007 Brave New World

 午後9時35分、私、サイトウは、ゲーム依存症治療支援としての認可取得を目指すリアリテス機器が設置された実験室に、一人入室した。

 

 慎重に慎重を重ねた動物実験を通じ、リアリテス装置が行う網膜へのレーザー照自体の網膜への安全性は、確かめられている。

 しかし、脳への持続的なフィードフィワードを伴うレーザー照射作用は、予期されない精神状態を作り出す可能性はある。リアリテスは、ゲーム依存症患者さんたちに日常生活のリアリティを回復させることで、社会復帰の支援に活用するという想定用途での第Ⅰ相治験を目指している。人体での作用がまだ判然としない中で進められる第Ⅰ相治験には危険が伴う。かつて、インフルエンザのお薬の副作用で世間的にも有名になった薬剤による異常行動であるが、第Ⅰ相治験で投与される化学物質の中には未知の精神作用をもたらすものが数多くある。本来は精神科医の関与のもとで第Ⅰ相治験は進められるべきなのだが、製薬会社と大学病院の大人の事情もあって、抗精神病薬としての作用機序を期待している化学物質以外で第Ⅰ相治験の場に精神科医が参加することはいまだに少ない。

 

 ...のであるのだが、私は精神科医として一般薬の第Ⅰ相治験に従事したことがある。それも何を隠そう、かのゲルマン魂の地、ドイツでだよ。いわゆる研究者若手枠という奴で、な。この時だけはありがとう、文部科学省。兼任で大学教員に赴任した今では、もう君のこと嫌いになっちゃったけどね。


 ☆

 

 あれは、まぎれもなくリアリテスを作ったプレジニアス社の本社もある,まさしくバイエルン州が州都はミュンヘン。

 19世紀から続くオクトーバーフェストで有名なこの地は、そう、まさしく黒ビールの聖地。私は夜な夜な聖地を巡礼し、黒ビールを飲んだ。そして、ソーセージにポテトもあって、もう最高!な日々だったのだが、本場ものの黒ビールとソーセージのおかげで、体重の方も人生最高になってしまった。そこからの私はソーセージ1本だけで黒ビールたちを飲むことにした。そんな糖質制限気味生活により、日本に帰国する時には、何とか私のボン・キュッ・ボンは復活を遂げたのである。


 ともあれ、ミュンヘン滞在半ばに三段腹気味となってしまっていた私サイトウは、日中は、Es、Esと何度も唱え続けた。何しろ、Esはフロイト先生の基底自我ESであるまえに、英語で言うところの三人称it であるからして、慣れないドイツ語を話す私は、三単現さんたんげんを使いこなした表現もまだおぼつかない中でEs、Esとブツブツいうことになる。治験における患者さんへの説明の場では、私のつたないドイツ語じゃ伝わらないから、第Ⅰ相治験における化学物質投与による副作用のおそれとか込み入ったところは結局英語で伝えちゃったんだけどね。

 まぁ、その英語の説明の方も、カンペを日本から来た製薬会社のMRさんに用意してもらったものではあるんだけれども。

 当時まだ20代のぺいぺい精神科医の私に尽くしてくださったのは、パンツ姿が素敵なMRのケイコさん。午後四時には終わる治験業務の後には、いつも黒ビールとソーセージをごちそうしてくれてありがとうね、ケイコさん。うん、文部科学省の予算でミュンヘンに滞在していんだけれど、当時の私は公務員ではないから、接待交際費で毎晩の私のビール代は落としていいんだものね。ビール飲んでベロンベロンになるのは、女同士が一番だね。うん、ごちそうさま。

 

 そんな私は、そして、ミュンヘンで恋にも落ちた。男性にである。私は時として女性にも恋に落ちるから、きちんと言っておこう。

 ゲルマン人男子に、私は、恋をしたのだ。

 

