荒野にて、行く (『輪環-メビウス-』by小堀珠那)

 頭上に輝く満天の星に、何故だか泣きたくなった。吹きすぎる風は冷たく、コーディエが今晩の宿と定めた岩陰にもつむじ風が回って消える。

 コーディエがいる場所からどれだけ見渡しても荒野が広がるばかり。見える範囲に命の気配は何一つない。彼はこの場に一人きりであった。

 とは言え、それがコーディエの泣きたくなった理由にはなりえない。そしてそのことは彼自身が一番知っていた。

 この世界を行く上で一人きりになることなんて、珍しくもないからだ。

 コーディエは胸元を探り、首にかけていたペンダントを取りだした。それは宝石のようなガラスのような結晶の塊で、その中に薄黄色の炎が燃えているものだった。彼はそれを青白い星の輝く空へと掲げた。結晶の壁に囲われていながら炎は一定の方向へと揺らめく。それはまるでそこへ行けと言っているようだった。

 ようだ、ではない。コーディエはその揺らめきに導かれてここまで来たのだ。

 コーディエはその揺らめきが変わらないのを確認すると再び胸元へ戻した。そして目の前の焚き火がしばらくもつように薪を追加すると、毛布をかぶり横になった。


 しばらく炎を眺めていた彼が眠りに落ちる頃、空のどこかで船の汽笛が鳴っていた。


  ――――――


 この世界はずっと荒野が広がっていて、それに覆いかぶさるように冷たく澄んだ蒼穹が続いている。そのことをコーディエが知ったのは彼が空を行く巨大な船から落ちてしまった時だった。

「世界は果てしなく広いんだよ。私達が一生かかっても辿り着けないほど。船の上じゃあ気付けないけどね」

 そう言って笑ったのは、落ちたばかりのコーディエを見つけ、なんやかんやで一緒に旅をしていたカイナだ。

 コーディエはそれまでずっと船の中で生活していた。それは広い空を行き、何百万もの人間を乗せてもびくともしない巨大な船で、暮らしの全てが船の中で完結する。まるで一つの世界のように人はその中で生まれ、生き、死んで、人々は外の世界を知らないし知ろうともしない。きっとコーディエも落ちることがなければ大多数の人と同じ様に、外の景色も知らないままで一生を終えていただろう。しかし彼は幸か不幸か地上に落ちてきた。

 この途方もなく広く、酷く残酷で、美しい世界に。


  ――――――


 落ちてきた直後のコーディエは突然変わった世界に茫然としていた。それまで極彩色の狭い空間が彼にとっての世界だったのに、くすんだ色の床はどこまでもどこまでも、信じられないほど遠くまで続いていて、痛い程強烈な蒼の天井は、柱が無くとも落ちることなくそこにあった。その中、丁度コーディエの頭上に小さく船が浮かんでいて、どこか物悲し気に去って行くところだった。

(あれは……)

 置いていかれてしまう、そんな焦燥感を心の奥で感じているにもかかわらず、コーディエの体はそこに釘付けになっていた。体に力が入らず地面にへたり込んだままで船が消えていくのを眺めているしかない。

 そうして空の何処にも船が見えなくなったころ、

「ねえ?」

「わあっ!?」

 突然背後から声をかけられた。驚き振り返るとそこには見たことのない格好の人間がいた。

 全身を茶色の布で覆い、頭には帽子、目元にはゴーグル。二つともコーディエの知っている物とは違い、非常に頑丈で武骨なデザインだった。背格好と声の調子からしてコーディエとさほど歳は変わらないだろうか。

「え? 何? 誰?」

 突然のことに混乱するコーディエをしげしげと眺め、なるほど、と相手は一人納得したように呟いた。

「とりあえず、誰かと聞かれたから答えておくと、私はカイナという名前だ」

 自己紹介された名をコーディエは口の中で転がす。聞き馴染みのない名前ではないのだが、ここではなぜか初めて聞いた名のように聞こえた。

「カイナ……」

「まあ、呼び捨てでも何でも好きに呼んでくれ。それで君のことは何と呼べば良い?」

「えっと……コーディエです。コーディエ=……」

 家名を名乗ろうとしてコーディエは言葉に詰まった。あの家を自分の居場所だと言って良いのか、そんなことを思って迷っていると、

「ああ、コーディエ君ね。よろしく」

 気にしていないようにカイナは応えた。

「それで君は、どうしてここにいるのか、分かっているかな?」

「どうして……?」

「ここに落ちてくる前のこと、覚えてるかい?」

 コーディエにもカイナが言わんとしていることは理解できた。が、残念ながらコーディエはそれを説明するための言葉を持ち合わせていなかった。ただただ、自分が今までとは違う場所に来てしまって、元いた場所には戻れない。それだけは何とか分かっていた。

