第2話


  あれから三日が経った。あの女とは再会していない。

 冷静に考えてみれば予約は取り付けていないし、女の名前を聞いていない。

 勢いでメモを渡してしまったが店に来る訳がなかった。

 普通に考えれば見ず知らずの男に散々罵倒された挙句、店に来いと言われてのこのこ現れるほうが可笑しい話だ。

  退勤後にはまた客探しに繰り出さなくては、と憂鬱な気分に陥りながら手にしていた箒を動かす。

 今日もまた掃除や補助に精を出す雑用だ。

 時折任せてもらえるシャンプーが息抜きなくらいだ。

 シャンプーを気に入って俺を指名してくれる客も居るが、俺は洗い屋ではない。

 美容師だ。俺だって美容師としての仕事がしたい。


  扉に付いている鈴が高らかに鳴る。来客の合図だ。

 接客をしていない従業員が一斉に「いらっしゃいませ」と声を掛ける。

 来店した客の受付業務は新米の仕事だ。

 俺は手にしていた箒を立てかけ早足で入口へと向かう。

  するとそこにはあの女が緊張した様子でキョロキョロと店内を見回していた。

 俺を見つけると気の抜けたヘラヘラ顔を浮かべた。

「来ないかと思った」

「椎名さんが私を変えてくれると言うので期待して来ちゃいました」

「よく信じたもんだ」

「あんな自信満々に言われたら気になりますから」

  度胸はあるようだ。それともただの馬鹿なのか。

 何にせよ、来たからには全力を尽くすのみだ。

 それにようやく俺の腰元にある鋏達が飾りではなく役目を全うできる訳だ。

「和真、お客さんか?」

 客の施術がひと段落した店長が俺の元までやって来た。

「はい、一応」

「一応?」

「俺が一方的に来いと言っただけなので客とは呼べません。金は俺が負担するんでカット入らせてもらっていいですか?」

「そんな、私椎名さんのお客さんです!ちゃんとお支払いします!」

  よくそこまで俺を信頼しきれるな。はたまた店に来たという責任感からか。

 女ははっきりと言い切った。

「じゃあお嬢さんは和真の大切なお客様だ」

 店長は嬉しそうに笑い、女を奥の席へと促した。

「じゃあ満足したら払え。納得しなければ貰わない」

「分かりました」

 また気の抜けた笑みを見せる女になんだか調子が狂いそうだった。

 

「お前、俺が最後に言った言葉覚えてるか?」

「覚えてますよ!だから一生懸命お洒落してきました!」

  見てくださいと誇らしげに腕を広げて着ている服を見せつけてきた。

 最初会った時と同じ厚手のケープを脱ぎ、現れたのはこれまた身体に合わない大きさのセーター、しかもドギツイ蛍光色。

 膝丈のパンツは「どこで売ってるんだ?」と逆に聞きたい柄にストッキングも柄物、使用感丸出しのムートンブーツ。

  極め付けはお洒落のつもりであろうヘアアクセだ。

 大きい星型の装飾がついたヘアゴムで高めの位置で結わかれた髪が許されるのは、小学生や園児、またはそういう傾向の芸能人だけだ。

「もし来るならお前が出来る最善の洒落た服を着て来い」先日去り際にそう付け加えた筈だが。

  なるほど、無頓着以前にこいつのセンスが壊滅的なんだな。 

 彼女の服装は良く言えば随分と子供のように愛らしい物だった。

 相手が小学生でもなければ隣を歩くのは御免だが。

  そもそもこいつが先日眺めていた服のブランドの傾向とはかけ離れている。

 理想はどこに向かっているんだ。

「何だその取っ散らかった服は!今時の小学生にお洒落しろって言ってもこんな選択はしねえよ。大体美容室に来る癖に髪型をセットしてくる奴がいるか!喧嘩売ってんのか!?」

