28

「……過労だよ」


「へ?」


 思わず拍子抜けしたような声が口をついて出てしまった。


「それと、低血糖……睡眠不足でもある」


「ええと、それって……」


「特に何の病気でもない。ちょっと疲れて栄養も睡眠も不足しているけど、健康だって事」


「……」


 再び、ぼくは床の上に崩れ落ちる。


「よ、よかった……」


 もう、胸をなで下ろす、なんて生易しいものじゃない。さばいて三枚に下ろすくらいしたいところだ。(なんのこっちゃ)


 そうか……高科さん、病気じゃなかったんだ……


「中田先生にね、瑞貴がうわごとで君の名を呼んでいた、って聞いたものだから、彼女が目を覚ましたときに、聞いたんだよ。君に会いたいか、とね」


「はい」


「でも、彼女は首を横に振った。嫌だ、会いたくない、と。だけど確か君は彼女の彼氏だったはずだね?」


「は、はい」


「どうしたんだ? 彼女とケンカでもしたのかね?」


「違います……ただ、一方的に、嫌われちゃったみたいで……実はぼく、もう彼氏じゃないんです」


「何をしたんだね? 君、何か、彼女にひどいことをしたんじゃないのか?」


 一気にお父さんの口調がきつくなった。


「違います。ぼくは何もしてません。本当に、何も心当たりがないんです。何がいけなかったのか……でも、彼女に聞いても、教えてくれないんです。だから、ぼくも……もう、どうしたらいいのか……」


「……」


 しばらくお父さんは黙ったまま、ぼくを見つめていた。が、ようやく口を開く。


「どうやらそれは本当のようだね。私もね、瑞貴は口では君に会いたくない、と言っているけど、どうも本心は真逆なんじゃないか、と思っているんだ。うわごとで君の名前を呼んでいたくらいなんだからね」


「……え?」


「彼女は君に会いたがっている。それは間違いないと思う。私の父親のカン、ってヤツもそう告げている。ダテに彼女と14年過ごしてはいないさ」


 そう言って、お父さんは少し口角を上げてみせた。


「彼女の部屋に行こう。ついてきてくれ」


「……はい」


 ぼくらは歩き出した。


---


 病室までの道すがら、お父さんは話してくれた。


 彼女は病院に搬送されるまでずっと意識がなかったけど、点滴を始めたらすぐに意識を取り戻したこと。音楽室の床に倒れていたけど、特に大きな怪我はしていないこと。点滴でかなり体力を回復したみたいだけど、大事を取って今日は病院に泊まること。だけど、明日の朝には退院できるから、学校には行けるだろう、ということ。


 その話を聞きながら、ぼくは心の底からほっとしていた。彼女の体が大したことなくて、本当に良かった……


 そして、お父さんはある一つの病室の前で足を止める。ネームプレートは付いてなかったけど、彼はドアをノックする。


「どうぞ」


 大人の女性の声だった。たぶん、高科さんのお母さんだ。


「入るぞ」


 引き戸になっているドアを開けて、お父さんが病室に入る。躊躇していたぼくに振り返って、君も来なさい、というようにうなずいて見せる。


「……失礼します」


 おそるおそる、ぼくも病室に入る。消毒液の匂いがきつい。


 そこは個室だった。お母さんがベッドの横に座っている。高科さんは入院着になって、ベッドの上で上半身を起こしていた。確かにちょっとだけ顔色が良くなった感じがする。だけど彼女はぼくに気づくと、あからさまに険しい顔になって、すぐに目を逸らした。