「まあ、ここにいてもしょうがないし、しばらくしたら日が暮れる。早く移動しようか」

 困ったような顔で自分を見返すコーディエにカイナは苦笑しながら手を差し伸べた。コーディエはそれに応じて立ち上がる。こっちだと先導するカイナに付いて行こうとして、ふと目に入った物に足を止めた。

「? どうした?」

「あの、どれくらい歩きますか?」

 コーディエが目にしたカイナの靴は革製の丈夫そうなもの。一方でコーディエが履いているのは室内用の華奢な布靴だった。小石ばかりの道を歩いたらすぐ壊れてしまいそうで、コーディエは足踏みする。

「そうだな。運が良ければ夕方には着けると思うよ」

 そうカイナは笑うが、太陽は少し西に傾いた程度で、その夕方には随分時間がかかりそうだ。

「ほら、行こう」

 急かす声に抗いきれずコーディエは一歩ずつ歩き出した。踏みしめた荒野は固く少しも揺らぐことはなかった。


  ――――――


 カイナの言う通り夕暮れ時に彼らは小さな家の建ち並ぶ集落に到着した。布靴は思いのほかもって、砂埃にまみれていたが、靴底が破れることも縫い目がほつれることも無かった。

「さて、落ち着ける場所を探そうか」

 カイナはそう言うと近くの家の扉を叩いた。

「もしもし、一晩泊まれる家ってありませんか?」

 カイナが声をかけると家の中から不機嫌な顔をした男が、ぬっと顔を覗かせた。男は目の前のカイナとその後ろに立っているコーディエをぎろりと睨みつけた後、集落のはずれの一際粗末で小さな小屋を指差した。

「ああ、あそこですね。ありがとうございま――」

「ふんっ」

 カイナが礼を言い終わらない内に男は扉を勢いよく閉じてしまった。その態度に唖然とするコーディエをよそにカイナは、

「あの小屋、使って良いそうだから、ありがたく泊まらせてもらおう」

 笑って平然と言った。そのまま揚々と小屋へと向かっていくカイナをコーディエは慌てて追いかける。歩いていく二人の背中に冷たい視線が突き刺さった。どうやら集落の住人達がこちらを伺っているようだが、決して友好的とは言えないようだ。


 そのまま居心地悪く辿り着いた小屋は薄い壁と頼りない屋根とボロボロの床があるだけの粗末なものだった。

「ごめんね。愛想が無いだけで、決して悪い人たちじゃあないんだけどね。とりあえず落ち着ける場所が見つかって良かったよ」

 荷物を片付けながらそう笑うカイナにコーディエは反発する。

「だとしても、来た人にあの態度は無いんじゃないですか?」

「そうだねえ。でも彼らから見たら私達は客人でもないんでもないんだよ。それこそ勝手にやって来て自分たちの領域を荒らす余所者だ。彼らだって自分の生活があるからね。何か奪われるんじゃないかとか、傷付けられるんじゃないかと心配なんだよ」

「そんなこと、するわけないじゃないですか!」

「君自身はそうかもしれない。でも他の人間はどうか、分からないだろ?」

「……っ!?」

「まして、する人としない人を区別する術を、誰も持っていない。彼らは奪われて、失くしてココにいるからね、警戒するんだよ」

 そう言われてしまっては、コーディエも反論は出来なくなった。


「さて、それじゃあこの世界と、君に何があったのか、その話をしようか」

 あらかた荷物が片付くと、カイナはコーディエに向き合った。その真剣な目にコーディエは息を飲んで姿勢を正した。

「……はい」

 そこからのカイナの話は衝撃的だった。今までコーディエが知っていた世界は空を飛ぶ巨大な船という小さな箱庭の中で、その外側には想像も出来ないほど広い世界が続いていること。そしてコーディエはその世界へ、箱庭から落とされてしまったこと。 どれも初めて聞くことばかりで、にわかには信じがたかった。

