六 さあ、召し上がれ《カムシーイ・デニアマザン》ⰍⰀⰏⰔⰃⰋ ⰄⰅⰐⰃⰡⰏⰀⰔⰀⰐ
涙は血のためにとっておけ
涙は血のためにとっておけ(前)
-------------------------------------------------------
一二七七年の述懐
-------------------------------------------------------
一二六七年の夏至祭礼から間もなく、僕は故郷を捨てた。この時は戻らない気でいたわけじゃないが、一二七七年には、二度とガラテヤの地を踏まないと決めた。
ザデュイラルから帰国した僕を、家族も友人も「よくぞ無事で」と喜んでくれたものだ。けれど、僕が手記の写しを大学に提出してから、雲行きが怪しくなった。
目の前で殺される三人の人間を見棄てたこと、あまつさえ人肉から作られた料理を口にしたことを問いただされ、殺害に関与した疑いがかけられたのだ。
加えて、ハーシュサクの人肉売買――、一部は人身売買への関与も。僕は便宜上は彼が取り扱う商品の一つだった、というだけなのだが、当局としてはそりゃハッキリさせたいだろう。それだけなら、まだ事態はマシだった。
-------------------------------------------------------
一二六七年 十号月十二日
-------------------------------------------------------
「(付け)角がなくなると表情が分かりづらいな」
帰国して三ヶ月後、秋の『紫陽花亭』で再会したハーシュサクは言った。二本指を立て、その間から目を細めてじっと見るのは、角がない相手を判別するしぐさだ。
「でもお前さん、さぞかし浮かない顔なんだろうってのは分かるぞ。新聞も読んだからな、有名人じゃないか」
「あまり嬉しくない騒がれ方ですけどね」
新聞は僕の手記のうち、子供を殺すニマーハーガンの風習、貴族の贄にされる使用人、父に料理されることを喜ぶ息子、夫の男性器を食べる未亡人、そんな「おぞましい」事柄ばかり抜粋し、意図的に歪めて伝えるようになっていた。
「そちらはどうですか?」
「カズスムクもミル坊も、お前さんのことを気にしていたよ。手紙も預かっているが、いや、意外だな。甥がこんなにあんたを気に入るなんて……気を悪くするなよ! あいつが本気で、誰かを友人だと言うのは珍しいんだ」
「光栄ですね」
心の底から言って、僕はカズスムクの手紙を受け取った。
あの眼帯の伯爵は、目に見える以上に孤独だったのだろう。タミーラクの死を本気で嘆いてくれる人間を、彼は僕に出会うまで他に見つけられなかったのだ。
魔族と人族、ザドゥヤ人とガラテヤ人という違いは大きく横たわっているが、その一点が共通していることは、カズスムクにとって大きな意味があったに違いない。彼が僕に友情を抱いてくれるなら、僕もそれに応えられるようありたかった。
「それで? またザデュイラルに来るんだろう?」
「もちろん行きますよ! 冬至の大祭も、春や秋の祭礼も立ち会いたいですし、あまり外に出歩けなかったのも悔しい。ザデュイラル国内で行ってみたい場所もたくさん……まあ、それもこれも身の回りのごたごたが落ち着いてから、ですが」
それが何年先になるか、この時はまるで見当がつかなかった。ハーシュサクも、当時の僕を取り巻く状況が、かなりろくでもない物だったことは察していただろう。
「次は三、四ヶ月後だな。少しは片づいていることを祈ってるよ」
「ええ。あなたも、お気をつけて。僕のせいですけど」
野蛮で邪悪で猟奇的な人食い鬼、そんな従来のイメージがより分厚く上塗りされ、ガラテヤでの魔族に対する風当たりは、さぞかしきついだろう……今度ハーシュサクが逮捕されたら、以前のように助かる保証はない。
僕はといえば、いまや人でなし扱いだ。
手記には祭宴で出た本物のザデュイラル料理、すなわち人肉料理について詳細に記してある。材料、調理手順、料理名、それぞれの味の感想。
食べたのは人族ではなく魔族だが、普段は彼らを悪魔だけだものだと言っている連中が、僕に「人間」を食べたと罵るのは失笑するほか無い。
……コガトラーサ父子の件にショックを受けた時、僕には彼らがまさしく悪魔に見えた。姿かたちが多少似通っていようと、中身は人間らしい心や魂を持たない、気持ちの通じ合わないけだものだと。
あの時は、彼らと接することの何もかもがおぞましく、そして恐ろしかった。
その感覚を思い出すと、ガラテヤの人々が僕を嫌悪し、非難するのも仕方がないと思える。だからって、僕の心が平穏無事だったわけではない。