「ひえええ!すみません!」

「ったく…座れ」

  椅子の向きを動かし着席を促すと女は素直に座った。

 椅子を反転させ鏡に映る女を見る。

 鏡の前のこいつは地味で組み合わせの悪い服を着ている冴えない女だ。

「今から俺がお前を変えてやる。よく見とけ」




「…すごい。魔法みたい」

  鏡に映る自分を見てぽつりと呟いた。

 今女が着ている服には似つかわしくない女性らしい落ち着いた髪型だが、あのショーウィンドウに居たマネキンの服には充分釣り合いが取れる。

  子供みたいな女のイメージも随分と変わった。

 髪型が他人に与える印象の大きさを物語っている。

 これで化粧でもすればそれこそ化けるのだから女性とは随分と可能性を秘めた生き物だと思う。

  いざ施術を始めると女は黙って鏡越しに俺の手つきを眺めていた。

 俺は大した会話も投げかけなかったし、ほぼ無言に等しかったが飽きずにずっと見ていた。

「きちんと努力すれば変われるんだ、少しは勉強することだな」

「そんな!誰にだってここまで出来ることじゃないですよ!職人技です!」

  大袈裟な表現だな。

 あまり良い美容師に恵まれなかったのだろうか。 

「椎名さんは魔法使いですね」

  無邪気にそう笑うこいつはやはりお子様だ。

 けれど不思議と嫌な気持ちではなかった。

「いいじゃないか。やっぱり和真は腕もセンスもいいな」

「どうも」

  自分の客が退店し、手の空いた店長が様子を窺いに来た。

 だったら俺にも普通にお客を取らせてくださいよ。そんな言葉を飲み込む。

「お嬢さん、和真はどうでしたかな?」

「椎名さん乱暴な口調なのに手つきはとても柔らかいんです。手際よくて丁寧に扱ってくれて。ああこの人は本当は仕事に真面目で優しい人なんだなって思えました」

  コイツに俺はどう見えてたんだよ。

 まあ、人当たりの良い人相でも態度でもないのは自覚してはいるが。

 それでも、コイツはきちんと俺の仕事ぶりを見て判断してくれた。

「和真。お見送りまでが仕事だぞ」

「分かってますよ」


  店長は満足そうに笑うと俺の肩を叩いて別の従業員の元へと向かった。

 俺は女をレジまで案内し、預かっていた上着と手荷物を取り出す。

 上着を着やすいように広げて持っていてやると女はクスッと笑った。

「何だよ」

 おかしなところは一点も無かった筈だ。笑われるのは心外だ。

「いえ、椎名さんって言葉に似つかわしくなく紳士的な人だなと思って」

「うるさい」

 少し乱暴に上着を被せると女は慌てたが、きちんと着終えるとまたヘラヘラと笑った。

「今度は何だ」

「椎名さんって可愛いですねー」

  可愛いなんて言われて寒気がする。

 駄目だ。これ以上言い返したら俺が負けな気がする。

 もう気にしないことにしよう。

  会計を進めようとしたところで手が止まる。

 任意で書いてもらうお客様情報に驚愕の事実が記載されていたからだ。 

「…お前、22歳なのか」

「はい、22歳の現役女子大生ですよ」

  何故か誇らしげに胸を張るカウンター越しの女。

 恐らく女子大生という点を誇りたいのだろうが俺には全く響かない。

 てっきり高校生か、せめて大学一年生程度かと思ったのだが。現実は非情だな。

 これが成人で、あと半年も待たずに社会の荒波に揉まれる人間か。

 そしていい歳した大人がこの恰好か。