 そう、年下の彼の美しいゲルマン魂に。

 若干は三段腹気味であったとはいえ、ゲルマン人女性には出せない妖艶な東洋の魔女的な笑みを浮かべる私を、彼も愛してくれた。彼は、私の3人目の男。

 そう、腐女子とはいえ、本来はボン・キュッ・ボンなホディの私である。休みの日は引きこもってゲームやったり薄い本を読んだりしていたところで、モテる時はモテるのである。特に医学部3年生の専門課程が始まった頃の私は、まさしくモテ期だった。その時に作った二人の男のことは後ほど話すとしよう。なぜなら、モテ期とはいえ処女膜ありありの純情乙女だった私は恋に破れた後、後輩女子とレズレズなことをしちゃうくらいに男に傷ついてしまったのだから。そんな昔の話は体調が良い時に思い出すに限る。今日の激務に疲れた私に、今必要なのは7歳年下だったゲルマン美青年の彼なのだ。

 彼にとって、私は初めての女だった。そう、彼はそれまでゲルマン男性にしか愛されてこなかったのだ。前の彼との愛に傷ついた彼は、他の男からの愛を受け入れるのを恐れていた。その心のすきを見事について、東洋から来たおねえさんであるところの私を好きになってもらったというわけ。


 うん、いい恋だった。結局その後で、私は振られて、彼はゲルマン人男性の元に戻っていってしまったのだけれども。

 でも、おそらく、私は、彼の生涯ただ一人の女。ロマンチックでしょ。

 例の二児の母にして腐女子仲間のスルガに、このエピソードを話すたびに、

 「サイトウ、やはり最低だな。」

 と言われたりはするのだが。


 かくして、美しいクラシックが似合うミュンヘンの地で結局は厨二病を悪化させてしまった私は、帰国後は4人目の男を作ることもなく、病棟でのしばしばの激務の中、今に至る。

 

 ☆

 さて、同志諸君。今年、2032年は、「この」がつかない方の小説『素晴らしい新世界』に祝福が集まった年であった。

をご存知であろうか

というわけで、


来年から始まるリアリテスの第Ⅰ相治験の最終試験としての今晩の試験内容は、ゲルマン魂がもった医療的レーザーの持続的な照射。そして、ゲルマンなリアリテスAIを通じての仮想現実支援機器リアリティ・クリエイターによるフィードフィワード照射を通じての脳内の現実感の活性化。


 

 もうお分かりであろう。


 国内での第Ⅰ相治験を前に国内初のリアリテスの連続稼働を行う実験対象は私の脳みそちゃん。そんな私が脳の中に現実感を持って呼び起こすべきは、そう、ゲルマン人の懐かしい彼である。

 あ~、楽しみ、楽しみ。

 

 真面目な話、うつ病や統合失調症、さらには、ゲーム依存症の発症には、色恋沙汰れんあいが絡むことは多い。お分かりの諸君も多いことであろう。失恋は、時として社会生活すべてを吹き飛ばすパワーがあるのだ。一度、失恋に吹き飛ばされ精神状態が悪化してしまった場合には、治癒、すなわち、精神医学的寛解かんかいに至るまでに、辛い恋の経験を相対化する必要がある。今はゲーム依存症を発症しているように見える子たちにも、まだ私たち精神科医や他の大人たちには話せていない辛い恋の経験が潜んでいる可能性があるのだ。特に、年少の子の場合、失恋から立ち直るちょっとしたすれちがいや摩擦がきっかけで飛び降り自殺などを企図しがちだったりすることもあり、慎重な配慮が必要なのだ。

 私は、年明けからのリアリテスの第Ⅰ相治験に、炬燵おこたに引きこもり中のちんこと鴨志田レブンサチをリクルートしようと考えていた。昨日の午後まで、サチは比較的無難に第Ⅰ相治験に参加でき、大きな治療効果を上げる可能性もあると、私は考えていた。しかし、昨日、別人格を発症したサチ=コウの流した涙を見た私は女の直感をした。

「ありゃあ、男に恋する乙女の涙だね」、と。


 PTSD類似と思われる多重人格症状を呈しているサチ。美少女どストライクの表情で流した涙に、ズキューンとされて、ちょっとお漏らししてしまった私は、女が勘で、リアリテスをサチ=コウに使わせるのは危険かもしれないと考え始めていた。