ハーシュサクと会う少し前に、僕は大学を追い出されていた。友人たちは遠ざかり、慰めを求めた教父さまにまで「悪魔よ、出ていけ!」と言われる始末。
道を歩けば見知らぬ人が「
けれど、ガラテヤは生まれ故郷だ。
たった二ヶ月しかいなかった異国に心惹かれて、美化して流されるのは愚かだと自分に言い聞かせた。ここで生きて戦うべきだと、何度も。
◆
僕の心が折れたのは、じっと耐えていた父と母が、ある日「お前は人食いの人殺しだ」と言い出した瞬間だった。
僕は……すぐさま魔族に対する見方が改まるとか、そんな大それた期待なんてしていなかったのだ。ただ大学の恩師や両親と兄たち、そうした数少ない大事な人たちが僕の味方であれば、それだけで良かったのに。
-------------------------------------------------------
一二六八年二号月十三日
-------------------------------------------------------
「お前さん、すっかりひどい顔になったな」
帰国してから二回目の対面。ハーシュサクの何げない言葉は、そのころの僕には涙が出るほど嬉しい気遣いだった。
『紫陽花亭』がまだ僕の入店を拒まなかったのも嬉しいが、ハーシュサクは目深に被った帽子で自分の角を隠して、以前より少し硬い雰囲気を出している。
やはり状況は良くないのだろう。
「だいぶ、まあ、色々ありまして」
「そうだろうな」
「両親に入院を勧められましたよ。その方が外を出歩くより安全だし、お前も自分がしたことの意味が分かるだろう、って。それで、まあ、逃げるつもりです」
もちろん、入れと言われたのは頭の病院だ。そこで人間的な扱いはとても望めないし、研究を続けることも、見聞を活かすこともできなくなってしまう。
ハーシュサクは長い沈黙を使ってコーヒーを飲んだ。
「お前さん、やっぱりあの時、逃げ帰ったほうが幸せだったかもな」
ようやく口を開くと、彼はザデュイラル初日のことを言う。
「いえ。僕は自分がやったことを後悔してはいません。逃げ帰って、ただ憧れや妄想を募らせるだけなんてくそだ。今は確かに辛いですが、これは譲れない」
立派に言い切って見せたが、帰国してからの僕は、何度も何度も自分の正気と善性を疑った。だが、いくら自問しても答えは同じだ。
人間が人間を殺して人間を食べる。そうしないと飢えるから、そうしなくては皆が死ぬから、誰かが犠牲になって身を捧げ、後の者はそれに感謝して生きる。
それが家畜に対してか、同族に対してかの違いでしか無い。そして僕は、無理やりでも脅されてでもなく、捧げられた命に敬意を表してそれを食べたのだ。
恥じることも悔やむことも、何もない。
「じゃ、逃げるついでに旅行に来るかい?」
「旅行?」
ハーシュサクは軽い口調で話題を変えた。
「ミル坊がな、士官学校を卒業したらすぐ角を塗って、あまり外へ出してもらえなくなるからな。その前に、カズスムクのやつが二人で最後の旅行に行きたいんだと」
「そんな大事な旅、僕がついていったらダメなやつじゃないですか?」
なんとも恐れ多い話だ。あの二人の邪魔なんて出来るわけがない。しかし、ハーシュサクは「それがなあ」と苦笑した。
「碧血城でミル坊の兄貴に会っただろ?
「ありがたい話です。でも、それなら
ソムスキッラはカズスムクの婚約者だ、あの三人は古い友人同士だし、想い出作りに旅行へ行くのは妥当だと僕は思った。
「嬢ちゃんは
それはもったいない、と僕はうなる。
「ちなみにオレは先に断ったからな。若人とおっさんじゃ、お互い気疲れしちまうだろ。引率ってガラでもないし……」
「しかし、他にも僕より良い候補がいるんじゃないですか?」
「だって、お前さん知っているんだろ。あいつの眼のこと」
気後れする僕に焦れたのか、ハーシュサクの口調がすっと冷えた。一段重みを乗せて、普段の軽薄さがなりを潜めた瞬間だ。
「知っているなら責任を取るもんだぜ。マルソイン家の
だから、その意味を考えろ、と言外に含まれているようだった。
それでようやく得心が行った。カズスムクとタミーラクの旅に誰かもう一人加えるなら、これ以上の選択肢はないのだろう。
「分かりました、お引き受けします」
「よし。暖かい南へ行ってこいよ、男三人で。キュレーへのみやげも忘れずに。お前さんはその後、そうだな……ま、そこの相談は後でいいか」
かくて、僕は二度と帰らない旅路へ乗り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます