう。
「これって」
タマモは目を丸くした。
空間に鈍色の穴が空いていた。天邪鬼は意味を察して玄関から二人分の靴を持ってきた。
「住み慣れたと思うから案内は任せる。会社が休みの日には私も行くから」
「わかりました。マリモ、張り切って行くわよ」
「タマモだよぉ」
天邪鬼はタマモの手を握ると穴の中に入っていった。
赤く染まる道に出た。二人はその場で靴を履く。
「ここは?」
タマモは呆然とした顔で左右に目をやる。他者を威圧するような巨木がびっしりと
「酒呑童子様が支配する世界なのよ。それっぽい住人がいるけれど、幽霊が見えるアンタなら気にならないよね」
「しゅ、酒呑童子!?」
「
天邪鬼は顔を綻ばせた。タマモの手をしっかり握ると、ウキウキした様子で歩き出す。
「……ぴぇぇぇ~」
半ば引きずられるような姿でタマモは儚げに鳴いた。
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