舌に乗せて、手で語って(中)

おお……神よハー・ビー・ガムル!〔Xa be Gaml!〕」


 これは完全に僕の失態だ。茶話会での様子から、ガラテヤもザデュイラルも、食事の作法は大差無いように見えたのだ。

 後は実地で体験できれば良かったのだが、僕の食事は客室に運ばれ続けており、ザデュイラルの生きた食事作法というものを眼にすることがなかった。


……〝食事中に使う専用の手話〟なんてものが開発されていることを予想するのは、さすがに不可能であろう、とは思う。


 だが、こんな異国まで来ておいて、その程度の考察しかできない僕はバカだ。彼らが『食事』に懸ける意識の高さを、あれほど思い知ったと言うのに!

 茶話会の学びが何も活かせず、何が好奇心か!


「あと、供されるアジガロの身にもなってやれ。食うなら相応の礼儀がある」

「贄になる側にとっても、気持ちの良いことではないのですね」


 贄候補のタミーラクにまでそう言われると、重みがある。殺されて食われる当人たちが不愉快ならば、尊重すべきだろう。僕は否応なく覚悟を決めた。


「分かりました、残り一ヶ月半でできる限り典礼正餐語を勉強してみます」

「そう言っていただけると思っていました、イオ」


 カズスムクは少し首をかしげて品良く笑った。宝石が輝くのが当たり前のように、ことさら笑顔を浮かべなくとも、自然ときらきらした光の波を発する。そうした自分の造作を心底理解した、計算づくの――だが抗えぬ魅力的な微笑だ。


「あなたがザデュイラルに滞在する間、その行動には私の責任が問われます。ですので典礼正餐語について、私が全力でご教授いたしましょう」

「伯爵はお忙しいのでは?」


 特に僕を放置していたこの二週間は、忙殺と言っても良いほどだったはずだ。


「あなたに正餐語を一通り覚えていただくのも、仕事のうちです」

「ではお言葉に甘えて、」

「いやちょっと待て」


 犬歯が目立つ強面を切羽詰まらせて、タミーラクが口をはさんだ。


「家庭教師呼んでやれよ。お前は教えるのに向かない」

「なぜ?」カズスムクは首をかしげた。「君がリド語(※古代アース帝国の公用語)で落第しそうになった時、ぼくと特訓してめきめき成績が上がったじゃないか」

「そいつは感謝してるよ! お前、人に教えるのは得意だって思ってんだろうけどな、それ、拷問人が犠牲者から確実に自白を捏造できます、みたいなやつだからな」

「その血生臭くて不安になる喩えなんですか?」


 嫌な予感がしてきた。カズスムクはわずかに眉根を寄せて、不満を表明する。


「しかし、祭宴パクサまでもう一ヶ月半。今からひと通りの典礼正餐語を習得させられる教師を探すのも、生易しいことじゃないよ、ミル」

「そりゃ……そう、なんだが」


 幽霊のように首をめぐらせ、タミーラクはそれはそれは気の毒そうに顔を歪めて僕を見た。いったいこれから何をされると言うのだろう。


「教師を探すよりは、ぼくがでやった方がずっと確実だ。イオも構いませんね? かなり厳しく行きますが、これも祭宴パクサに参加するためなればこそ」


 カズスムクは父親亡き後、後見人となった祖母イドラギガ〔Ýdraghjgha星見の塔〕とレディ・フリソッカに厳しく育てられたと言う。祖母は所領の本邸におり、レディはどうも僕を歓迎していないらしく、あまり顔を合わせてはいない。


 叔母上仕込みという言葉が、どうにも不安をかき立てられた。

 しかし僕の旅の目的は夏至祭礼に参加し、その後の祭宴パクサに出ることで達成される。自分の不安を吹き飛ばすべく、僕はわざと強がりを言った。


「いやあ、記憶力には自信があるのですよ。肩を刺したことに比べれば、手話の一つや二つ……それに時間もありませんし、ビシバシお願いします!」


[ああ、僕はその時、悪魔の契約書に署名してしまったのだ。]


「分かりました」


 応じたカズスムクの微笑みは、冥府で輝く凍てついた湖のようだった。

[後々、このえげつないほど眩しい微笑みに、夢の中でも悩まされるはめになる。]