「あの……あんな高い場所から落ちたのに、何で僕は無傷なんですか?」

「おや、船の姿を見たのかい?」

「気付いたら去って行くところでした」

「ああ、なるほど。どういうわけか、身体だけは守られるんだよね。私の時もそうだったし」

 不思議だよね、とカイナは笑った。

「それで、だ。目下の君の問題は、この先どうするかだ」

「どうするか、ですか」

 首をかしげるコーディエにカイナは大きく頷いた。

「そうだろ? 空の上にいた頃みたいな家は無いし、勝手に移動してくれる船もないんだから」

「あ……」

 カイナに指摘されてようやく気付く。もう以前のような暮らしは出来ないのだと。戸惑うコーディエを置いてカイナは続ける。

「一つは丁度見つけたここに残る。悪い人ではないから大丈夫だと思うけど、受け入れてもらえるかは君次第だ」

 そう言われ、先程の視線を思い出してコーディエは慌てて首を横に振った。あの視線の中で生活するとは考えたくない。

「ほ、他に選択肢は?」

「もう一つは私みたいに旅をすることだ」

「旅……?」

 言葉の意味が理解できず鸚鵡返しするコーディエにカイナはは不敵な笑みを浮かべて答える。

「この世界を回るのさ。船も他に移動する手段も無しに、自分の足で」

「どこまで……?」

「どこまででも。少なくとも私はこいつが導く方向へ」

 そう言って取りだしたのは、宝石のようなガラスのような結晶の塊。結晶の中では赤みがかったオレンジ色の炎が揺らめいていた。

「綺麗だ……」

 これは何なのか、導くとはどう言うことか。浮かんだ疑問をを聞く前に、そんな感想がぽろりと口から零れた。

「ありがとう」

 するとカイナは心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべて応えた。

「これはね行き先を示す灯り。私達の意志と希望と夢の塊。本来ならみんなが持ってるものなんだけど……」

 そうカイナは言ったもののコーディエには見覚えがないものだった。

「覚えが無いかもしれないけど、本来君も持っている物だ。よく思い出してみると良い」

 知らない様子のコーディエを見てカイナはそんな謎めいたことを言うのだった。

 その後の時間、カイナは集落の人間と交渉しに小屋を出て行った。コーディエはカイナに言われたことをずっと考えていたが、どれだけ思い出そうとしても、あんな炎も結晶も記憶になかった。考えすぎて最終的には関係の無い日常のことまで頭に巡らせていた。

「そう言えばあの時……」

 船の上のことを思い出していく中で、落ちたその直前のことが頭によぎった。

 コーディエにとって船の中の家族が全てだった。ずっと父と母から愛され、彼らの期待に応えるために生きてきた。でも心のどこかで、それは違うのではないかとぼんやりと感じていた。もちろん両親のことは大好きだったし、生活に不満があったわけでもない。それでも言い得ぬ違和感と虚無感がコーディエの中で燻り続けていた 

「あの時、初めて言葉にしたんだ」

 父と母に正体の掴めない不安を、ただ相談してみただけだった。自分はこのまま父と母の元にいて良いのか。軽い気持ちで些細な将来の不安に対しアドバイスが貰えればと思って。

 しかしそんなコーディエに両親は激怒した。養ってもらっているのに何が不満なんだと。必死にした弁明も言葉尻を捉えられ、火に油を注ぐばかりだった。

 そしてヒートアップしすぎた父はコーディエの腕を掴み家のダストボックスに放り込んだ。

「僕はゴミかあ……」

 その後、排出される廃棄物に混じって、コーディエはこの地上へ落ちて来たわけだ。

 今ならコーディエも理解できた。あの違和感と虚無感は過干渉な両親への反発と、彼らに従ってばかりの自分への危機感であったのだと。両親はいつもコーディエが自分の答えを出す前に、彼に正しい答えを与えていた。そのおかげでコーディエは間違いを犯すことが無かったが、その正解は決してコーディエ自身の選択ではなかった。自分の力で進んできたわけでは無かった。

