第58話 その口調は彼女の姪のものと似ていた。
「……こんばんわ……」
我ながら間抜けな挨拶だとは思うのだが、他にどう言いようがあっただろう?
椅子に座っていた女性が立ち上がった。そう大きくはない。どちらかというと小柄だ。ボーダーのTシャツを中に着込み、シャツを羽織っている。
「あなた」
「初めまして。加納美咲です」
「ええ…… ええ、来てくれてどうもありがとう」
「これ、彼女の荷物です。……どうなんですか?」
本人は、ベッドの上だった。ぐっすりと眠っているようだった。
「うん、今は麻酔が効いてるから」
「……ってことは、手術か何かしたんですか?」
「ええ、結構強く背中を打ってたみたいで…… 足自体も骨折していたし、……それ以外は、まあ、腕も頭にも何も問題はない、ってことなんだけど……」
私は何も返せずに、眠る彼女を見下ろした。髪が乱れている。顔には取りきれなかった、泥だかすすの様な汚れがついている。
「ぶつかった車両ではないのよ」
黙ってうなづいた。
「だけどそれで脱線して、転がってしまった車両に居たの。それで投げ出されてしまったんだ、って聞いたのよ」
「投げ出された……」
それがどういう衝撃なのか、私にはよく判らない。単に転がった、というだけではないような気もするし、それだけのようにも思えなくもない。
とにかく、目の前に居る彼女は、それでケガをしているのは確かなのだ。
「……それで、もし脊髄をどうかしているとかだったら、どうなんですか?」
「どうなのかな……」
まりえさんは口を濁した。
「まだ何とも言えないのよ。何せ、今この病院で、事故に遭ったひと、皆収容してて、その中でも個室に入れられたってこと自体、わたしも気になってはいるのだけど」
「と言うと」
「軽いケガのひとたちは、大部屋でしょう?」
それはそうだ。しばらくの入院の必要が、安静でいる必要があるということで。ふう、とまりえさんはため息を大きくついた。
「……とにかく今日はありがとう。ここに泊まる?」
「ええ、一応明日は休む、と言ってきましたから」
「本当に、ありがとう。……いい友達、できたのね、菜野」
お茶入れましょう、とまりえさんはポットの電源を入れる。私は部屋の隅にあったドーナツ椅子を引っぱり出す。
部屋全体の照明が強くないので、椅子の赤がひどくくすんで見えた。血色の悪い女のつけた口紅を思わせた。
「はいどうぞ。紅茶で良かった?」
「ええ……」
ふう、とまりえさんはもう一度ため息をついて私の隣に椅子を置いた。
「あの子のアドレス帳に、まりえおばさん、って最初にあったから、私のほうに連絡が来たのよ」
「そうですか……」
「で、その中に確かルームメイトであるあなたのケイタイも書いてあったから……」
「アドレス帳なんて、持ってたんですね、サラダ」
「アドレス帳って言うよりは、メモ、だけどね。何か笑っちゃった。笑ってる場合ではないのに。まりえおばさんの編集部、なんて書いてあるのよ、この子」
「編集の方、なんですよね」
「ええ。一応」
彼女はある雑誌の名前を出した。
驚いたことに、私も時々立ち読みする音楽雑誌だった。
そう言えば、サラダのおばさんなのだから、結構歳もいっているはずなのに、そんな風には見えない。若作りではなく、長いウエーブの髪をざっと束ねただけのその姿は、年齢を感じさせないものだった。
「今ちょうど、エアポケットの時期だったから、すぐに飛んで来れたけれど……これがもう少し後だったら、正直、こうすぐにやってこれなかったかもしれないね」
「……そういうものですか?」
「まあね。その代わり、その時にはどんな手を使ってでも、仕事を早く終わらせるか、この子のそばに居る人を捜すけれど…… うん、正直あなたが居て、かなりほっとした。こんな早く来てくれたし」
「友達だし」
「友達だって、そうそう一緒にいつも居られる訳ではないでしょう?」
「サラダは…… 一緒に店をやろう、って言ってる…… 仲間…… っていうんでしょうか。何か上手い言葉が今浮かばないんですけど」
「ああそれで、あの子が今一緒に住んでいるのね。あの子にしては、何かすごい上等、というか、進歩というか」
「進歩、ですか?」
「進歩よぉ」
少しばかり、その口調は彼女の姪のものと似ていた。
「そうかも、しれないんですね」
「聞いてるんだ。あなた」
まりえさんは首を傾げて、私の顔をのぞきこんだ。
「あの子が引きこもってた子だってこと」
私はうなづく。言ったんだ、とまりえさんは感心したようにうなづく。
「そうよね。じゃないと、今のあの子を見てるだけじゃあそういうことは言えないよね」
「あなたが、逃げ出せと言ったと聞きました」
「あらそんなことも言ったの」
あはは、と彼女は小さく笑った。
「そうよ。わたしが言った。そしてそれは間違いじゃなかったと、思うしね。そこに踏みとどまってがんばれ、なんて、言うのは簡単じゃない。だけど当の本人にしてみりゃ、たまったものじゃない。痛みの度合いなんて、皆それぞれ違うのに、あの子より感じ方が鈍い連中が、その鈍い神経であの子を傷つけていたから、生きたいのだったら、生きやすい方においで、と言ってやっただけ。そうしてもいい環境だったら、黙ってることはない、と思ったからね」
「環境?」
「たとえばね」
彼女は胸の前で腕を組む。
「ものすごく、貧しい環境に生まれてきた子だったとするでしょ。そういう子はそういうところでがんばっているんだから、って言葉で責めることってあるじゃないの」
「ありますね」
好きではない論法だ。
「でもそういう子は、そこに生まれて、そういう現実を見て育って、ある程度の耐久力がある訳じゃないの。誰に教わるでもなく。でもあの子にしても、たとえばあなたにしてもそうかもしれないけれど、食べることや生活費に困らない子供に、いきなり同じトラブルを突きつけたらどう?」
「困りますね」
「それでも現実は現実、と言えば言えるし、そんな場合にぶち当たったら、そんな甘っちょろいこと言ってどうする、ってこともあるわよ。だけどあの子はそうじゃなかったからね。環境ってのはそういうこと。そういう現実が来る可能性が全くない、とは言わないけど、現実問題として、あの子がそんな状況におかれた訳じゃないでしょ。無理なたとえを持ち出して人を非難するのは楽よね。一人一人傷の負い方ってのは違うのにね」
伏せ加減にした目の、眉だけ彼女はひょい、と上げた。最後のほうはほとんどつぶやきの様だった。私に話している、というより、自分自身に言い聞かせているような気もした。私は話を変えた。
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