第65話 この手は、離さない。

 後で聞いた話だが、その日名古屋にラジオの生放送で来た兄貴は、私と入れ替わりで実家に寄っていったらしい。短い黒い髪になった兄貴を見て、両親は一体どんな顔をしたことか。



 そして私は店にする場所を決め、そこに自分の住居も移した。はっきり言って、「学校の宿直室」程度の住処だ。



 会社も辞めた。すっぱり辞めた。

 上司とあのボスOLさんには念入りに「今までありがとうございました」と言った。

 本当にありがとうございました、だ。

 おかげですっぱり辞める気になったのだから。きっと私が居ない方が彼らも気楽だろう。



 店にしたのは、住宅街と繁華街の間にある町の、小さなビルの一階だった。雑居ビルと言ってもいい。隣には美容室が入っている。

 その店にするスペースは、元々は何かの事務所だったようで、少し大きな部屋と、キッチンと、そしてプライベートに使えるような小さな部屋が二つと、シャワールームがついていた。シャワールームであって、ユニットバスではない。その点も私は気に入った。

 私はすぐにその小さな部屋に移り住んだ。どうせほとんど店に出ずっぱりなのは目に見えている。昼食夕食も、そのあたりで適当にかきこむような生活になるだろう。だったらプライヴェイトは、寝る場所が確保できていればいい。

 住み込んで、改装を始めた。なるべく資金は大切に使おう、と思ったから、自分でできる部分は自分でやり、友人の応援を頼める所は頼み、それでもできない部分は、業者を入れた。


 店の形になったのは、夏だった。

 何度も何度も練習して、何とか形になったメニュー。店内の印刷物は、あの会社をさっさと飛び出していったひとの印刷/デザイン事務所に相談して、少し安く上げてもらった。

 私はそういうものを綺麗に作るセンスは無い。

 サラダがここに居たら、と何度も思った。だけどそれを口には出さなかった。


 出したらおしまいだ、と思った。彼女はやって来る、と私は思っていた。

 思いながら、日々の作業をしていた。だけどそれは「こなす」なんてものではない。試行錯誤の連続だ。決して「楽」ではない。だけど「楽しい」。

 届け出もして、とうとう開店することになったのが、夏の終わり。食品を扱うから、暑いうちよりは、涼しくなってからの方がいいだろう、ということもあった。

 そして始めた。「この秋堂々デビュー!」と言ってはやしたてたのは、カナイ君だった。

 デビューしたばかりの新人は、と言えば、バイトのスタッフを一人抱え、それから毎日が戦争だった。練習しているうちと、実際に客が来る状態ではまるで違う。

 そして、その場所の立地条件もあってか、曜日によってずいぶん客の出足も違う。そんなことを読みとるまでは、用意した食材を無駄にしてしまうこともずいぶんとあった。

 そんな時には、よくRINGERのメンツを呼んだ。彼らは彼らで、夜も昼も無い生活をその頃していた。レコーディングに追われていたと言ってもいい。そんな時には、いちいち行く店を考えるのも億劫になるらしい。時には私が残ったものをかき集めて、スタジオまで宅配したこともあった。

 そうする日々の中で、何となく、兄貴との距離が近くなったような気もする。

 いや違う、兄貴は何も変わらない。あの男は、絶対変わらないのだ。変わったとしたら、私のほうだろう。認めたくはないが、そうとしか考えられない。

 赤字続きの日々が続く。だけど店を閉じようという気はさらさらなかった。赤字になるなら、どう今度は工夫しよう。それを考えるのは、しんどいが、実に楽しかったのだ。


 そして、時々手が空くと、サラダに電話をしていた。

 いつもそれはひどく短いものだった。弱音を吐きたい時もあったが、それを言ったらおしまいだ、という気持ちもあった。正直、彼女になぐさめて欲しい、という気持ちが無い訳でもなかった。だけど。

