第2話 試練の鶏団子鍋
夜が近づいて白い部屋は黒さを増し、底冷えする色に変わってきた。東側の窓は剥き出しでカーテンの類いは一切なかった。
鳥居タマモは俯せの状態で布団の中にいた。枕に顎を乗せて斜め下にあるスマートフォンで映画を鑑賞中。
「……これが濡れ場ねぇ」
半ば呆れたように呟く。
タマモは向きを変えた。仰向けの状態で天井を眺める。冷たい色と向き合って少し震えた。
「……お腹が空いたわ」
掛け布団から両手を出してパンパンと叩く。様子を窺うかのように動きを止めて、再び手を鳴らす。
円らな金色の瞳に黒い睫毛が掛かる。唇はキュッと窄められて微かに震えた。
「返事をしなさい」
やや強い口調のあと、ああ、と声が漏れた。寂しげな笑みで上体を起こす。寝癖の付いた長い黒髪に手櫛を入れて整えた。
改めて部屋を見回す。
「やはり、いないようね……」
その日、初めて布団から出た。子供らしいパジャマ姿で押し入れを開ける。中は二段に分かれていて下に収納ボックスがあった。生活に困らない程度の下着と衣服が収められていた。
「用意は、いいわね」
タマモは着ていたパジャマを脱いだ。露出した肌に目が留まる。白い半紙に青黒い色を落としたような
全身が震えた。適当に取り出したトレーナーに急いで着替える。脚も同様に痛ましい状態なので長ズボンを選んだ。最後に子供用の赤いコートを羽織った。
「買い物には」
枕元にあったカードを手にした。映画を垂れ流していたスマートフォンを黙らせて、まとめてコートのポケットに突っ込んだ。
タマモは口角を引き上げた。腕を振って大股で玄関に向かう。置き土産の鍵を掴み、小さな赤い靴に素足を入れて外に出た。
タマモが施錠しようとした時、枯れ葉を踏むような音が近づいてくる。横目で見ると大きなビニール袋を両手に提げた人物が欠伸をしながら歩いてきた。着崩れたスーツが激務を思わせる。
一瞬でタマモの目が丸くなる。閉めた扉を引き開けて即座に中へ飛び込み、取り出したスマートフォンを操って強く耳に押し当てた。呼び出し音の間中、早く早く、と小声で繰り返す。
『タマモちゃん、用事はなにかな~』
油屋容子の第一声に口がひん曲がる。
「噛み殺すわよ。ここはやめて別のところに引っ越すから手続きをしなさい」
『それは困ったね~。どういう理由で引っ越したいのかな。子供の口調でお願いしますね』
言葉が途絶えた。タマモは切なそうな顔で天井を見上げる。
「えっと、なんかね。どうしてなのかな。急に引っ越しがしたい、みたいな!」
『そうなんだ~、ごめんねぇ。お姉ちゃん、今忙しいから切るね』
「え、どうして? まだ話は――」
一方的に通話を切られた。雑踏に紛れて何かを蹴るような音がして、キレられてもいた。
タマモは半開きの口のまま、えー、と間延びした声を出した。
その時、軽やかにチャイムが鳴った。頭の回らない状態で耳にして、扉をノックする音で我に返る。
「ちょっと待ってね!」
子供らしい声で扉を開けると
直視したタマモは笑顔で固まった。顔から汗が噴き出る。全身がカタカタと震えた。赤いコートは炎のように揺らめき、火達磨の状況に追い込まれた。
「慌てた様子だったから少し気になって」
「な、なにも……」
上からの視線に押されるように頭が下がる。
「困ったことがあったら言って……これ、どうなってるの?」
降ってきた疑問にタマモは恐る恐る顔を上げた。翠子の視線に釣られて奥へと目を向ける。
部屋の真ん中に一組の布団があるだけで他には何もない。生活の営みは微塵も感じられなかった。
「こ、これは、引っ越して、だからまだ」
「荷物もないんだけど」