「僕は、自分の足で歩きたかったんだ」

 そう呟いた途端、胸の奥が熱くなるのを感じた。自分の足と力と意志で進んで行きたい。たとえそれが家族という名の小さな優しい世界を捨てていくものだったとしても、全ての負担を背負わなければいけないとしても。

「僕はもっと広い世界を歩きたかったんだ」

 気付くとコーディエは小屋を飛び出していた。集落の中を走って住民といるカイナに駆け寄る。

「思い出しました! 僕の夢。やりたかったこと」

 突然現れ会話を遮ったコーディエに何か言いたげな目を向けた住人を制してカイナはコーディエに問うた。

「なるほど、それで君にしたいことは何だい?」

 その問いにコーディエは胸を張って答える。周囲の住人達はみんな、コーディエの方を見つめていた。

「僕の夢は、この世界を自分の足で歩くこと。誰かに守られても決められてもいない自分の道を歩いて、もっと広い世界に行くことです」

 それを聞いたカイナは満足気に頷くと、コーディエの棟を指差して告げる。

「それならその夢は、炎は君だけの物だ」

 気付くとコーディエ胸にカイナが見せてくれたものと似たペンダントが薄黄色の炎を宿して揺れていた。


 その後はすごい勢いで話が進んだ。そもそもカイナが交渉に行ったのはコーディエがここで暮らせるように協力してもらう、もしくは旅をするのに必要な装備を譲ってもらうためだったらしい。進むことを決めたコーディエは礼を言いつつも自分の言葉で話し、頭を下げて回った。

 そして翌朝。

「まあ、見れるようにはなったかな?」

 カイナのような完璧な装備とまでは言わないが、風よけのマントを羽織り、荷物の袋を背負ったコーディエは、旅立ちの時を迎えていた。

「貰っちゃって良かったんですかね? まだ使えるブーツだったのに」

 足元のブーツは村人に一人が以前使っていた物を、履いていた布靴と交換した物だ。

「良いっていったからありがたく貰っておきなよ。それより後の装備は私無しでも頑張って手に入れるんだよ。今回のことを見る限り大丈夫そうではあるけど、君、人が良いからねえ?」

 カイナはそう言いながらペンダントを取りだした。

「うん、変わってないね」

 オレンジ色の炎は結晶の中で一つの方向を示すように揺れていた。コーディエも自分のものを確認する。薄黄色の炎は同様に中で揺れていて、

「あれ?」

「……もうしばらくは一緒みたいだね」

 同じ方を示していた。


  ――――――


 それからしばらく二人は旅を続けた。そのうちコーディエの装備も増え、野宿にも慣れてきて、落ちて来たばかりの彼とは随分と違ってきた。二人の関係も保護者と被保護者、師匠と弟子から先輩と後輩、そして仲間へと変わっていた。それでも一緒に旅をしているのは、変わらず二人の炎が同じ方向を示しているからだった。

 そして今二人は今日の寝床を借りようと、とある集落を目指していた。

「コーディエ! あと少しだ」

「どうやら日が暮れる前に着けそうだね」

 二人はほっと息を吐いた。ここ最近は野宿ばかりだったから。久しぶりに屋根と壁のある場所で眠れるかもしれない。コーディエの胸は期待で膨らんでいた。

 が、

「誰もいない……」

「あー、捨てられたんだね。飢饉か災害か……まぁそこまで期待なんかしてなかったけど」

 集落には人っ子一人いなかった。長らく放置されていたらしく建物はボロボロで、二人は手分けして集落全体を確認して回り、比較的大丈夫そうな家を選んで今日の宿とした。


 その夜のこと、

「ねえ、何でカイナはこういう無人の集落に着くたびに『期待してなかった』って言うの?」

「え?」

「今まで一緒に旅をしてきて何度か捨てられて無人になった集落に行きついて来たけど、いつもカイナはそう言ってた。でも今回もだけど、在るって情報を聞いた時はすごく嬉しそうだったから、何でかなって……あれは演技とかだったの?」