 向こうは向こうで、今日はどんなことをした、というのを手短に話す。何とか立ち上がれるようになった、とか、それでもまだずいぶん感覚が鈍い、とか。

 そんなことを言われては、私は弱音を吐ける訳が無い。いつか会った時に、思い切り一気に吐いてやろう、と思った。

 そうすると、どうしてもいきおい話は短くなる。


 本当に彼女が必要なのだろうか、と疑問を持ったことが無いとは言えない。

 だけど、彼女とこの先全く会えない、と考えたら、それはそれで胸が締め付けられるような気持ちに襲われる。


 やっぱり思うのだ。会いたい、と。


 そして冬が近づいたある日、私は彼女の故郷へ、と出向いたのだ。



「一人だって立派にやっていけるわよ、ミサキさんだったら」


 サラダは目をそらす。


「確かに身体はね。だけど気持ちはどうなのよ」

「ミサキさん?」

「ずっとあんたがいつか戻ってくる、って思ってたから、あたしは一人でやって来れたのよ?」

「だけど」

「あたしが全くあんたの身体のこと、考えていないと思う?」

「あなたがそういうとこ、すごく考えるひとだってこと、知ってるよ。だけど」

「やってみなくちゃ、判らないじゃない!」


 どん、と私は畳の上を叩いた。


「それに、ずっとここにあんたが居られるとは、あたしは信じないわよ」

「あたしが?」

「あんたはきっとこの先、ここに居たら窒息する。判るじゃない。あんただって、判ってるはずだよ? それに、こう言っては何だけど、ご両親がずっと居るとも限らない」

「残酷だよ、そういう言い方。ミサキさん」

「だけどホントだよ。あたし達だって、ずっと若い訳じゃあない。あんたが完全に治るのは無理だとしても、あんたが働くことはできると思うよ」

「簡単に言う」

「簡単だよ。あんたがその気になりさえすれば。そりゃああたしには判らないよ。あんたが今すごく動けなくて、どういう気持ちか、なんてね。あたしは動けるんだもの。同じ気持ちになんて、なれやしない。仕方ないよ。同じ気持ちに沈み込めたら、それはそれで心地よいかもしれないよ。二人して、ああ辛いね、ってやって居るのも、それはそれで気持ちいいかもしれないよ。だけどそれじゃあ食っていけない」


 私はそう言って、彼女の手を取った。サラダはその手を振り払おうとする。だけどできなかった。何って細くなってしまったんだろう。


「ずいぶん痩せちゃったのね」

「食欲が出ないから」

「でももうここには自転車は無いよ。あんたは一人でここから出て行くことは難しい。だから、あたしはあんたを連れて帰るのよ」


 ぐい、と手に力を込めた。真っ向から、視線を合わせた。

 そして口にする。


「一緒に来て欲しいの。あんたが必要なの。一緒に居て欲しいの。ずっとずっと、一緒に居たいの。結局はそれだけよ。あたしのわがままよ。それじゃ駄目?」


 もう一方の手も、ぎゅっと握り込んで。どれだけもがいても、放さない。そんな強い力で。


「駄目?」


 私は重ねて問いかけた。

 サラダはしばらく私の目を見たまま、黙り込んだ。私は息を呑む。勢いにまかせてしまったかもしれない言葉に、今頃頬が熱くなる。これではまるで愛の告白じゃないか。

 それでも、まあいいけれど。


「ほんっとうに、あたしが必要なの?」

「ほんっとうに」

「冗談でなく?」

「冗談でなく」


 そうでなくて、どうしてこんな所までわざわざ私がやってくるものか。安く車を調達したのも、何のためだか。

 彼女はまたしばらく押し黙った。


「あたしは迷惑かけるよ」

「そんなの。かけられてみなくちゃ判らない」

「嫌になったらとっとと送り返してよ」

「嫌になったらね」


 だったら行く、と彼女は小さな声で言った。

 いかんな、喉元過ぎると熱さを忘れる。

 今の彼女に必要なのは、「いざとなったら自分を捨ててくれる」相手かもしれなかった。

 そう、難題は見えている。

 彼女が、健康にくるくる動き回っている私達の姿そのものに傷つくことだってあるのだ。私達は鈍感だから、気づかない可能性もある。

 だけど、その時には、今度は私が何かをしよう。

 何でもいい。

 私が放心していた時に、彼女が待ってくれていたように。

 彼女が欲しいものを、私が今度は、少しでも、それに近いものを。


 この手は、離さない。

 きつく掴んで、決して何処へも行かせない。

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