 近いうちにサチへの二回目の面談を行う。年明けからの治験を前に行われる年内最後の面談。サチの部屋に入る前までに、私は仮想現実支援機器リアリティ・クリエイターリアリテスへの治験への参加を彼女に打診するかどうかを決めなければならない。

 

 そう、今日のリアリテスの連続照射試験は、私にとって密かな楽しみでもあるのだが、少女、いや、美少女一人の命がかけているかもしれない、精神医学的に見るならば不可欠の試験でもあるのだ。多少疲れていようが、この試験は私が私の責任のもと、本日中に断固として行わなければならない。

 

 ☆

 

 実験室に備えられた古びたDVDプレイヤーに手持ちのCDを入れ、私はクラシックを実験室に流す。

 選曲したるは、『アイリッシュ交響曲 ホ長調』。

 

 アメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァン先生の家系が母国、アイルランドが誇る作曲家アーサー・サリヴァンの手による美しき旋律を持つ交響曲である。

 メンタル面での危険を伴う可能性のあるリアリテスによるレーザー試験を開始するに先立ち、まずはリラックスすることが狙いだ。

 大脳が落ち着くのを待つついでに、私は頭を英語モードに切り替えて、ドイツ及びアジア数カ国との国際共同治験である第一相治験のために作成した申請書の見直しを行う。私は英文法はきちんと頭の中に入っている方なのだが、疲れている時に英作文すると、けっこう凡ミスを犯すのである。時には恥ずかしいスペルミスだってある。だが、予めそうしたミスを織り込んでの校正作業なのだ。多少の凡ミスを見つけたところで、私の心が乱れることはない。

 

 夕食後に行ったライティングで、私は、サリヴァン先生による人間の幼少期についての分析を引用した。サリヴァン先生のお考えでは、12歳、すなわち日本で言う小学校卒業の頃までに、自分と「似た地位の」相手との信頼関係を作れるかどうかが、その後のその人の精神衛生に大きな影響を与えるのだという。

 ニューヨーク郊外で少数派のアイルランド家系において育ったサリヴァン先生ご本人は残念ながら、自分と似た地位の相手との信頼関係を十全に作れなかったのだという。17歳で名門コーネル大学の奨学金獲得者になったサリヴァン先生。先生は、私などとは違い物理学の才能を発揮なされ大学では物理学者となることを目指していた。しかし、そんなサリヴァン先生を突如襲ったのが恋の病である。著名な精神科医となられた後にサリヴァン先生がisophilic(同類愛的)と名付けたところの、同類愛的な人間関係、すなわち、「自分と似た人を愛し愛される」関係をサリヴァン少年は12歳、そして、17歳までに身につけることができていなかった。そんなサリヴァン少年が患った恋の病は重症化した。後のサリヴァン先生があまり語っておられないため、詳細は伝聞されている限りだが、サリヴァン少年は恋に破れ、大学を放校になり、当時は不治の病と言われていた精神分裂病を発症した。

 そんなサリヴァン少年は病院で治療されることもなく刑務所に入れられた。2年の刑期を終えられた後、不治と呼ばれる病を発症したサリヴァン先生ご自身が、不治の病たる精神分裂病治療の名医となられる話は話すと長くなるので、また今度にするとして、とにかく私は、このサリヴァン先生のエピソードを思い起こす。

 そう、3月までは12歳なのだという、鴨志田サチのことを案じているのである。彼女の解離性同一性障害(DID)が、何らかの意味での同類愛的関係、あるいは恋愛関係の破綻を発症の機序としている場合、自殺等の極端な行動に出ないかということがおねえさんは心配なのである。


