第59話 「だってミサキさん、疲れているようだったし」
「……けど、しばらく入院することになると、大変ですよね」
「ああ、あの子保険に入っている、って言ったから、ある程度はそこから出せる様よ」
「保険」
なるほど。その程度に心配はしていたのだ。
「ただ、もし脊髄のほうに響いていたとすると、もしかしたら、今までのようなバイトをして行くことは」
ぐっ、と私は両手を握りしめた。
「……まりえさん、あの」
「なあに?」
こちらを向く。その拍子に髪がざらり、と揺れた。
「それって、確実なんですか?」
「何が?」
「その…… サラダが、脊髄がどうの、って……」
彼女はそのあたりを結構ぼんやりとした言葉で覆っている。その中身が何なのか、私は薄々感づいている。それはひどく嫌な予想だ。聞きたくない、と思わせるたぐいのものだ。
「……それは、どういうことなんですか?」
彼女はゆっくりと目を閉じた。
「それは、サラダが、どうなってしまう、ということなんですか?」
私は重ねて聞いた。聞きたくない、とも思った。だけど聞かなくてはならない、とも思った。彼女は私の未来の夢のパートナーなのだ。聞かなくては、ならない。
「……もしかしたら、しばらく歩くことができなくなるかもしれない」
まりえさんは、それまでとは違った、無機質な声で答えた。
「神経のほうがやられていたら」
ひどくかさかさとした声で。
「歩けない」
「歩けない、ではなくて立てない、かもしれないわ」
それって。二の腕から急に悪寒がはい上がる。
「それって」
「先生が、ひどく難しい顔していたのよ」
彼女はひざの上で、こぶしを握りしめる。あまり明るくない部屋の中でも、その指が白くなっているのが判る。
私はふらふら、と首を横に振った。それって。
それって、あんまりじゃないの。
想像ができない。歩き回れないサラダ。走り回れないサラダ。小さい頃再放送で見た「ハイジ」のクララのように、車椅子に乗らないと動けないサラダなんて、想像ができない。ちょっと待て。ちょっと待ってくれ。それは本当に、現実なのか?
「嘘でしょう……」
ふらふら、と首を横に振る。
「嘘に決まってる」
「わたしもそう思いたいのよ。だけど今の時点では、まだ判らないの。この子もまだ麻酔が効いているし……」
冗談じゃない、と私は思った。何だって、今、彼女が。
故郷で、嫌なことを思い切り味わって、出てきた場所で、今度は、夢を見て、その夢を現実にするために走り出していたのに。
なのに、つまづいて、もう立てないなんてこと、有り?
冗談じゃない。
冗談じゃ、ない!!
私の中で、ふつふつ、と熱いものが湧いてきていた。最初は悪寒だったそれが、次第に全身に満ちて、熱になる。
「……それって、ひどいじゃあないですか」
「ひどい、わよ。……だからわたしまだ、明日明後日、この子が目を覚まして、……ちゃんと診察を受けて、……それまでは、絶対、その可能性は信じたくない」
「あたしだって、信じたくないです」
もしもそんなこと、本当に起こってしまうのだったら。
思わず私は何かに向かって祈っていた。無信仰だから、誰に、ということもない。ただ、何か、そんな、大きなものがあるのだったら、サラダにその可能性を与えないでくれ、と。
大声で、叫びたかった。
「……でも何で、いきなり実家になんか行ったんだろ……」
ふと思いついたことを口にする。まりえさんに聞こう、という意識があった訳でもない。
「え? 知らなかったの?」
「知らなかったの、って…… サラダはあたしに何も言っていきませんでしたから。ただちょっと様子が違ったから、駅に着いたら電話して、とは言ったけれど」
「そうなの」
ふう、と彼女はため息をついた。
「お金、貸してもらおうとしたみたい」
「え」
「事故の話を、あの子の実家のほうにも言ったら、怒っていたのよ、いきなりあんな話持ってくるから、何かおかしくなったんだ、って」
「あんな話」
「あなたがた、店を出したい、って言ってたんでしょ。その話を持ち出して、足りない分のお金を貸して欲しい、って言ったみたい」
「そんな」
そんなこと、一言も。頼んでもいない。
「知らなかったのね。そうかもね。何をまた夢みたいなことを、って向こうも断ったみたい。そりゃあそうよね。額が額だったから……」
今現在、私達の資金は200万くらいだ。それではまだ確かに足りない。目標は、500万から600万なのだ。そのくらいあれば、ちゃんと場所を借りて、改装して、初期資本にもできる。足りないところは自分たちで手作りしよう。そう言い合っていたのだ。
何を一体、いきなり先走ってしまったのか。
*
「だってミサキさん、疲れているようだったし」
翌朝、目覚めたサラダに、ほとんど怒鳴る様な調子で私は問いつめた。無論ちゃんと彼女が目覚めたことがうれしくて…… その照れ隠しもあった。
開口一番、ごめんねえ、と彼女は言った。何やってんのよ馬鹿、と私は言った。
「ミサキさんがどんどん、会社ですり減っていきそうだったから、もっと早くできるものだったら、早く始めたいなあ、って思った」
とろんとした目で、彼女は私を見た。
「……何言ってんのよ。自分達の資本で始めるとこに意味があるんじゃない。女二人じゃあ何処の銀行も貸してくれないからって……」
「うん。貸してくれないね。ウチの親もだめだった。あたしの説明も下手だったしさ」
「あんたの口が下手なんて、どうしてそんなことがあるよ」
「通じなかったもの。どれだけあたし達が一生懸命なのか言ってもだめ。……そういうひと達だしさあ」
仕方ないね、と彼女は笑った。そしてごめんね、と付け足した。
「冗談じゃないよ」
私はかがみ込んで、身体がまだ起こせない彼女の首を抱える。
「それでこんなことなって、どうすんのよ。とっとと治って、どんどんバイト入れてよ。あたしもがんばるから」
「でもミサキさん今も顔色良くないし」
ああもうどうしてそういう時なのに、そんなことばかり言うのだろう。
「あんたこそ、ケガしたとこ、痛いんじゃないの」
「ううん、変な感じはするけれど、別に痛くは」
「痛くない?」
嫌な予感がした。
「ただ、ひどく重いんだけど」
ものすごく、嫌な予感がした。
その日のうちに私は帰らなくてはならなかったので、その言葉の意味は、さらに翌日になってから聞くこととなった。
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