第60話 長髪は決意表明のようなものだった。
ぴろぴろぴろ、と電話のベルが鳴る。何度も鳴る。ひどくうるさい。
ひどく。
ああ鳴っているんだ。電話なんだ。
その日待っていた電話は既に来てしまったから、もう次の電話なんてどうでも良かった。放って置こうか、とも思った。身体が重い。腕を伸ばすのも、重い。面倒だった。
だがベルはぴろぴろぴろ、としつこく鳴り響く。ああ鬱陶しい。
仕方なく私は受話器を取り、もしもし、と低い声で答える。
『あれ、美咲さん…… だよね?』
知っている、よく響く声が私の耳に飛び込んできた。背後もひどくうるさいのだが、その声だったから、ちゃんと耳に入る。
「……カナイ君?」
『うんそう俺。ねえ美咲さん、今ひまー?』
「……君酔ってるでしょ……」
『酔ってないよーん。俺まだ二十歳前だしー』
嘘ばっか。スタッフもスタッフだ。
「……でどうしたの?」
『やーだーねー、今日ツアー最終でさー、戻ってきたから、ライヴ来てって前々から言ってたじゃないー』
そういえば、そうだった。メジャーデビューして一年少し。確か今回のツアーは二月の終わりから始まった長くて細かくて…… 結構鬼のような日程だった、と記憶している。
その最終が、今日だった。ACID―JAMの十倍は人が入りそうなライヴハウス。ホールじゃないか、という人数だけどスタンディングの。そこが今回のツアーファイナルなんだ、と聞いていた。そしてその後に、打ち上げがあるから、と。
『ライヴはまあ、美咲さん仕事忙しかったら仕方ないけどさあ、今うちに居るってことは、身体空いてるんでしょ? 明日土曜日だし。ねえおいでよ。ごはん美味しいし。あのひとも連れて来ればいいじゃない。一緒に住んでる……』
「……今日は居ないの」
『だったら暇でしょ。美咲さんだけでも来てよ』
「カナイ君何か寂しいの?」
少しの間が空いた。
『俺待ってるからねー。場所はねー。渋谷の……』
そして電話は一方的に切れた。時計を見る。十時を少し過ぎた所だ。行けない程ではない。
そう確かに行くと約束していた。断る理由も無い。そして今部屋にサラダが居ない。居ないのだ。
私は上着を取り、のそのそと動き出した。頭の中が妙にクリアになっていた。人ごとのようだ。そういえば、前にもこんな感じで身体を動かしていたことがあった。確かあれは、のよりさんが出て行った後だ。毎日毎日を、とにかく動かずにじっとしている訳にはいかないから、のよりさんのことを考えてる頭と、日常のことをする頭をとりあえず切り離していた。何とかなった。そのかわり、所々がおかしくはなっていた。それをサラダが見ていてくれて、目を覚まさせてくれた。
なのにそのサラダが居ない。
居ないのだ。
*
打ち上げ会場になっていたのは、結構広い、個室が幾つかある、中華料理の店だった。そこで彼らメンバーと、スタッフと、事務所の人達が入り交じって、食事なのか飲み会なのか判らない様相を呈していた。
私は入り口で名前を言うと、その会場になっている部屋に通された。
「あれ、お前今来たの?」
へ、と私はその姿を見て、思わず唖然とした。
「兄貴…… その頭」
「あ、これ? あ、お前今日ライヴ来なかったろ。あれだけ来い来いって言ったのに」
「いや用事があったから…… それより兄貴……それ」
何年も何年も、トレードマークの様になっていた長い金髪が、無くなっていた。
それだけでない。色も黒になっているし、その短さときたら、何処の中学生だ、というくらいになっていて……
およそ、私の知る兄貴の姿ではなかった。
いや違う。この姿の兄貴は、中学くらいまで知っていた。ただその下の顔は、確実に時間が積み重なっている。だから妙にアンバランスなのだ。
「似合うっしょー」
けけけ、と笑いながらカナイ君はそんな兄貴の頭を背後から襲う。
「何するんだが!」
「むぼーびなんだもんなー、あんたのこのこーとーぶ」
けたけたけたけたけたけたけた、と際限なくカナイ君は笑う。こんなに彼は笑い上戸だったのだろうか。
「とにかく美咲さんも呑んでー。食べてー」
「……ごはんは済ませてきちゃったのよね」
「じゃあ俺、何かカクテル取ってくるね。何がいい?」
「こいつは何でも飲めるぞ」
兄貴は付け足した。はいよーっ、とカナイ君はぱたぱたと会場を走り出した。転びそうになっては、マキノ君に何やってんだこのボケ、と怒鳴られたりして。
その様子が、何処か遠くにあることのように感じられて、仕方がなかった。
「……髪だけどな」
肩をすくめて、兄貴は弁明のように言う。
「もともと、あれは、決意表明のようなものだったからな」
「決意表明?」
私は彼の斜め前に腰掛けた。はい飲み物、とカナイ君が私の前にどん、とストローの入ったグラスを置く。
「おいカナイ」
ひらひら、と兄貴は彼に手を振る。何、と彼は顔を寄せる。
「いい子だから、しばらくあっち行ってろ!」
「何だよー」
「おーい、サンノウさーん」
兄貴はスタッフの一人を呼ぶと、カナイ君を押しつけて、しばらく来させないでくれ、というジャスチュアをした。
「何かつれないわね」
「まあいいさ。酔っぱらいの戯言はほっとけ」
「いいの?」
「いーさ。酔っぱらって、つぶれて、がーっと寝てしまえって感じだからな。一番走り回ってたし」
「そう」
「……で、何があった?」
え、と私は顔を上げた。頭の中の焦点が合う。
「何が、って」
「俺はあんだけくどく、ラストには来いって言ったし、バックステージ・パスも送っておいたし、お前の同居人も良ければ来いって言ったし、打ち上げあるから食事は抜いてこい、って何回言ったか覚えてるか?」
「え……」
「しかもカナイが言うには、お前の同居人は留守だって言うし」
「……それは」
「だから、何があった? 何も無いんだったら、それはそれでいい」
「……」
私は少し黙った。それまでここに来るという行動に頭の半分を回しておいたから、考えないようにしていたことが、いきなり押し寄せる。
ぼとん、とテーブルに水滴が落ちた。
あれ。
あれあれあれあれあれあれあれあれ。
頬をだらだら、と流れているものがある。
目が熱い。喉が痛い。何だろこれ。
何だろ。ハンカチハンカチ。
私はバッグを探る。
なのに、なかなか目が上手く開かなくて、ハンカチが見つからない。
「ほら」
兄貴はそこにあったナプキン立てを私に突き出した。数枚、そこから抜き取る。
ああこれそのへんのカフェにあるような奴じゃない。もっと一枚が大きくてふんわりしている上等なものだ。慌ててそれで目を押さえる。言葉が出ない。喉が詰まって、声が出ない。
声を抑えて、私はしばらく泣いた。ここ数日にあった出来事が、一気に頭の中に押し寄せる。
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