 そう言うとカイナは一瞬驚いた顔をして、直ぐに笑って見せた。

「そういうんじゃないよ。あれは私にとって『魔法の言葉』みたいなものなんだ」

「魔法の言葉?」

「そう……絶望しないための」

 例えば、とカイナは続ける。

「もし全てに期待して、そのたびに期待を裏切られ続けたら、落胆し続けたらどうなるだろう? 多分大抵の人間は絶望して期待することをすらやめるだろう」

「まあ、そうだろうね」

「でもそうなったら、全く前に進めなくなってしまう。君も分かってるだろうけど、この世界で旅をするということは確定していない未来に期待することだ。だけど思い通りに行くとは限らないし、行かないことの方が多いだろう。じゃあ君はそのたびに落胆し続けるのかい?」

「それは……お断りしたいね」

「私が言ってる『期待なんかしてなかった』ていうのはね、『その期待が裏切られる可能性があることを知っていた』ってことなんだ」

 そう言われてコーディエにも言わんとしていることが分かった。

「可能性に気付いていたから、そこまで落ち込む必要は無い、って言いたいってこと」

「そういうこと。まあ、正確にはそうだっただろ、って自分に言い聞かせる意味があるんだけどね」

「そうなんだ」

 納得した様子のコーディエにカイナは苦笑を浮かべ頷く。

「私としては、これ以上絶望したくないし、している暇なんてないから」

 そう呟いたカイナにコーディエは意外そうな顔をした。

「カイナでも絶望するんだ」

 それまで彼が見てきたカイナはいつでも合理的で、何があっても揺るがない。そんな人だったからだ。

 コーディエが感じたままに言うと、当人は心外だと言わんばかりに顔を顰めた。

「君には私が一体どんな超人に見えてるんだい?」

「いや、でも色々と知ってるし、問題が起きてもすぐに対応できるし……」

「それはただの経験値だよ。まあ落ちてきてからは絶望してる時間があったら先に進んでたのも事実だけど、それでも、折れそうになったことも無いわけじゃない」

 そう言ってそっぽ向いたカイナの横顔に言い得ぬ寂しさを感じてコーディエはためらいがちに口を開いた。

「……あの、さ。何でカイナは落ちたの?」

 ずっと疑問だったのだ。何にしてもそつなくこなすカイナなら船の上でも上手くやって行けただろうに、何故落ちたのか、落ちなければならなかったのか。

 しばらく続いた沈黙の後、カイナは徐に口を開いた。

「そうだね……君になら話しても良いかもしれない。ここまで一緒に旅をしてきた君になら」

 そして懐かしむように微笑み、目を細めた。

「結論から言うと、私は自分の意志で降りてきたんだ」

「は? 自分から!?」

「信じられないかもしれないけど……でもコーディエと同じだよ。船の上ではやりたいことも行きたい場所も叶えられないと思ったから。自分の足で歩きたいと思ったから」

 この地に来て進む選択肢をしたコーディエにはその思いは理解できた。それでも自分で降りることの重みに、言葉が続かなかった。

「ねえコーディエ。君はあの船がどうやって動いているか知ってる?」

「それは……」

 知っている。船の上の教育で必須事項だったから。

「『みんなの希望の灯火が船を動かす』……だいぶ詩的というか曖昧な表現だけど」

「そうだね。でも私達はその『希望の灯火』を持っているじゃないか」

 指摘されてコーディエは気付いた。胸に下げているペンダントを取り出してみる。

「もしかして、コレ?」

「そう、船の動力は私達のの道標、人々の夢の炎を一つにまとめたものだ。でも思い出してほしい。私達の行く方向は一致しているけど、以前会った旅人は全く逆方向に進んでいただろ?」

「ああ、そうだね」

「本来行きたい方向なんて様々なんだ。それを船では無理矢理混ぜ合わせて一つにしているから、てんで行き先が定まらない」

 実際地上から見上げてコーディエも気付いたのだが、船は空の同じ場所をぐるぐると回ってばかりいる。

「気付いた時絶望したよ。ここじゃダメだって、何処にも行けないじゃないかって。でもあれはみんなの船だから。どうやったって自分の行きたい場所には行けない。だから降りたんだ」

 勢いで降りたから最初は苦労したけど、とカイナは苦笑した。

「でも後悔したことはない。今でも覚えてるんだ。落ちながら見た光景を。丁度夕方で、傾いた夕陽に世界が染まっていた。その広さに感動して、その美しさに怖くなったよ。あの時の気持ちを覚えている限り、私は前に進めるんだ」