 おねえさんとしての思いはさておき、私のライティングにisophilicという単語が見つからない。おかしいな、と思ううちに、アイリッシュ交響曲は終わってしまった。

 そして、私は見つけてしまった。isopornographieという単語を。そうだ、昨晩の私は、ネットワークゲームOUKINで騎士姿で十分なレベル上げを堪能した後で、リアリテスの照射試験に向けた心の準備をしようと、pornographieと打ちつつ、その手のゲームサイトを漁りはじめたのだった。そう、フランス語のpornographie。昨晩の私のシチュエーション当初案は、ドイツ兵に徴兵されパリに駐屯することになったゲルマン男子が、作曲家志望の若きフランス人男子学生とロマンチックな恋に落ちるというもの。その手のもので、すっきりとゲヘヘすることで、もうすっかり大人になってしまい恋心を忘れつつ在る私に乙女の恋心を思いだそうとしていたのだった(なんといっても、私の中高生時代の乙女心は断固としてそんな801に捧げていたのだ)。私のライティングソフトはヨーロッパ多言語対応の校正支援機能がある。昨晩のpornographie連打により、ソフトの変換支援機能はたぶん私にisopornographieなる語を推薦してきたのだった。


 大切なキーワードなのに、ごめんね、サリヴァン先生。

 

 心の中でテヘペロした私は、医療職を示すシンボルである白衣姿のままに、仕事用のズボンを一気に脱いだ。だが、安心してほしい。私はここに来る前にすでにおパンティの下に介護用オムツを穿いているのだ。昨日の2度の失禁を鑑みるに、師走を過労気味に過ごしてきた私はどうやら、おしっこちゃんを司る尿管の神経などが弛緩気味しかんぎみらしい。これはおそらくは病理的なものではなく一時的なものであろうと私は考えている。

しかし、深夜に、仕事用のズボンを、万が一にも仮想現実支援機器リアリティ・クリエイターリアリテスもろとも 私のオシッコちゃんで濡らすわけにはいかない。私のストーカー君たちはこのオシッコちゃんを飲みたいであろうかもしれないとしても、だ。

 そう、今日の私は準備万端。すでに先程から部屋には暑苦しいほどのエアコンを効かせてある。

 

 白衣のボタンを全部外したついでに、おフランスの高級ブラジャーも一気に取りさってやった。白衣の下は、既に私の最終防壁たるおバンティと介護用オムツのみ。


 「フッフッフッ。Ready perfectly.」

 

 先日の黒人ブルースシンガーなりきりの患者さんを少し真似た、アメリカ南部風の発音でどこぞの異世界に向かう時のいにしえの似非英語なお約束言葉を口をして、私はさらに開放的な気分を高めた。

 

 ここは国立大学法人が経営する精神科病棟にして、私サイトウは精神科の専門医。

 

 しかして、最新の、仮想現実支援機器リアリティ・クリエイターであるリアリテスを前に、白衣の下は介護用オムツのみという立ち姿の私。

 この実験室においてはそんな前世を捨て去った異世界転生者になろうとしているのである。そう、リアリテスの、このすんばらしいレーザー照射は私をどんな素晴らしい異世界にいざなってくれるのだろうか。異世界ものだからといってこんな時に駄女神とかを思い浮かべてはならない。精神医学的には、今晩一番気にしなけれはならない患者であるサチ=コウの体験、すなわち異人格の憑依こそを、ここで私が追体験してみせることが望まれるのである。

 

 私は勝負の時の交響曲をDVDプレイヤーにセットすると、白衣の前をはだけさせたままで、リアリテスのべットに横になり、医療用レーザー照射装置が組み込まれたゴーグルを装着した。

 

 目をつむった私に勝負曲が聞こえてきた。同じく、交響曲 ホ長調。チェコ全人民が誇る作曲家アントニン・ドヴォルザークの『新世界より』のクライマックスとなる第4楽章である。

 少し静かなはじめの2分、私は、小声ながらも

 「いくぜ、いくぜ、いくぜぃ。」

 と呟く。そして、

 『新世界より』の、クライマックスが来た瞬間に

 「今日の俺は最初からクライマックスだぜぃ。」

 と、ライダーシリーズの中ではヤオイ的に最もキューッとなれる傑作と言われる2000年代の憑依ライダーの名セリフを私は渋くつぶやいた。そう想い人の男子を思う男子の心は気高くも美しいのである。 

 この全てのことは私が患者にして一人の美少女がコウの治療のため。彼女の今後をこのリアリテスに委ねて良いものか、私がこの身体で、リアリテスが導くゲーム依存症治療の新世界をまずは全力で試験してやるのだ。

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