26
「瑞貴とはね、幼稚園の時から一緒だったんだ。その頃は彼女、私の家の近くに住んでたからさ、一番の仲良しでね。ピアノ教室も一緒に通ってた。私の家にはピアノはないけど彼女の家にはアップライトがあったから、遊びに行って、良く弾かせてもらってた」
「へえ。今はグランドピアノが彼女の部屋にあるよ」
「ええっ! ほんと?」
瀬川さんが目を見張った。
「ああ。5型で中古、って言ってたけど」
「5型か……でも、そこそこ大きい方じゃないかな」
「学校のよりは小さかったけど」
「そりゃ学校のは7型だもの。それにしても……翔太君、彼女の部屋に普通に入っちゃうんだね。もしかして……もう、そういう関係なの?」
「ち、違うよ!」 ぼくは首を横にブンブンと振ってみせる。
「あやしいなあ……」
瀬川さんが、ジットリとした目になる。
「違うって! ほんとに! マジで! ガチで!」
「……そうね。ま、普通に考えたら無理よね。お母さんもいるだろうし」
「……」
よく考えたら、高科さんの部屋って3階だから、お母さんがよくいる1階の台所との間に、一つの階を挟んでるくらい離れてるんだよな……だから、声とか、多分聞こえないはず……
……。
お母さん、よくも彼女とぼくを二人きりにさせてたものだなあ……それだけぼくのこと、信用してた、ってことか……
だけど、このことは瀬川さんには言わない方がいいな。黙っておこう。
それに。
たぶんもう、高科さんの家に行くことも、二度とないだろうからな……
「ま、そんなことはいいか」瀬川さんは話を戻す。「でね、こんなことがあったの。ピアノの発表会の時、会場で着替えてたら、いきなり私のドレスが破れちゃったんだ。これじゃ出場できない、って、パニックになって泣いていたら、瑞貴が裁縫セット持ってて、さくっと縫って直してくれたんだよね。しかもちょっとだけアレンジを加えたりして」
「へぇ」
ああ、そう言えば確かに、高科さんは1年の時、衣装係やってたな。
「それがすごくかっこよくてさ。その時に私も裁縫できるようになろう、って思ったの。そして、彼女のおかげで私も無事発表会に出場できて、しかも小学校低学年部門で最優秀賞になったんだ。信じられないかもしれないけど、その頃は私の方が、彼女よりピアノが上手かったんだよ」
「ええっ! そうなの!?」
それは初耳だった。
「ええ。でもね、ほら」
瀬川さんは、自分の左手をぼくに見せる。
「……?」
「指、延ばしてみるね」
彼女はそう言って、指をピンと伸ばしてみせる……が、真っ直ぐに伸びるのは中指と人差し指だけで、薬指と小指は少しだけ曲がったままだった。
「……ど、どうしたの?」
「突き指でね……やっちゃったんだ。まあ、日常生活は全然問題ないし、パソコンのキーボードなんかは普通に打てるんだけど、ピアノはね……やっぱり、難しくなっちゃってさ……」
「なんで突き指しちゃったの?」
「ケンカだよ」
「ええーっ!」
「これでも子供の頃は私、男勝りでさ、ケンカ上等、みたいなヤツだったんだよね」
……。
この数分で、瀬川さんのイメージが、ガラッと変わってしまった……
実は肉食系の、
「なんでケンカしたの?」
「瑞貴がね、いじめられてたんだよ」
「ええっ?」
「ほら、あの子って、あんな感じだからさ。小さい頃は浮いてたし、いじめのターゲットにもなりやすかったんだよね。それでいじめっ子の男の子が、彼女の手に怪我させようとしててさ。それも発表会の三日前に、だよ。それに気づいた私が飛んでいって、その男の子から彼女を守ったの。その前の発表会で彼女にドレスを縫ってもらった恩返しもしたかったし。だけどその時……やっちゃった」
「そうだったのか……」
「結局私は発表会には出られなくてさ。瑞貴が最優秀賞になったんだけど……私に、泣いて謝ってた。『ごめんね、美玖ちゃんが出られてたら、美玖ちゃんが一番だったのに』、って……」
「……」
「もちろん私は笑って許したんだ。それよりも瑞貴が無事で良かった、って。でもね、私が、突き指の後遺症で上手くピアノが弾けなくなっちゃったことが分かったら、彼女はすごくショックだったみたいで……一時は、ピアノ辞める、とまで言い出したくらい」