 センスを諭してくれる友達にも恵まれなかったのか。

「…何ですか、その可哀そうな視線は」

「いや、俺は希少人種に出会ったんだなと思っただけだ」

「褒められていないことは分かりました」

  不服そうに頬を膨らませる姿にこれが自分と二歳しか違わない事実を疑いたくなった。

 それだって"大切なお客様"には違いない。

 真っ新なカードに俺は初めて客の名前を記入していく。

 そんな俺の何てことない動作すら女はじっと見てくる。

「綺麗な字だなって思って」

  俺が問いかけずとも物言いたげな様子を察したのか自ら答えた。

 本当にコイツは人のペースを崩すのが得意だ。

  店のカードを手渡すと嬉しそうに受け取った。

 なんてことない、来店日や店の電話番号が書かれただけの紙切れなのに。

 会計を済ませ、店先まで見送ろうと共に店を出る。

「次来る時はもう少しマシになって来いよ」

 自分でも驚いた。自然と次を催促しているなど。

「椎名さんがびっくりするくらいお洒落してきます!」

  コイツが言うと違う意味でびっくりさせられそうで嫌な予感がする。

 女は満面の笑みを残し、跳ねるみたいに歩いて行った。

 そんな幼稚さすら感じる彼女の後姿なのに俺は今度はいつ来るだろうかと考えていた。




  年の瀬に向けて慌ただしい頃、二度目に来店してきた彼女は初回に比べてマシな状態ではあった。

 服装から蛍光色の物は無くなり、季節に合った落ち着いた色合いだ。

 だが選ぶ洋服の選択がどうにも幼い。子供向け売り場で買っているのではないかと疑いたくなる。

 小中学生なら可愛らしいと褒めてやってもいいが、コイツは残念ながら現役女子大生だそうだ。

 大学にコイツが居れば俺はお近づきになりたくない。

  幸いなのかコイツは童顔で低身長なので今の服装でも町中を歩いて目立ちはしないが、年齢を知れば誰もが途端に引き攣った笑顔になるだろう。

「どうですか!?」

  気合いの入ったファッションなのだろう、意気込みがすごい。

 どうしたらその自信が生まれるかは理解に苦しむが、努力の影は見られる。

「恥ずかしくない恰好にはなったな」

「恥ず…私の格好そんな酷かったですか?」

「悲惨だった」

  ショックだったのか、わなわなと震えている。

 本当にコイツのセンスを指摘してくれる友人や家族は居なかったのか。

 それか所謂大学デビューとかで間違った洒落を覚えたのか。

  とにかく美的感覚がズレている。

 結局本人が良ければ、どんな格好だろうとどうでもいいが、問われる以上俺の感覚で答えるまでだ。


「服の前に髪だ。手入れサボってないだろうな」

 女を席に座らせ髪をチェックする。

「……努力はしてます」

「口より髪のほうが正直だな」

  元々痛んでいた髪がすぐに良好になる訳はないが、教えた通りの手入れと勧めた洗髪剤を使用すると言っていた。それならばある程度回復する見込みがあった。

 ところが女の髪は初回と大差ない。確実に大半サボったな。

「研究室に籠る日が多かったし、疲れててドライヤーで乾かす前に寝ちゃったりとかしましたけど…」

 口をもごもごしながら言い訳を零した。

「綺麗な人っていうのはな。誰もが影で努力をしている。髪だけじゃなく外面全ての手入れ、食事をはじめとした内面に対する配慮。いきなり全部に神経を使えとは言わないが、髪ひとつ満足に綺麗さを保てないようじゃ底が知れてるな」