若干、声が低くなる。タマモは数回の笑顔を試し、勢いよく振り返った。
瞬間、肩が跳ね上がる。相手の顔が近い。数十センチの近さで視線が重なる。
タマモは口をパクパクさせた。金色の目が潤んで必然と言わんばかりに瞬きが多くなる。
「ひ、ひとり、だから」
「パパやママは?」
「……事故で、いないの」
たどたどしいながらも事前に決めた設定を口にする。
「ごめんね。まだ小さいのに」
翠子は慰めるような顔で言った。タマモの目に希望の光が差し込む。
「でも、保護者はいるはずよね」
その一言でタマモは奈落の際に押しやられた。
「い、いるよ。親戚の、お姉ちゃん」
「帰ってくるよね」
「旅に、行くって」
タマモは泣きそうな笑顔で言った。
翠子の
「一人で旅行に行くなんて信じられない! 寂しくて泣いてるじゃないの!」
タマモは混乱した。恐怖と焦燥の渦に呑み込まれ、頭が揺れ動く。
その極みで声が出た。奇跡の一言であった。
「……ぴぇぇ~」
耳にした翠子を一変させた。蕩けるような笑顔で小刻みに震える。我慢できないとタマモを抱き締め、その場でグルグルと回る。
「かわいい、もう、かわいい!」
凄まじい遠心力でタマモは仰け反る。裏返りそうな目で、ぷぇぇ~、と不満気に鳴いた。
その夜、タマモは翠子の家に拉致という形で招かれた。ベッドの横に座卓が置かれ、その一辺に行儀よくちょこんと座る。
「もうすぐ鍋の用意ができるからね」
「あ、ありがとう」
命の危機は去った。しかし、極度の緊張は続いていた。無事に鍋を食べ終えて隣に帰還するまでは気を緩めることが出来ない。タマモは唇を引き結び、人知れず覚悟を決めた。
チャイムが鳴った。客人は他にもいたのだ。
「手が離せないから勝手に入って!」
翠子の声に反応して扉が開く。
「姉様、お邪魔するのです」
表情に乏しい
九尾の時に連れ去った経緯が頭を過るのか。タマモの目は落ち着きを欠いた。
「なんでアンタが先なのよ! 本当に図々しい黒キノコなんだから!」
新たに一人が加わった。タマモは開き掛けた口を慌てて閉じる。
最後の一人は開いた扉を閉めた。
「姉御、全員揃いました」
白い特攻服を着た
「じゃあ、適当に座って」
天邪鬼はベッドに俯せに倒れ込む。枕やシーツに鼻を埋めて頻りに匂いを嗅いだ。
「お姉様の甘酸っぱい匂いがします。ここは桃源郷で特等席ですね」
「とんだ変態が紛れ込んでいるのです。亡霊のトサカ頭がいることも不思議なのです。何を食べるつもりなのか、わかったものではないのです。激しく貞操の危機を感じるのです」
赤子は適当に座ったところで無表情の悪態を吐いた。
「おかっぱ!」
「黒キノコ!」
竜司と天邪鬼は共に叫んだ。そこに翠子が土鍋を抱えて現れた。
「夕飯時に暴れない! たまに会う時くらい、仲良くやりなさいよ」
「姉御、どうぞ」
竜司は透けた手で座卓の中央に鍋敷きを置いた。
「あんたも便利になったよね」
「この調子で力を付ければ、人間と変わらない存在になれるかもしれませんね」
「調子に乗るな、麩菓子」
天邪鬼はベッドから降りて床に胡坐を掻いた。
「麩菓子じゃない! リーゼントだ!」
「今日は野菜たっぷりの鶏団子鍋よ。熱燗と一緒がいいのよねぇ」
翠子はうっとりとした表情で言った。
各々が好き勝手に喋る。タマモは聞き役に徹した。次第に表情が和らいでゆく。
「でさ、誰よ、この子」
天邪鬼の一言で全員がタマモに目を向ける。
一気に断頭台に運ばれた。本人は目を白黒させて、ぴぇぇ~、と愛らしく鳴いた。
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