 長くなってごめんね、とカイナは笑って言った。そのまま灯りを消して二人は眠りに落ちたのだった。


  ――――――


 それでもまだ旅は続く。二人が出会って何十、何百もの夜が過ぎた頃だった。

 幾度目かの捨てられた集落に到着した。

「ま、期待はしてなかったよ」

 変わらずそう言うカイナにコーディエは同意して笑った。手慣れた様子で今夜の宿を選ぶ。

「ねえカイナ、ここ良いんじゃないかな?」

 丁度良い宿の候補を見つけてカイナに呼びかけた。

「あ、ああ。そこにしようか」

「どうしたの?」

 カイナは慌てたように何かを隠して、よく見もせずに同意する。その様子をコーディエは不審に思ったが、当のカイナは曖昧に答えるばかりだったのでそれ以上追及しなかった。


 翌日朝早く、物音でコーディエは目を覚ました。横を見るとそこは誰もいない。

 すぐさま起き上がり靴も履かずに表へ走り出た。

「カイナ!」

 出発の準備を整え、今にも集落から去ろうとするカイナの背中にコーディエは呼びかけた。

「コーディエ……」

 振り返ったカイナは、コーディエの見たことの無い、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

「起きちゃったか……」

「それじゃあ、黙って行くつもりだったんだね」

 カイナは答えなかったが、その沈黙はどう考えても肯定だった。

「炎の向きが変わったんでしょ?」

「気付いてたんだ」

「気付かないわけないよ。君の炎が僕は大好きなんだから」

 そっか、とカイナは曖昧に笑った。

「僕が付いて行こうとするとでも思った?」

「それは……」

「見くびらないでよ。もう僕は一人に怯えるほど弱くないんだ」

「そうだね、知ってる」

「今まで一緒に来たんだ。見送りぐらいさせて欲しかった。大丈夫だって信じて欲しかった」

「ごめん、ごめん……」

 泣きそうだったのはカイナの方なのに、気付かぬうちにコーディエの頬を幾筋の涙が流れて落ちた。

「ごめん……信じられなかったのは自分自身なんだ。君の声を聞いたら、言ってしまいそうだったから。一緒に来ないかって。君が来るわけないのにさ」

 弱くなったのは私の方かな、とカイナは自嘲気味に笑った。それを見て堪らずコーディエは首を横に振る。

「違う、カイナは弱くないよ。君の強さは他でもない僕が知ってる」

「コーディエ……」

「だって僕らは、同じ道を歩いた友達だった。それがバラバラになるんだ。寂しく思わないわけない。それでも進みたいと思うから、僕らはここで別れるんじゃないか」

 そのコーディエの言葉にカイナは小さく息を吐き、顔を上げる。相変わらず泣きそうだったが、その目は力強い、いつものカイナの目をしていた。

「私達の旅はもうここまでだ」

「うん」

「どうしたって、同じ道を歩くことは出来ない」

「うん」

「けど、未練がましく思う程に、私は君と出会えて良かったって、そう思ってる」

「うん、僕もカイナと出会えて良かった。君と旅が出来て良かった」

「コーディエ、君が君の目的地に辿り着けることを祈ってるよ」

「僕も、祈ってる」

 世界を優しい黄金色の光が染めていく。コーディエもカイナも、途方もなく広いこの荒野の全てを、昇り始めた朝日が照らしていた。

 二人はどちらともなく口を開き、そして言った。


「さよなら」

「またどこかで」


  ――――――


 その日はコーディエにとって生涯忘れられない日となった。あれ以来いくつもの夜を越えてきたし、多くの出会いを経験してきた。しかしコーディエにとってカイナとの日々は何にも代えがたい宝物で、あの時間があったから今の自分がいるのだと、そう思っている。



 旅の途中コーディエが辿り着いたのは放置された集落だった。珍しく得た集落の情報だったが、どうやら古すぎたようだ。

 あれから二人の再会は叶っていない。それでもコーディエはカイナが今も歩き続けていると信じている。そしてまたカイナも自身のことをまだ歩いていると信じてくれていると思っている。

 たとえどれだけ苦労をしても、傷付けられても、落胆しても、期待を裏切られても、自分達には行きたい場所があるのだから。絶望する暇なんてこれっぽっちも無い。

 だからコーディエはこの言葉を口にするのだ。


「期待なんか、してなかったけど」


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