「私と母さんは、外で少し話してるから」


 そう言って、お父さんはお母さんを目で促す。お母さんはぼくに微笑みかけると、立ち上がってお父さんと一緒に病室を出ていく。


「……何しに来たの?」


 意外にも、最初に口を開いたのは高科さんだった。だけど相変わらず、ぼくから顔をそむけたままだ。


「何しに、って……高科さんが、倒れたって聞いたから……」


「わたし、翔太君とはもう、何でもないよね? 別れたよね? だったら、翔太君がここに来る必要、ないよね?」


「……」


 矢継ぎ早に彼女が発した言葉は、ぼくの心にぐさりと突き刺さった。


「だけど……ぼくはまだ、高科さんが……好きだから……心配で……」


「ふうん」


 彼女は冷たく笑った。


「わたしはね、翔太君のことなんか、最初から好きじゃなかった」


「……!」


 ぼくは思わず彼女を見つめる。


---


「……どういうこと……なの?」


 ぼくの声が掠れる。


 ぼくのこと、好きじゃなかった……? そんな……好きって、言ってくれたじゃないか……キスだって、したじゃないか……それでも、好きじゃないなんて……とても信じられないよ……


「わたしね、ピアノでちょっとした壁にぶち当たっていたの。と言っても、演奏技術は自分でもほぼ完ぺきなレベルまで来ていると思う。少なくとも、課題曲を楽譜通りに弾きこなす限りはね。これは川村先生も認めるところよ。そして……これまでは、それで十分だった。だけどね」


 高科さんは、そこで少し眉を寄せる。


「表現力、というものが、わたしには決定的に欠けているの」


「表現力?」


 なんか以前、瀬川さんと一緒に帰った時、彼女もそんなこと言ってたような……


「ほら、前にフランソワとペルルミュテルのCDを貸したでしょ? 同じ曲も入っていたと思うけど、それぞれの演奏を聴いて、どう思った?」


「全然違うな、って思った」


「そうでしょ? その楽曲によって表現されるものは、演奏者によって違う。それが表現力よ。自分の解釈や思い……そういったものを楽曲の中に表現する能力。わたしはね、やろうと思えば、フランソワ風にも弾けるし、ペルルミュテル風にも弾ける。だけど……わたし自身の解釈、というものは……ないの」


「そうなの……? ぼくには、よくわからないけど……」


「小学生の時は、ただ正確に弾けるだけで十分だった。でも、中学になるとね……表現力が重く評価されるようになるの。そして、わたしは、表現力不足を指摘されることが多くなった。当然だよね。わたしには、表現したいと思うものなんか、何もなかったんだから」


「……」


「それでわたし、川村先生に聞いたんだ。『表現力を磨くためには、どうしたらいいですか?』って。先生は難しい顔をしていた。そして、『瑞貴ちゃん、あなた、好きな男の子はいる?』って、いきなり聞いてきた。だけど、わたしには好きな男の子なんかいない。恋愛がどういうものかは、本で読んだりして、なんとなくは知ってた。でも、自分がそういう気持ちになったことは、今まで一度もなかった」


「……」


「『いません』って答えると、先生は『お友だちと遊んだりすることは?』って聞いた。『友だちもいません』って言ったら、先生は悲しそうな顔になった。そして言った。『表現力を磨くためにはね、恋愛とか、友情とか、そういう感情を豊かにする経験が必要なの。ピアノだけじゃなくてね。ほら、ベートーヴェンもショパンも、好きな女の人のために曲を作ったりしてたでしょ?』って……」


「……」


「そんなこと言われても……わたしの友だちは、ピアノだけだから……どうしたらいいのか、分からなかった。そう言ったら先生は、『とりあえず彼氏作ったら? 瑞貴ちゃん美人だから、付き合いたいって男の子はたくさんいると思うわ。だから友だち作りよりも、きっとそっちの方が手っ取り早いよ。恋愛したらいいじゃない。うまくいってもいかなくても、いい経験になるわよ』って言った」


 ……え? まさか、それじゃ……


「ちょっと待って」


「!?」高科さんが、ぼくを振り向く。


「それじゃ……高科さんは……川村先生に言われたから、男の子と付き合うことにしたの? たまたまそれが……ぼくだったの?」


「そういうことになるわね」


 あっさりと、彼女は同意した。


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