第8話 家なき子

 今日は朝から曇り空。灰色の雲の一部は黒ずんでいた。

 ガチャリと遠慮がちに扉が開く。できた隙間からタマモが顔を出す。引っ込めたあと、再度、通路に視線を飛ばす。口の端で笑い、素早く外に出ると施錠を済ませた。

 改めて野球帽を目深に被る。着ているジャンパーは薄桃色でズボンは淡い青。目立たない格好でタマモは速足となった。

 ワンルームマンションの敷地を抜けた。道に出ると即座に右に折れる。しばらく直進すると思いきや、左手の路地に飛び込んで来た道に目を向ける。じっと目を凝らして表情を緩めることなく走り出す。

 意表を突くような動作を繰り返し、タマモは満面の笑みでコンビニエンスストアに入っていった。

 買い物かごを手にすると、小走りで大型冷蔵庫に向かう。ガラス越しに全ての商品に目を通す。金色の瞳に決意が滲み、三本のビールを選んだ。商品棚に下げてあったビーフ・ジャーキーを手早く掴んでレジに急ぐ。

 店員は昨日の店長であった。

「今日もお使いだよ!」

 免罪符を得たとばかりにタマモは胸を張る。

「そうなんだ。偉いね~」

 店長は買い物かごの商品を手早く処理した。

「今日もカードかな」

「うん、そうだよ!」

 タマモは指先に挟んだカードを掲げて端末に当てる。

 急に店長の顔が渋くなる。ビニール袋に入れた商品を自ら取り出す。

 タマモは驚いて阻止するように手を伸ばした。

「なんで、お使いなんだよ!?」

「あのね。このカードは失効されて使えないんだよ。現金はある?」

「お金はない、けど」

 あからさまな鼻息で店長は商品を戻しにいく。

 タマモは口をへの字にしてプルプルと頬を震わす。床を靴先で蹴ると小走りで店を出た。

 即座にポケットからスマートフォンを取り出して耳に当てる。すると無機質な声で通話できない旨が伝えられた。何度、掛けても結果は同じ。握っていた手を大きく振り上げて、すぐさまポケットに収めた。

「……どうなっている」

 タマモは鍔を摘まんで下げた。怒りの表情を隠し、来た道を急いで戻る。


 ワンルームマンションの前の道には小型のトラックが停まっていた。灰色の作業着の男性が収納ボックスを抱えて荷台に載せる。タマモは訝るような目で通り過ぎた。

 通路を静かに歩いて中程の扉と向き合う。エンジン音が聞こえる中、鍵穴に鍵を刺し込んでノブを掴む。

「回らない? まさか、さっきのは!」

 タマモは全力の走りで引き返す。道に飛び出し、一方に目を向ける。トラックが左折する時に『リサイクル』の文字が見えた。

「わたしの服を返せ!」

 怒鳴って追い掛ける。打撲の影響なのか。苦しげな表情で速度が落ちてきた。

 左に曲がると、足は完全に止まってしまった。トラックは走り去って影も形もない。タマモは呆然とした面持ちでふらふらと歩く。

 周囲からポツポツと音がする。乾いた道に黒い染み跡ができた。瞬く間に繋がって全体を一色に染めた。

 夕立のような雨に降られた。タマモは激しく泣き出した空に目をやる。

「泣きたいのはこっちよ……」

 雨粒を真面に受けて顔をぐしょぐしょに濡らした。


 血のような色の空は夜に呑まれた。街灯が粉っぽい光を道に落とす。

 タマモは生乾きの状態で戻ってきた。方々を歩き回った疲れで表情は暗い。数え切れない溜息を吐いて右に曲がる。家並みの間のワンルームマンションをちらりと見て視線を下げた。

 小さな歩幅で刻むように進む。すぐに立ち止まって、クシュンとクシャミをした。また、とぼとぼと歩き出す。

 敷地に一歩、足を入れた。二歩目に迷い、力ない笑みで顔を上げた。

 縮こまった姿で通路を進み、再び扉と対峙した。前には無かった貼り紙には『入居者募集中』とあった。

「……やはり、妖狐の仕業か」

 隣の扉に目を移し、横歩きで移動する。何度か笑顔を試して、震える指先で呼び鈴を押した。

 中から走るような音がして物凄い勢いで扉が開いた。

「黒キノコ、じゃないのね。マリモ、なんでアンタ、そんな恰好なのよ」

 巫女装束に身を包んだ天邪鬼は不思議そうな顔で問い掛ける。ジャンパーの肩の辺りを掴んで瞬時に離し、掌を振った。

「濡れてるじゃない。お姉様、どうします?」

「お風呂が沸いたところだから先に入って貰って」

「だそうよ。アンタ、お姉様を狙ってきたなんてことは、ないわよね」

 赤い双眸を近づける。タマモはぶるぶると顔を震わせた。

「そんなつもりはないから。あとタマモだから」

「風邪を引くといけないから早く!」

「わかりましたー。ほら、上がんなよ」

 翠子の声を受けて天邪鬼はタマモを引き入れた。

「風呂場はこっち」

 天邪鬼は小さな背中を押して案内する。洗い籠を指で示して、ここね、と言った。

「うん、わかった」

 口にしてジャンパーを脱いで、即座に着込む。

「アンタ、なにしてるのよ」

「お風呂はいいかなーって」

「良くない。お姉様に怒られるでしょ」

 天邪鬼はジャンパーを剥ぎ取った。タマモは奪い返そうとして逆にシャツの裾を掴まれる。

「こっちも」

「わー、ダメ! やめて!」

「こら、暴れるな」

 騒ぎを聞き付けた翠子が笑顔で入ってきた。二人の動きがぴたりと止まる。

「いい加減にしなさい。シチューの鍋が焦げたら天邪鬼のせいよ」

「えー、アタシだけのせいなんですかぁ。だって、このマリモが服を脱がないからであって、それでもアタシが悪いんですかぁ」

 甘えた口調で不満を言い募る。

 翠子はタマモを見て、そうなの? と訊いた。黙っていると顔を近づけて小首を傾げる。黒い目の奥を見たタマモは小刻みに震えた。

「ほら、寒くなってきたじゃない。仕方ないタマモちゃんね。お姉ちゃんが優しく脱がしてあげる」

「……ぴ、ぴぇぇぇ~」

 タマモは小さな声で鳴いた。

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