赤い名前の子供たち(後)

 タミーラクが痛がるのも構わず、ハジッシピユイは屋敷の片隅へ息子を連れて行った。古い扉を開けると、細長い縦穴の暗闇にらせん階段が続いている。


 我が家にそんな場所があるなど初めて知った。いったい何があるのか、恐ろしいと思っても腕を引く父の力にはさからえない。

 その時にはさんざん泣きじゃくりながら、タミーラクは必死で謝っていたが、悲痛な声は欠片も父に届いていないようだった。


 階段の底に着いて扉を開けると、よどんだ冷たい空気が流れ出る。すぐ目の前には、タンスのように小さな鉄格子の部屋があった。

 大人が横になれないほどの狭さは、獣の檻かと思わせる。

 父がその小部屋を開け、自分と一緒に入った時、愚かしくもまだ安心があったものだ。ここへ閉じ込められるとは、まだ彼は信じていなかったから。


 だが実際はどうだ。

 ハジッシピユイは壁に設置された枷の一つを取って、それをタミーラクの首にはめた。がちん、と絶望的な音がして、予想外の重みにバランスを崩してしまう。しりもちを突きかけたが、鎖に阻まれて不自然な中腰になってしまった。

 その間にハジッシピユイは外へ出て、扉を閉める。


 鉄と鉄がぶつかる、ぎぃぎぃと耳障りな、胸に突き刺さる嫌な音。

 がちゃりと、鍵をかける音。

 父が離れたぶん暗闇は濃くなって、このまま置いていかれる予感に震えた。幼い角はまだ感覚が弱く、灯りのない暗がりでは何も見えない。


「ちち、うえ」

「一晩よく反省するがいい。お前の役目をあらためて考えよ」


 ハジッシピユイは何のためらいも見せずに去った。

 後にはごつごつと固くて不快な石の床、臭くてよどんだ空気。夜の海に沈むような深い深い真っ暗闇は、自分の角さえも分からない。


 それは今まで、タミーラクが与えられてきた住まいや寝床からはあまりにかけ離れていた。これに比べれば、反省部屋はまったく綺麗なものだ。牢獄より何倍も広くて清潔で、何より窓があって明るかったし、絨毯もクッションもあった。


 いくら声をあげても誰もこない。寒くて手足がかじかむ。目を開けているのに、まぶたの裏より真っ黒で暗い。鉄の首輪が重くて痛くて息苦しくて、中途半端な鎖のせいで、横になることもできない。痛い。立ってももたれても、どう動いても、体が床や壁や鉄格子にぶつかり、こすれて、うすくうすく肌が削れる。誰もいない。こわい。どれぐらい時間が経った? もう一晩? それとも三日? いつまでここにいればいい? 本当に父はここから出してくれるのか。お腹が空いた、喉が渇いた、気持ち悪い。苦しい。どうして自分がこんな目に?


――贄に出す用スタンザの子だからだ。


 唐突にタミーラクはそう理解した。自分と他の家族との決定的な差。そうだ、食堂を出る時、父は何と言っていた?


――お前は陛下の贄になるために生まれてきたのだ。

――この子がタンタのようににならないなら、


 タンタサリッサが贄になる資格を失った直後、ハジッシピユイは大急ぎで新しい子供を、タミーラクをもうけた。その理由を、八歳にしてとうとう悟ってしまった。


〝贄になって食われないと言うのなら、お前などいらない〟。


 自分の価値が、タンタサリッサと違って大事にされる理由が何か。臓腑ぞうふの中で形を持って、実感として穿たれるのを感じた。

 贄にするためでなければ、自分はこの世に生まれてくることすらなかった。生きていくためには、二十歳で死ぬことを受け容れるしかない!


 永遠とも思える暗闇の果てに光が差した時、すがりつこうとして首枷にはばまれた時は、いっそう惨めだった。

 鎖が鳴り、泣き続けた喉が鉄の輪にぶつかってまた痛む。がちんと音がして体が軽くなると、枷を外された喜びよりも、見捨てられる恐怖でいっぱいだった。


「ちちうえ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいもうさからいませんいうことききますちちうえ、ちゃんとにえになってしにます、だからだからだから」


 真っ青な顔でガタガタ震えながら、かすれた声で訴える息子の言葉を、あの男は満足して聞き届けたことだろう。ハジッシピユイは黙って頭を、ついで角を優しくなでると、衰弱した我が子を抱きかかえて地下を出た。さぞかし、意気揚々と。


 ただちにタミーラクは体を洗われ、温かい食事と快適な寝床を振る舞われた。昨夜の葬儀で取り置かれた、タンタサリッサの骨付きロースト肉。

 お腹いっぱい食べて、喉を潤して、ふかふかのベッドで寝て起きたら、目覚ましに蜂蜜入りの杏仁乳クロイムをもらう。地下に送られる前とまったく変わらぬ生活、待遇。


 だがもう、取り返しのつかない違いがそこにあった。

 あの地下は、盗みを働いたり人を傷つけたり、罪を犯した使用人を捕らえるための牢獄だった。そんなところに、本来なら侯爵家の子供が送られるはずはないのだ。

 だから母は一度は止めようとして、しかし結局はあきらめた。


 タミーラクは贄に、【肉】になるから、そんな恥ずべき屈辱を父に負わされてものだ。そのことを使用人たちも全員知っているのに、黙って彼の体を清め、食事を運び、部屋を掃除する。彼らの沈黙は、そのまま牢獄の床に似ていた。


 地下から出てしばらくは、母がつきっきりで慰めてくれたことを覚えている。それもかえって惨めな気がした。自ら腹を痛めて産んだ子供を死なせなくてはならない、そのことに彼女自身苦しんでもいたのだろう。だが無力だ。


 しかし、力とは何かと問われれば、それは魔法のような、誰にもどこにもありえない力だった。贄を出さなくても良い世界は、ザドゥヤに居場所のない世界だ。


 人を食べるか、食べられるか、飢えて死ぬか。

 自分は何も分からないうちに、友達を食べた。

 二度目に【肉】を出された時、拒まずに食べた。

 三度目の【肉】も食べた。

 やがて食べないという選択肢を捨てた。


 それが家畜スタンザの人生でも、たった一人、自分を人間として扱ってくれる友達がいたから。今は食べる側だと胸を張って、調理と向き合える。

 死にたくはないから、生きられるだけ生きたい。生きている間、死んでいったものたち、食べているものたちにも出来るだけのことをしたい。



――「だから、俺の番が来たら、喜んで料理されるんだよ」


 タミーラクがそう断言した時、僕は作るべき顔を持ち合わせなかった。

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