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五号月十六日 花曜日ディケリトルヤク

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「違います!」


 ミスを指摘するカズスムクの声と、僕の手首を打ち据える教鞭は稲妻より早い。


「それは〝A〟のサインで、〝Å〟の形はこうです。昨日もお見せしたでしょう」


 カズスムクはささっと指を折ったり曲げたり手を開いたり握り込んだりする、複雑怪奇なサインを手本として見せてくれた。しかし早すぎて覚えきれない。


「すいません……」

「謝って解決するなら、かまどの火はいらないのです、イオ」


 典礼正餐語の講義が始まって、一週間。僕に客室として与えられた部屋は、一日数時間、カズスムクがレッスンする個人教室として使われている。

 あの日から、僕が知る親切で、温厚で、紳士的なカズスムクは、血も涙もない残忍冷酷な鬼教官に変身した。タミーラクが僕を気の毒がるわけだ。

 容赦も寛容も慈悲も、地獄のかまどで焼き捨てられたらしい。どうやらこれまで、僕はよそからのお客さまとして、かなりの無作法を許されていたようで……。


「もう少し早く上達していただかないと、にかけますよ」


 カズスムクが言っているのは、パッセンロー・マツレワブ〔Pazzonroo幸せな田舎者 Mätsrevab〕に由来する拷問法のことである。

 彼は千二百年ほど前、〝絶土帝ぜつどていイェルアーシェルフルッキ三世〔H'l Åsherflqq偉大なる Ⅲ〕の宮廷料理長ユアレントゥルに就いたザドゥヤ貴族であった。

 腕の良い料理人だったらしいのだが、ある時発狂し、「画期的な調理法」と称して生きたまま贄の皮を剥ぐなどの残虐な方法で三人を殺害。


 ザデュイラルで最も過酷な刑罰は、皇帝のザカーを損なった者に課せられる。激怒した聖アーシェルフルッキ三世は、パッセンローに「その三倍」を命じて責め殺したのち、酸の池で骨まで溶かして埋め立てて、未来永劫立ち入りを禁じた。ザデュイラル史上に残る、忌まわしき大罪人である。


 つまりその名前を出すほどに、カズスムクは激怒しているのだ。

 最低でも「てめぇいい加減にしねえと無茶苦茶ぶち殺すぞ脳足りんが」ぐらいのことは言っているが、これでもかなり穏当な表現だ。


……いや、ここでその正確さを追求するのはよそう。表面は品良く穏やかに、結構な罵倒をザドゥヤ貴族流にさんざん浴びせられているが、今はまだ耐えられる。


(※編註……イオはこう言っているが、パッセンローが実在の人物であったかは疑わしい。そもそも聖アーシェルフルッキ三世は、史実と創作が混在した伝説的皇帝である。更にパッセンローは、ザデュイラルにおいて最も忌避される最悪の存在を体現している。誰かが作り出した架空の人物、と断定する文献も多い)


「さ、もう一度〝Slacktaスラクタ ånオン tekcýmティッキム〟を」


 カズスムクは手本を見せながら促したが、相変わらず早くて眼が追いつかない。なお、これはザドゥヤ語の「ありがとうスラクタ」を丁寧かつ古風にした言い回しだ。


 日用の正餐語ならばSlacktaだけで事足りるが、祭宴パクサの場では厳密な礼儀作法と、正しい典礼正餐語を求められる。

 しかも基本的な語彙は日常のザドゥヤ語ではなく、古シター語に基づくからまた難しい。僕は必死で教わったサインを次々と作った。

 何とか半分が過ぎたところで、ピシャリと教鞭が繰り出される。


「それは〝T〟ではなく〝L〟です。塩の湖に流されたいのですね?」


 ザデュイラル南西部のイムユウ〔Imuyu〕には巨大な塩水湖があり、そこではかつて手足を叩き折った猿を船に乗せて流す、謎の祭りが行われたと言う。

 その昔、タルザーニスカ半島は群雄割拠の果てに三つの大国が成立し、更に三国を統一して生まれたのが現在のザデュイラルだ。


 この猿流し祭りは統一前、南のアミパナフ〔Amipanach〕王国で行われていた。残念ながらその伝承については失われてしまい、祭りの詳細は不明だ。

 というわけで、現在においては「手足叩き折るぞクソ猿」という意味で「塩の湖に流す」という罵倒表現が使われているのだった。


Slackta……åntekcým

「すばらしい。今度は間違えませんでしたね」


 やっとお褒めの言葉をいただき、僕は大きく肩を落として脱力した。さんざん手首を打たれて痛いのはもちろん、指はくたくたで今にもつりそうだ。

 いくつもの形を覚えるのはもちろんのこと、それを繰り出す際も慌ただしかったり遅すぎたりしてはいけない。あくまで優雅にサインを結ぶのはもちろん、他人のサインもきちんと読み取って、的確に応答できなければいけない……そんな無茶な!


 僕は少なからぬ限界を覚え、思い切って中断を訴え出ることにした。

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