「そんな……」
「けどね、私は彼女にピアノを辞めて欲しくなかった。彼女は本当にミスタッチをしないのよ。とにかく運指が正確。それについては、私は彼女には全くかなわなかった。ただ、表現力は私の方が上だ、って言われてた。でも、それもいずれ瑞貴に抜かれるだろうな、って私は漠然と思ってた。だから、ピアノが弾けなくなっても私は全然構わなかった。だけどね……」
瀬川さんの顔が曇る。
「当時、私の友だちだった女子が何人か、瑞貴を責めたらしいの。あんたのせいで、美玖がピアノをあきらめなきゃならなくなったんだ、って。しかも、それが私の本心だ、って言ってたらしい。それでね、瑞貴はすごく落ち込んでしまった。ある日私に、『怪我させちゃって本当にごめん、わたしピアノ辞めるから』って言ってきたの」
「え!」
「私が、『なんで? 私、本当に全然気にしてないんだよ?』って、何度言っても、全く信じてもらえなかった。私に裏切られた、って思ったんだろうね。で、それ以来、彼女は私を完全にシャットアウト。わかるでしょ? 今の君と同じ状況よ」
「……」
「それで、ほんとに彼女はピアノ教室を辞めてしまった。でもね……やっぱり、彼女はピアノから離れられなかったみたい。彼女の家から絶えずアップライトの音が聞こえてた。その頃にはもう、彼女にとって、ピアノは既に体の一部みたいなものだったのよ」
「……」
「その時の彼女のピアノの音はね、何て言うんだろう……彼女の代わりに泣いてた、とでも言うのかな……すごく哀しい音だった。とにかく、彼女は何か辛いことがあったりすると、ピアノにぶつけるの。ピアノを弾いてるときは夢中になって、その辛いことを忘れられる……そんな感じなんじゃないかな。私もピアノ弾いてたから、なんとなく分かるんだ」
「……」
「その後、また瑞貴が私のところに来てね、言ったの。『ごめん。わたし、やっぱりピアノ辞められない』って。私はね、『もういいよ、私、ほんとに何も気にしてないんだから。瑞樹のピアノ、すごく好きだから』って、言ったんだ。そしたらね、彼女……かすかに笑った。良く見てないとわからないくらいに」
ああ。それ、すごくわかる。付き合う前の、演劇のシナリオを一緒に書いていた頃の彼女が、まさにそんな感じだった。
「で、瑞貴はまたピアノ教室にも通うようになった。でも、その後すぐ、私、父親の仕事の都合で引っ越して、転校しちゃったんだよね。彼女ともそれっきりでさ。せっかくまた仲良くなれそうだったのにね。別れるとき、彼女、悲しそうだったな。今度は本当に私に裏切られた、って思ったかもしれないね」
瀬川さんは悲しげに微笑みながら、続ける。
「それで、私が中学に入るときに、またこっちに戻ってくることになったから、この学校で瑞貴と再会することになったわけ。彼女、昔に輪をかけて無表情で無口な、取っつきづらい女の子になってた。たぶん私が転校してからも、学校でまたなんか色々あったのかもしれないね。でもね、彼女の根っこの部分は、今も全然変わってないと思う。本当はすごく優しくて、でも傷つきやすい、繊細な子」
「そうか……」
「翔太君、最近彼女が音楽室でピアノ弾いてるけど、聴いたことある?」
「あ、ああ。中に入って聴いたわけじゃないけど」
「私も音楽室の外で聴いた。それでもわかった。彼女のピアノ……泣いてた。あの時と同じだった」
「ええっ?」
「たぶん、瑞貴はね、今、何かすごく辛いんだと思う。私にはどうにもできない……けど、君なら、何とかしてあげられるんじゃないかな。たぶん、君は彼女のこれまでの人生の中で、家族以外で最大級に心を許した人間だと思うよ」
「そ、そうなの?」
「うん。だから……さ、瑞貴に振られた、ってことだけど……それでも、出来るだけ、彼女のこと、気にして欲しい。これ、私からのお願いね」
「う、うん……努力は、してみるよ」
「ありがと。それじゃ、またね」
「ああ」
交差点。ぼくらは手を振って、別れた。
そうか……瀬川さん、彼女の幼なじみだったのか……また、仲良くなれたらいいのにな……
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