その【肉】の名を呼ぶな(後)

「私たちザドゥヤは【肉】を食べずに生きようとして、何度も失敗しました」

「……本当ですか!? それは、ああ、失礼ながら意外です」


 カズスムクはニコニコと笑っていた。氷と言うよりもっと細かく柔らかな、新雪がキラキラと光るような笑み。「そうでしょうね」と言外に含まれた気がした。


「実際に、菜食主義を標榜する者たちもいます。我々も【肉】を食べずに生きられるはずだ、と。しかしほとんどの者は健康を害し、性格までも変わってしまって……あまり良い結果を出している者はいません」


 菜食主義の食人鬼、なんだか下手な冗談のようだ。

 だが、彼らにとっては真剣な問題だろう。ひっそりと秀眉をひそめるソムスキッラと、苦い顔のタミーラクの様子から、あまり歓迎はされていないようだが。


「鳥が食べられれば良かった、という話をしましたね。その少し前に、私は〝Nimhacagånnニマーハーガン〟で、初めての友達を食べました。彼が死んだことを理解できないまま、どうしてあの子はここにいないんだろう、とさびしく思いながら」


 カズスムクは遠くを眺めるような、夢見るような眼差しをした。


「それでも、何より、美味しくて」


 喉も吐息もとろけたような、恍惚こうこつの声。その舌に、ありし日の味がよみがえってでもいるように。それはこれまで彼が見せていた、貴族としての姿ではなかった。

 ただの十七歳の少年でもない。生物としての本能に根ざした、剥き出しの官能に身を任せた食人鬼だ。それもごく一瞬のことだったが。


「……詳しくお聞きしても?」

「その子は、平民サルクスのザドゥヤ人でした。物心ついた時からマルソイン家で暮らしていて、私は彼のことを弟だと思っていました。ただ、右の角が赤い塗料で塗られており、その意味を知ったのはずっと後のことです」

「それは」


 僕は首を巡らせてアジガロを見た。貼りついたように変わらぬ笑みの上、赤く塗られた角がある。


「それは、間もなく死ぬことが決まっている者の印でした。私と、幼い妹以外の誰もがその意味を知った上で、いつも優しく世話をしていたものですよ。そして六歳のころ、私の角が生え変わりニマーハーガンのために抜け落ちました。その日から、あの子はマルソイン家から姿を消してしまったのです」


 動物の角も、人間の歯も、生涯何度か生え変わる。

 人肉を食べることの危険性を僕はさきほど語ったが、それは彼ら魔族も承知の上。免疫を持たない幼い子供に、彼らは決して【肉】を食べさせない。

 角の生え変わりニマーハーガンNimhacagånnさきわいしもの〕は、体が出来上がった大きな節目だ。


「私は必死であの子を探しました。誰に訊ねても、内緒ですとしか言ってくれない。みんな知っていて黙っているのは確かで、妹とタミーラクの他には誰も信じられなくなりました。……それなのに、あの子が帰ってきたと言われて信じてしまったのは、どうしてでしょうね? 子供らしい愚かしさですよ。新しい角が生え終わった私は、また友達に会えることで頭がいっぱいで、食堂の扉を開けました」


 扉の向こうで最初にカズスムクが見たものは、小さな頭蓋骨だった。綺麗に漂白され、花とともに専用の台で飾られていたと言う。扉の横にいた使用人が、彼の手に赤い角を握らせて席へ案内し。母親が「おめでとう」と告げた。


「出されたのは心臓とプルーンの煮こみです。まさに、極上の美味でした」


 カズスムクは自分の表情を隠すように、片手で顔を覆う。


「『あなたたち二人はとても仲良しだったから、そんなにも美味しくなるのよ』と母上は教えてくれたものです。後になって、何が起きたのか理解してからも、その味が忘れられません。あの時食べなければ、【肉】に飢えるような思いを抱かなくても済んだのかもしれない……それも無意味な仮定ですが」


 飢える、という直接的な表現を彼が使うとは思わなかった。

 この風習がなければ、最初から【肉】を一度も食べさせなければ、完全な菜食主義の食人鬼というものは育つか? 答えは否だ。


 紀元前四八〇年、シャナー共和国〔Seanh〕の古代王ケソリ〔Kesory〕が、ちょうどそのような実験をしている。魔族国家ベフォム〔Befuom〕を滅ぼしたケソリ王は、三百人の赤子を手に入れ、試しに一切の肉類を与えず育てたさせた。

 結果、誰一人として十歳まで育たなかったという。


 それは牛乳や卵、動物性の油が受け付けなかったのか、環境の違いからなのか、いくつか検討する要素はあるものの、多くは栄養失調と病気が原因のようだ。

 だが、栄養だけだろうか? 同族、あるいはそれに近い人族の【肉】。それは彼らにとって、ただの食物以上の意味が存在しているのではないだろうか?

 いや、あって当然だ。その【肉】は人なのだから。


「……彼の、名前はなんと?」


 僕の問いに返ってきたのは、またも新雪のような笑みだった。触れば溶けて消えてしまいそうなのに、はっきりと拒絶の冷気を横たわらせた。


「教えられません。もう私が食べてしまいましたから。なんなら、そう、仮に〝ネル〟とでもお呼び下さい――あの神話の弟と同じように」

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