第61話 天に向かって何度も悪態をついた。

 こっちに戻って、翌日会社に行ったら、上司にいきなりどやされた。


 何だ一昨日は無断で早退して。おまけに昨日は欠勤で、自宅にも電話はつながらないし!


 何故そんなことを言われるのか判らなくて、私はきょとんとしていた。確か私はあのボスOLさんに伝えていったはずだ。

 そのことを上司に言ったら、聞いていない、と言う。

 はあ? とその時私は問い返した。

 そしてやってきた彼女に聞くと、自分は話した、という。何処かで話が食い違っていた。

 良く判らないままに、とにかく言葉だけでも謝罪した。

 無断であるかはともかく、唐突に休んだことには違いない。とりあえず仕事に戻り、たまっていた分を片づけることにした。午前中はそれで手一杯で、他のことを考える余裕も無かった。

 だがお昼。後輩OLちゃんと久しぶりに外に食べに行ったのだが、その時彼女が言った。


「**さん、先輩が休む、ってこと伝えてませんよ」


 思わず問い返した。


「聞いたんですけど、結局**さん、配置換え無いらしいんですって」

「……ってことは、**さん、昇進とか無いってこと?」


 そのようです、と後輩OLちゃんは言った。


「あたしも先輩が休むってことは聞いていなかったけど、一昨日、先輩が何か**さんに言ってから会社三時頃に出てくの、一応見てる訳じゃないですか。だからきっと、そのこと言ったのかな、とか思ったんですけど」


 何でまた。さあっ、と全身を風が通り抜けていくような感じがした。嫌な、感じだ。


「……で、そのことは」

「……言えませんよ。すみません……」


 それはいいわ、と私は言った。


 なるほど。なるほどね。


 そして午後。さすがに仕事はずいぶんたまっていたので、残業になった。

 兄貴達のライヴがツアーファイナルってこともすっかり忘れていた。

 無論バックステージ・パスは家の何処かにあるはずだが、サラダのことでかき回してしまった部屋は乱雑になっていて、何処かに埋まってしまっているかもしれなかったのだ。

 そして疲れ果てて帰ってきたら、留守電が入っていた。まりえさんからだ。戻ったら電話ください、とアルトの声が告げていた。

 掛け直したら、まりえさんの声はこの間以上に低く感じられた。どうしたんですか、と私は問いかけた。

 彼女はこう言った。


『……やっぱり脊髄の方もやられているって』


 その言葉の意味を、疲れた頭で必死にたぐりよせた時には、電話は終わっていた。私は何かしらはいはいと返事はしたらしい。いつの間にか。

 壁にもたれて、それからしばらくぼうっとしていた。何もする気が起きなかった。

 それからカナイ君からの電話が来たのだ。



 ……どのくらいその姿勢で居ただろう。じっとりと濡れたナプキンを目から外した時には、その周りの化粧までそこにはついていた。きっと凄いことになっているとは思うのに、直そうという気も起きない。


「……ごめん、いきなり」

「まあいいさ。ところで髪のことだが」

「……ああ、決意表明って言ってたよね。何のこと」


 まだ上手く口が回ろうとしない。


「こう言ったらお前は笑うかもしれんがな。メジャーデビューできるまでは絶対切らない、って願かけてたんだぜ」

「へ」


 願とは。


「またずいぶんと古風じゃないの」

「うるさい。それにな、長い髪が視界に入れば、伸ばしている理由が俺にいちいち突きつけられるだろう?」

「突きつけなくちゃいけないものだったの?」

「いや、そんなことは無い」


 きっぱりと彼は言う。


「だけどな、わかりやすいだろう? 俺自身に対して、周囲に対しても」

「……それはそうよね」

「メジャーデビューした時点で、すっぱり切る予定だったんだがな」

「何でしなかったの?」

「さすがにメジャー行った途端に切ったら、何かと言われるだろう? それでインディのファンを裏切ったとか何とか。俺にしてみりゃどうでも良かったが、ま、それは周囲の圧力」

「兄貴にしちゃ、珍しいじゃない」

「お前は結構俺を買いかぶってる」

「そお?」

「で、お前のほうは? 今度は泣くなよ」

「泣かないわよ」


 私は顔を上げた。醜態だった、と思うのだ。兄貴の前だけは、そういう顔を見せたくなかった。


「……サラダが、事故に遭ったのよ」

「サラダちゃんが?」

「一昨日、中央本線で事故あったの知ってる?」

「ああ、何か新幹線で名古屋通った時に、そんなこと言ってたかも…… って事故ってそれか?」


 私はうなづいた。それは、と彼は眉を寄せた。良く見ると、その眉も以前より太くなっている。


「……で、さっき電話があって…… 背中打って…… 脊髄のほうもやられて……」


 喉が詰まる。


「……しばらくは…… 立てないって」

「おい!」


 ぎゅっ、と私は一度目をつぶる。大丈夫だ。泣かない。


「それで、おかしかったのか」

「うん」


 素直にうなづく。それは事実だからだ。


「一緒にいつか店を持とう、って言ってるから…… だから一緒に住んでたし…… 資金も貯めてたし……」


 ああ何を言いたいんだろう。


「しばらく歩けないんだったら、働くのは無理だな」


 あっさりと彼は言う。そのあっさりさに、私は一瞬かちん、と来る。


「兄貴!」

「でも本当だろう?」

「だけど!」


 ああまた喉が詰まる。言いたいことの半分も言えやしない。


「何の店をしたいんだ?」

「え?」

「だから、ブティックとか雑貨屋とか、喫茶店とか」

「兄貴言い方古いよ…… カフェをやろう、って言ってたんだよ、あたし達。あと二年もがんばれば、お金貯まるからって」

「でもな美咲、結構あれはブームも手伝ってるらしいから、急がないとまずいかもしれんぞ」

「そんなこと判ってるわよ!」


 思わず声を張り上げる。周囲の目が一瞬こちらを向く。兄貴が手をひらひらと振ると、その視線はそっぽを向いた。


「……ごめん。……でも兄貴、女二人組になんて、銀行も何処もお金を貸してはくれないわよ。それにそういうのは嫌なの。利子とかまた考えなくちゃいけないし」

「幾ら必要なんだ?」

「……五~六百万ってとこかな。あたし達、この一年ですごくすごくすごくがんばって、二人で二百万、貯めたのよ」

「すげーじゃないの」

「そうよすごいのよ、あたし達。だけどそれはあたしだけじゃないのよ。サラダが居たからできたのよ。彼女と一緒にやろうと思ったから、がんばれたのよ。楽しい空間が作れればいいなって思ったのよ」


 だけどだめだ。

 彼女は入院して、生活費もそっちに取られるだろう。

 まりえさんだの実家だのがそのあたりは出してくれるだろうが、シェアしている彼女の部屋代まで手が回らないだろうから、貯金はまたしにくくなる。

 ようやく掴みたい、と本当に思ったのに、それが、手の間からすり抜けていく。


 冗談じゃない。


 天に向かって何度も悪態をついた。馬鹿野郎。

 言ったって仕方かないのに、朝の、綺麗な空に向かってまで、そんな言葉を吐き続けた。


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