  言い訳を聞く気は無い。コイツはあの服が似合う女性になりたいと言ったのだ。ならば相応の無理や努力はつきものである。

  女は反論できないのか黙り込んだ。

 まずい。一人の人としてなら俺がどんなに反感を買おうが問題ないが、コイツはお客様だ。一方的に強く言い過ぎたか。

 でも本気だというならば、これくらいで根を上げてほしくないのも正直な気持ちだ。

 手助けをする気はある。けど、女の忙しさに共感するのも大丈夫だと慰めるのも俺としては違う。

 どうにも俺の感覚は接客に向かない。


「バッサリ切ってください」

  謝罪すべきかと口を開きかけた時、女は鏡越しに俺にそう注文した。

 女の髪は腰近くまでの長さがある。

 手入れが疎かになっていたとはいえ、ここまで伸ばすには相当な時間が掛かった筈だ。

「…いいのか?」

「競争です。髪が洋服に似合う長さになるのが先か、私の努力が身に付くのが先か」

  競争、ね。おかしなこと言う奴だな。

 決意した眼差しに口角を上げた笑みはやる気に満ちていた。

 どうやら挫けたり、怒ったりはしていないようだ。

  俺は注文通り髪を短くカットした。

 あまりに短すぎては手入れの練習にならないし、服装のイメージと大きくかけ離れる。

 なにより彼女の理想である女性らしい長さに到達するには時間が掛かると思い、肩上5cmのところで止めておいた。

 はたしてコイツは髪の成長と同じように努力を続けられるのだろうか。




  冬の寒さがより厳しさを増す頃に三度目の来店をした女。

 髪も服も少しずつだが成長を見せたが、やはりぬいぐるみのような印象が拭えない。 

「そういえば、今回の洋服はどうですか!?」

 今回は服装の話題には触れずに施術を終え、カットクロスを取り外していると自ら訊ねてきた。

「失格」

「ええー」

「お前な、着こなしが下手くそ過ぎる」

  服一つ一つは決して悪くない。

 シンプルな物に変わったのだがどうにも組み合わせがよろしくない。 

 弛んだセーターを脱がせ、スカートの中に入れているシャツを引っ張り出したりとほんの少し手直しの指示をする。

 セーターの中に厚手のベストも着ているのだからセーターはいらないだろう。

 欲を言えば足首まであるロングスカートかムートンブーツのどちらかを変えたいが、ここは美容室で洋服屋ではない。

「毎回思ってたんだけどな。何でお前は自分の体格に合わないサイズを選ぶんだ?」

  小柄な女がゆるく大きめな服を着るのは見せ方によっては可愛いと呼べるだろう。

 しかしコイツの場合はお洒落というよりは借りた服を着ているおさがりみたいな印象が拭えない。

  大体、コイツが目指すのは小奇麗なフェミニン傾向のブランドの筈だ。

 何故それに近しい物を選ばない。

「…だって…私スタイル良くないし…」

 俯きながらもごもごと小声で呟く。

「悪くもないだろ」

「脚とか太くないですか!?」

 今度は恐ろしいと言わんばかりに震えている。

「細くも無いが一般的な太さだろ」

  なるほど。体型を必要以上に気にしているから服装で誤魔化そうと大きいサイズを選んでいるのか。

 唸って頭を抱える女は自信がないのか自分の身体を恨めしく眺めている。

「いいか、余程太くなければ体型なんて服装でカバーできる。言っとくがお前のは隠してるだけだからな。外見は印象操作次第だ。堂々としろ」

「堂々と、と言われましても…」

「あの服が似合う手助けは幾らでもしてやれる。けどな、駄目にしてるのは結局お前自身だ。どんなに着飾ろうが最終的にはそいつ自身の内面が滲み出るもんだ。仕上げを完璧にするのはお前自身なんだよ」

  俺の言葉に目に見えて落ち込む女に少し苛立つ。もちろん自分にだ。

 すぐ思ったことを口にしてしまうし、上辺で取り繕った言葉を並べるのは嫌だ。

 けれど相手を怒らせたり悲しませたりしたくて言っているつもりはない。

 上手くいかない。もどかしくて自分に腹が立つ。


「そのまま座ってろ」

 女に待機するように伝え、近くの女性スタッフに化粧道具を貸してもらえるよう声を掛ける。

「目ぇ閉じろ」

  俺の意図が理解できないからか女は少し不安そうだったが、俺の指示に従い目を閉じた。

 頼んだ化粧道具をすぐに用意してくれたスタッフに礼を言い、女に化粧を施していく。

  客相手に化粧をするのは初めてだったが緊張はしない。

 情けない自分にムキになっていたのか、客であるコイツを不快にさせたことに罪悪感でも感じたか。とにかく俺は集中していた。

  自分の武器が増えればいい。そんな理由で勉強を始めたメイク技術。

 どんな技術も少しでも役に立てばいい。そんな感情が生まれた俺は貪欲に勉強する時間が増えた。

 本当はまだ人前で披露するつもりなどなかった。

 けれど落ち込むコイツを見たら自然と動いてしまった。

  美容はその人の外見を輝かせるだけが目的ではない。

 その人自身の心に彩りを、自信を与えるものだ。

 綺麗になって不幸になられて堪るか。笑え。

「いいぞ、目開けろ」

  女は目をぱちくりとさせ鏡に映る自分を見つめた。口は間抜けに開いている。

 だけどあの時と同じ、宝石みたいに輝いた瞳を見せていた。

 その瞳だ。希望を秘めて輝く瞳は何よりも綺麗だ。

 俺はそんな瞳を見る為にこの仕事に就いたのかもしれない。

  時間も掛けていないし、道具も多くはない。

 劇的に変わってはいないだろうが、それでも印象を変えるポイントはおさえた。

 やがて女は後ろに居る俺に振り返った。

「やっぱり椎名さんは魔法使いだ」

  いつもの腑抜けた笑顔だ。

 けれど、その笑顔はどんなものよりも価値があるように見えた。

 

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