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それからまた半年後。
Aは、高校を卒業して、都内の大学に通うことになった。Aは、父の家を出てからずっと、都内で一人暮らしをしていた。
ところで、Aの父親の長男で、Aの兄にあたる男も、都内の大学に通う学生だった。年齢から言えば、Aの兄は、とっくに大学を卒業してしかるべきであるが、Aの兄は放蕩息子だったので、留年を繰り返して、いまだ大学にとどまっていたのである。
あるとき、Aは言った。
「わたしは、できることなら、兄とちがう大学に行きたい。しかし、わたしの努力が足りなかったせいで、わたしは兄と同じ大学に通わなければならなくなってしまった。わたしにとって、それはたいへん気の滅入ることだ。同学年の学生や先輩らは、わたしに後ろ指さして、わたしを『放蕩息子の弟』と呼び、わたしをいじめるかもしれない」
しかし、このAの不安は、のちに杞憂であることがわかった。大学には、Aの兄のような放蕩息子が、他にも数え切れないくらいいたし、Aの兄は大学の講義にはほとんど顔を出さなかったからである。
その日、Aは大学の講義棟がある建物の廊下を、食堂のほうに向けて歩いていた。
午前の講義が終わり、午後の講義が始まるまでは、Aを含む、まじめな学生にとって自由な時間であり、Aはその時間に食堂で昼食をとろうと、講義棟の廊下を食堂のほうに向けて歩いていたのである。
ふいに、Aの後ろで、Aのことを呼ぶ声が、Aの耳に聞こえた。
「もし、Aよ」
Aはそれを無視して、食堂のほうに歩み去ろうとした。Aはたいへんお腹がすいていて、誰からも呼び止められたくなかったし、Aを呼ぶ声は、比較的小さかったので、聞こえないふりをしてその場をやりすごしても、Aはあとでその人から咎められないと思ったからである。
しかし、Aを呼ぶ人は、しつこくAに食い下がってきたので、Aはついに後ろを振り向いて、Aを呼ぶ声の主と顔を合わせた。
その人は、パロというあだ名で呼ばれている、Aの学友であった。
Aは学友に言った。
「やあ、パロ。このようなところで会うとは、奇遇ですね。わたしはいま、食堂の方に向かって、廊下を歩いていたところです。わたしに何かご用ですか?」
パロはAに言った。
「やあ、A。いいえ、用というほどのことは、ありません。わたしはここで偶然あなたを見かけたので、ちょっとあいさつしようと思っただけです」
Aはパロに言った。
「そうですか。わたしもここであなたのことを偶然見かけたら、あなたと同じように、あなたにちょっとあいさつしたいと思ったことでしょう。それでは、わたしは食堂の方に行きますから、あなたはご随意になさってください」
そう言って、Aはその場を立ち去ろうとしたが、パロはAを引き留めて言った。
「待ってください、Aよ。わたしはあなたに用事があるのを、いま思い出しました」
Aは振り向いて、言った。
「パロよ、用事とはなんです? わたしは急いでいます。その用事は、あとにするわけにはいきませんか?」
パロはAに言った。
「Aよ、すぐ済むことですから、どうかわたしをそんな邪険に扱わないでください。Aよ、わたしはさっき、あなたが『食堂』という言葉を口にしたので、あなたに用事があるのを思い出したのです」
パロは続けて言った。
「Aよ、わたしが農場のあととりだということは、あなたにも以前、お話ししたと思います。わたしの家の農場は、たいへん美しく、さまざまな穀物や、食べて口によい植物によって、たいへん豊かであり、農場のかたわらを流れる小川には、澄んだ河の水に住む小魚があり、農地に水を引くための池には、大きくて立派で、美しい色をした鯉が、手を伸ばしてつかもうと思えば、つかむことができるほど、豊富に泳いでします」
Aはパロに言った。
「パロよ、どうか要点だけお話し下さい。わたしは急いでいます」
パロはAに詫びて言った。
「もうしわけありません、Aよ。故郷のことになると、わたしはどうしても饒舌になってしまうのです。どうか友の愚かな癖を、寛大な心でゆるしてください」
そう言って、パロはAの前に平伏したので、Aはパロを寛大な心でゆるした。
Aはパロに言った。
「パロよ、顔を上げてください。そして、はやく用事を済ませて、わたしをここから立ち去らせてください」
パロは立ち上がってAに言った。
「わかりました、Aよ。わたしはできるだけ努力して、用事を済ませ、あなたをここから立ち去らせると、あなたに誓います。さて、Aよ、先ほどお話ししたように、わたしの家の農場は、たいへん美しく、さまざまな穀物や、食べて口によい植物の実によって、たいへん豊かであり、わたしが故郷にいるときは、わたしはそれらを飽きるまで食べて、わたしの家族の者たちも、それらを飽きるまで食べて、楽しみます。ですが、わたしが故郷を離れているときは、それを食べて楽しむことはできず、わたしは故郷のさまざまな穀物や、食べて口によい植物の実、とりわけあめんどうの実の味を思い出して、ときどきさびしい思いをすることがあるのです。さて、Aよ。実は、先日のこと、実家にいる母が、故郷を離れている息子をおもんぱかって、自分たちの畑で採れたたくさんのあめんどうの実を、箱につめて、それをわたしの下宿まで飛脚によって送り届けてくれたのです。それは、わたしの母が、息子のためを思って、息子のわたしにしてくれたことで、故郷のさまざまな穀物や、食べて口によい植物の実、とりわけあめんどうの味を思い出して、息子がさびしい思いをするのを不憫に思って、せめてもの思いで、息子のわたしにしてくれたことなのです」
そう言うと、パロは「これはあなたのぶんです」と言って、Aの両手いっぱいにあめんどうを盛った。
パロは言った。
「これは、わたしの実家から、母がわたしのために送ってきたあめんどうのうちの、あなたの取り分です。あなたはそれをとっておいてください。あなたは、わたしの友だちですから。母は息子のために、箱いっぱいにあめんどうをつめて送りました。わたしの下宿には、いま食べきれないほどたくさんのあめんどうがあります。だから、あなたはそれを自分のものとして、自分の取り分として、取っておいてください。あなたは、わたしの友だちです。これはわたしからの、友情のしるしだと思ってください」
Aはパロに言った。
「パロよ、わたしはあめんどうを、あなたからわたしの友情のしるしとして、ありがたくいただきます。わたしは遠慮なく、あなたからあめんどうを頂戴します。わたしがそうしたからといって、あなたはわたしを欲深い人間だなどと思わないでください。それはあなたがいま、友情のしるしとしてわたしに差し出したものです。考えてみてください、パロよ。わたしは、友人であるあなたから、それを友情のしるしとして受けるのに、遠慮など必要でしょうか?」
パロはAに言った。
「いいえ、友情のしるしを受けるのに、遠慮など必要ありません。そのあめんどうは、わたしからの友情のしるしとして、遠慮なくあなたのものにしてくださってよろしい。わたしはあなたの言うことに、完全に同意します。そのあめんどうは、たったいまから、あなたの所有です。あなたはそのあめんどうをどこかよそにもっていって、あなたが自分の家にいるときにでも、要するに時と場所を問わず、あなたが好きなときに食べることができます。また、そのあめんどうは、あなたの所有ですから、わたしがあなたにしたように、あなたがそのあめんどうをあなたの友人や知人、その他の人にわけて差し上げても、わたしはあなたがしたことを責めないでしょう」
パロはそう言って、Aのもとを去った。
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