002 シナリオライター「存在Q」
2033年1月4日、火曜日。日本の世間様的には、いわゆる仕事初めということになるのだが、正月も入院患者さんを受け入れている大学病院にそうした感覚はあまりない。
ただ、私サイトウの勤務先である精神科病棟には若干の緊張感があった。入院患者さん含め、大多数の人にとっては、この日もただの一日である。なのだが、正月三ヶ日が明けても仕事に向かえないことを気に病んでか、ひそかに鬱状態をこじらせてしまっている方も時としていらっしゃったりするのである。確たる
結果として、精神科医としての
年末の
明日の一日、私がやることはもう決まっている。部屋でまったりとしながら、年末から入院している、担当患者鴨志田サチの前半生の口述録であるとのノートたちに目を通すこと。その上で、
執事の許可を得たという鴨志田家のメイドさんが、サイトウ宛に病棟事務室まで届けに来てくれたというノート。10年ほど精神科医をしてきた私だが、患者さんのご家族から、患者さんの半生記の類を受け取ることは珍しい。特にゲーム依存症を診ることが主となってからは、私が担当する患者さんは、
特に、まだ女子中学生のサチに半生記があることは、本ケースの特異性の現れといって良いだろう。サチの養父だという
そうした
曰く、ライター「存在Q」さんは、元々はテレビドラマ、ラジオドラマの脚本家だったらしい。当時手掛けた脚本のタイトルには、普段ドラマを見ない私でも知っているものもあった。
そんな「存在Q」さん、今のお名前になってからは、企業さんが開設した公式ツイ垢の運営などをしているらしい。テレビドラマの制作予算がなかなか捻出できない、といったことが言われるようになって久しい。「存在Q」さんのブログでの解説曰く、脚本業界は、構造不況業種によくある中折れパターンに陥っているのだ、という。いわゆる団塊ジュニア世代より少し上の御年配の脚本家には変わらずそこそこの報酬が見込める仕事が回ってくる一方で、若手の脚本家はタダ同然の報酬でも脚本を書く。平成ヒトケタ時代の就職氷河期の時に、就職活動を見切って若くして脚本家になった「存在Q」さん、結婚して中堅どころと見なされるようになった頃には、仕事の実入りが伸び悩んでしまったらしい。
そのため、存在Qさんはテレビドラマのスポンサーでもある企業さんたちの商品プロモーションを行うための公式アカウントのツイートを戦略的に代行するお仕事に転じたとのこと。これまでのヒアリングから、サチの父である
存在Qさん、その後そこそこの成功を収めたらしいが、今や、企業の公式垢のツイートはAIが行うことが主流となっているのは、私でも知っている公然の秘密。はたして、今のお稼ぎは...、といったあたりで私は、当初の目的から脱線していることに気がついた。
そう、私の担当患者サチについての半生記ノートを読むにあたり、必要な情報としてはノートの書き手がプロであることで概ね十分。おそらくは半生記のストーリーはしっかりとしているのだろう。治療者としての立場としては、ストーリーが
☆
(まぁ、今晩は、サチの半生記の成り立ちは少し分かったところまでにしておいて。)
そう思い、私は、ここのところ突っ走り気味だった私のお口と心と身体とにご褒美を与えることにした。まずはお口のご褒美として、セレブなピエールリコーニのチョコレートとボルドーの甘々デザートワインを冷蔵庫から出した私は、心のご褒美にキューっとなれるストーリーを探すことにした。今宵はゲームはお休みだ。
私のチョイスは、23世紀を舞台としたスペースオペラの名作映画たち。背景には、原作を生んだ映画プロデューサーが過ごした、激動の20世紀の戦争と人種対立と愛と性だ。
20世紀の世界史で勝者となされるのは、ご存知アメリカさん。でもね、常勝のアメリカ、アメリカに本当の物語はない、とプロデューサー氏は感じていた。勝者のストーリーは平板なのだ。彼は映画を作るに当たり、強制収容所経験を持った日系人、ソビエト連邦からの亡命者、公民権運動に深い感心を持っていたニグロさんなどを俳優としてチョイスし、スポットライトを当てた。結果として3世紀先の未来を描いたスペースオペラは、半世紀以上生き延びられる名作となった。私は、女子高生時代にスペースオペラのスピンオフ作品を見て以来、一連の作品たちを一腐女子として何度も味わってきた。
私がはじめて見た頃にはまだカミングアウトはされていなかったが、艦長と副艦長をはじめ、いい感じの関係になっている男子たちが時として厳しく、時として甘い視線を交わしている。真理を追求する男子科学者が、男性同士の愛情をも理論的に追求する。前世紀が全盛期だったハリウッド映画。正直陳腐な展開もないではないが、世に広く受け入れられたハリウッドシリーズ作の中で唯一無二の、世界各地の腐女子たちもキューッっと楽しめる要素を持つスペースオペラといえよう。
☆
古典的名作らしくゆっくりと進むスペースオペラのストーリー展開を、デザートワインをちびちびとしながら味わいつつ、私はサチを初診する前から正月三ヶ日までののことを振り返る。
私サイトウのここ数ヶ月は、
はじめはリアリテスによる網膜への医療用レーザーの1分以内の短時間照射からはじめ、3分、5分、10分と少しずつ、照射時間を長くしてきていた。脳内の
動物実験での安全性確認は十分になされてきたとはいえ、人体への照射試験を通じた治験蓄積はまだまだ少ない。今回の第Ⅰ相治験では、参加していただく健常者の方々への照射試験に加え、患者さんへの短時間の照射試験も予定されている。準備は念入りに行うべきである。私は同僚の先生方の助けも借りながら、幾度もの試験を重ねていた。
結果、師走に入る頃には、私は世界でもっとも多くリアリテスのレーザー照射を受けていたのだろう。どうやら、年の瀬の激務の中、私の
☆
そして、私と同じくらいにリアリテスを連用してきたのが、
ディスプレイ上でスペースオペラのストーリーは進んでいく。ふと、「存在Q」って、このスペースオペラの中では異世界人だったなぁと、私は呟いた。
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