タマモちゃんの日常はいつも危ない

黒羽カラス

第1話 お気楽生活

 玉藻前たまものまえは着物姿で逃げた。後ろを振り返らず、前だけを見て全力で走る。長い黒髪を振り乱し、瓦礫を跳び越えた。

 辺りが急に暗くなる。同時に身体が震えた。玉藻前は走りながら優美な顔を歪めて後方に目をやる。

 黄金に輝く鬼がそびえ立つ。その影で一帯は夜となっていた。

「ま、待て! 争う気はない! 待って欲しい!」

 上ずる声で相手に許しを請う。足は止められない。恐怖がまさった。

 鬼は拳を固めてゆっくりと腕を引き上げる。玉藻前は説得を諦めた。泣き顔となって逃げることに全ての力を注いだ。

 膨大な風が背中を押す。低い唸りを上げて何かが迫る。言葉にならない叫びを上げて、瞬間、意識が途絶えた。


「……ぴぇぇ~」

「玉藻様、目を覚まされましたか」

「……ぷぇぇ~」

「玉藻様、しっかりして下さい」

「……ぴぷぇぇ~」

「起きろ、玉藻」

「……なんですって」

 玉藻前は瞼を開けた。目を剥いた女性は瞬時に笑顔となった。

「あなたは妖狐、戻ってきたのですね。それと何か言いましたか?」

「玉藻様の目覚めを促しました。それよりも身体の調子はいかがでしょうか」

 妖狐の言葉を受けて玉藻前は布団の中でモゾモゾと動いた。僅かに表情が歪む。

「少し、身体が痛いわ。それと、ここは?」

 金色の瞳が周囲を窺う。家具が見当たらない。引っ越したばかりのように部屋の白さが際立つ。

「何もない長方形の部屋ですね」

「人間界の仮の住まいとなります」

「……人間界……わたしは……」

 突然、身体が震え出す。玉藻前は掛け布団を引き上げて顔を隠した。

「玉藻様、どうされました? 部屋が寒いのでしょうか」

「なんでも、ないわ。少し思い出したことがあって……」

 顔を出して笑う。悟られないようにして緩慢な動きで上体を起こした。一仕事終えたという風に軽く息を吐いた。

 スーツ姿の妖狐は正座となって背筋を伸ばす。

「玉藻様、我らの世界で何があったのでしょうか」

「……それは、ですね。警備の隙を突かれたと言いますか、侵入を許してしまったのです」

「どのような者達でしたか」

「よくは覚えていないのですが、百万、いえ二百万の兵を従えた大軍勢でした」

「やはり、そうでしたか。玉藻様の怪我の状態を見て察してはいましたが……」

 悔しそうな表情で妖狐はスーツのポケットに手を入れる。取り出した一枚のカードとスマートフォンを玉藻前に差し出した。

「これは?」

「人間界で使えるカードとスマートフォンになります。カードを使えば当面の暮らしに必要な金銭を得ることができます。スマートフォンは定期連絡用です。どちらもご自由にお使いください」

 妖狐はすっと立ち上がる。

「出かけるのですか?」

「散り散りになった同胞を探す旅に出ます。同時に新しい仲間を募り、将来的には玉藻様に軍を率いて貰います」

「もしかして、報復でしょうか」

 控え目に問い掛ける。妖狐は鋭利な刃物のような目で頷いた。

「理不尽な蹂躙じゅうりんを許しては玉藻様の名に傷がつきます。怪我の後遺症で記憶が曖昧とは思いますが、いずれ怨敵をはっきりと思い出すことでしょう」

「……そうですね」

「それと言葉遣いには気を付けてください。そうですね。子供らしい口調に変えていただいた方が早くに周囲に馴染めるのではないでしょうか」

「わたしが子供?」

 首を傾げる玉藻前に妖狐は言葉ではなく、行動で示した。スマートフォンのアプリで鏡に変えて、ご覧ください、と恭しく差し出した。

「こ、これが、今のわたし!?」

 幼い顔立ちの少女が驚いた顔で画面に映る。その事実が受け入れられず、手で顔を撫で回す。

「やはり、これが今のわたし、なのですね」

「九尾の象徴も失ってしまいましたが、人に紛れるには都合がいいかもしれません」

 不穏な物言いに玉藻前の顔が引き攣る。尻に手を回して探すような動きを見せた。

「……本当に、ない……わたしは、まさか、妖力まで失ったと……」

「少しは残されていると思いますが……」

 妖狐は言い淀む。その様子に玉藻前は全てを理解した。

「一番、大切な命は落とさなかった。その幸運に今は感謝するしかないようですね」

「玉藻様、子供らしい言葉遣いでお願いします」

「そう、でしたね。うん、わかった。こんな感じかしら」

「あと、『ぴぇぇ~』や『ぷぇぇ~』で愛らしさを強調してもいいでしょう」

 妖狐の提案に玉藻前はにっこりと笑う。

「あんた、舐めてる?」

「滅相もございません」

 深々と頭を下げるのだった。


 その後、二人は簡単な取り決めを行う。

 玉藻前は人間の名を鳥居とりいタマモと決めた。両親は不慮の事故で亡くなり、莫大な財産を遺した。それを管理しているのが遠い親戚筋に当たる妖狐、油屋容子あぶらやようこで部屋を借りた名義人にもなっていた。

 容子は速やかに旅立ち、タマモは笑顔で見送った。

「なにしようかな~」

 酷く殺風景な部屋でタマモは満面の笑みを浮かべた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る