ただ一度の〝最高の料理〟(中)


 僕は何か聞き間違えたのかと思って、え、と間抜けな声を漏らした。その声が、耳を塞いでツバを飲んだ時のように、僕の体内でいやに大きく反響する。

 それとは逆に、周囲の音は妙に遠く、静かで、同時に人々が口々にささやく言葉が、こつこつと鼓膜に当たってきた。


「大トルバシド卿が、自らの手でご子息を?」

「ということは、三年後のムーカル役は彼ですか」

「決まりでしょうな」

「さすが宮廷料理長ユアレントゥル閣下……」


 ため息のような羨望と祝福が、大聖堂のそこかしこで渦を巻く。


「陛下が直接手を下されるなら話は別だが、我が子を任せられるほどの技量を持った者はやはりいない。お前という素材を得て、私のわざは更に高みへと昇るだろう」

「おお、良かったな、タミラ! 早くボースボシバヨウ〔Bǫs〕とぺリアにも報せてやりましょう、父上!」


 ばしん、とザミアラガンに背中をぶっ叩かれ、タミーラクはよろめきかけた。その体を引っ張って、ハジッシピユイは息子を抱き締め、額に口づける。


「愛しているぞ、タミラ。我が血を分けた、最愛の骨肉よ。お前には一日も欠かさず私の料理を食べさせ、その成長を見守ってきた。手塩にかけた尊い体と命を、我が手で摘み取り料理する。血の一滴まで余さず味わい尽くしてやろう!」


――(こいつはいったい、何を言っているんだ?)――


 それはあられもない愛の言葉、おぞましい欲望の発露に聞こえた。ニマーハーガンの祝いに殺す子供とはわけが違う、血のつながった我が子を、そんな眼で。


「ありがとうございます、父上」


 ハジッシピユイの腕の中で、まばゆく柔らかい声がした。タミーラクは幸福感を噛みしめるように眼を閉じていて、まぶたを持ち上げると弾けるように笑った。

 鋭かった目つきが感極まって潤み、普段のおとなびた精悍さが、幼い子供のような無邪気なほどの喜色に塗り潰されている。


「他ならぬ父上の手で、何にも勝る美味に仕立てられるなら、ワタシは心から幸福に思います。どうぞ陛下と共に召し上がってください」


――それは本気で言っているのか?


 僕はよほどそう問いたかったが、彼の夢見心地な笑顔を見ていると、口にしたところで無意味に思えた。浮き世の愁いも迷いも手放して、安らかな眠りに落ちる寸前の子供のような顔。何の未練もなく死ぬ人間は、きっとこんな風に微笑むのだろう。


「おめでとうございます、トルバシド伯」

「おめでとう。間違いなくあなたは、史上最高に幸福なムーカルだわ」


 カズスムクとソムスキッラの祝辞に、タミーラクは父から体を離して軽く返礼した。それからやや表情を曇らせて、ハジッシピユイを見る。


「父上。アンデルバリ子爵は、ワタシの祭宴パクサには……」

「それは無理だ。席はすでに大方埋まっている、私は陛下に我がままを通させてもらったからな、これ以上の融通はできぬ」


 皇帝に贄を差し出した家は、贄の【肉】の分配にあずかる。

 だが、カズスムクのようなただの友人にその権利はない。タミーラクは一応、確認するだけしてみたのだろう、「はい」と答えてすぐ引き下がる。


「タミラに口利きを頼んだのか?」


 厚かましいと言わんばかりにザミアラガンは顔をしかめ、カズスムクをにらんだ。彼がカナリアの灰を飲ませた件は確か十年前のはずだが、妙に根に持っているのではなかろうか。あるいは、他にもまだ何かわだかまりがあるのかもしれない。


「あの、恐れ入りますが」


 僕は黙っていられなくて挙手した。気になることはいくつもあるが、心臓が爆発しそうに鼓動を早めていて、口の中は乾ききってひび割れそうだ。


「僕は少々話の流れを見誤っているようなので、もう一度今のお話を確認させていただいてよろしいですか? 大変失礼な誤解をしてしまったような気がするので」

「構わんよ」


 ハジッシピユイの返答は短かったが、それで流れが切り替わった。

 僕はツバを飲み込んで無理やり喉を潤し、恐る恐る質問に乗り出す。地面があるかないかも分からない、真っ暗闇に踏み出すような気分だった。


「大トルバシド卿は三年後、贄として召し上げられる息子さんを、自分自身の手で殺して、解体して、調理する、ことが決まった……のですか?」

「話を聞いていなかったのですか? イオ。その通りですよ」


 答えたのはカズスムクだ。僕はひどい耳鳴りと頭痛に頭がクラクラしてきた。冷や汗が玉になって背中を流れ落ちる。どくどくと自分の心音がうるさい。

 ハーシュサクはなんと言っていた。実の息子の味を。僕は、さぞかし美味しかっただろうなんて言って。


「父親が実の息子を殺して、調理する、と……?」

「それが何か問題なの?」


 ソムスキッラは困惑しているようだった。ザミアラガンも、タミーラクさえも訝しむばかりで、僕が何を訴えたいのか欠片も気づいていない。

 仮面のせいか、表情がよく分からないハジッシピユイが口を開く。


「ふむ。ザデュイラルでも、親が我が子を奉納ガグリフする例は滅多に無いものだ。しかしお客人は学者だろう、そういう故事の一つでもご存じではないのかね」

「確かに、そういう伝承もあるにはありましたが」


 神に命じられて、我が子を捧げた男の話。荒れ狂う海を沈めるため、父に自分を船から投げ落とすように言った少年。そうしたエピソードが僕の脳裏をよぎったが、確かな名前も、正確な筋も、上手く思い出せない。急に自分が馬鹿になった気がした。


「私は〝最高の料理〟を作りたいのだよ、お客人。慈しみ育てた我が子の味はそれだけでも極上だろうが、自ら腕を揮ってこそ。実に楽しみだよ」


 仮面から覗く濁った白い瞳は、何を見ているのだろう。ハジッシピユイは手を伸ばして、肉の柔らかさを確かめるように、タミーラクの頬を撫でた。

 恥ずかしい、と言って彼はその手から逃げたが、まんざらでもなさそうな面持ちである。そして逃げた先で、母親のジュトロターマに抱きつかれる。


 彼女の「おめでとう、タミラ」を皮切りに、大聖堂のあちこちからコガトラーサ父子への賞賛と祝福が後から後から押し寄せきた。

……なんだろう、これは。彼らにとって、これはそんなに「良いこと」で、「幸せなこと」なのか。建前ではなく、心の底からそう思っているのか。


 急に僕は彼らの顔形が見えなくなった。なんだかぼんやりとした影法師のようで、ああ、魔族が角のない人間を見る時はこんな感じだったのかもしれない。

 視界がぐにゃぐにゃと歪んで、天地が逆さまになる錯覚まで始まっている。


「大変申し訳ないのですが、体調がよろしくないので、これで失礼いたします」


 相手の返事を確認もせず、僕は場を辞して駆け出した。一秒でも早く、幸せそうに微笑むあの家族と、それを祝福する人々から逃げ出したかった。

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