第57話 病院の持つこの雰囲気は嫌いだ。

 ぐらり、と私は一瞬、目の前が薄暗くなるような気がした。息が、詰まる。

 ―――市は、東京からそう遠くはないが、まだ一応山梨の部類だ。何で、そんなところに。


『加納さん?』

「な…… にが、あったんですか? サラダ、けがでもしたんですか? 事故? それとも病気?」


 立て続けに私は彼女に問いかけていた。


『加納さん、ニュースまだ見てない?』


 ニュース?


「まさか」


 少しの間が、空く。その時私は、彼女の受話器の向こう側では、騒がしい病院の廊下の様子に気づいた。確か、死亡したひとも出た、と後輩OLちゃんが言ってた……


『あ、心配しないでも大丈夫。命に別状はないのよ。ただ、足をやられて』

「足を」


 ばん、と思わずタイルの壁に背中をもたれさせる。


『しばらく動かせそうにないのよ。だからこっちでしばらく入院するってことで』


 私はすぐにはまりえさんのその言葉に答えられなかった。

 ひどい傷を負ったのか、それとも折れたのか、ひびくらいだったら、そんな、しばらく入院ということもあるまい。いや、折ったとしても、東京の、こっちにすぐに移ってくることもできるはず…… だけど……

 頭の中で、悪い想像ばかりがぐるぐるぐるぐる周り出す。くらくらくらくら。頭の芯が、揺らぎ出す。


『加納さん? ミサキさん!?』


 名前を呼ばれて、私ははっとする。声の感じは違うけれど、発音が、サラダと彼女は良く似ていた。


「だ、大丈夫です。しばらく、動かせないほどの、ケガなんですか?」

『まだよく判らないのよ』

「判らないって」

『もしかしたら、脊髄のほうにも』


 ぞく。私は携帯を握りしめる。彼女の言葉の意味が、私にも想像できた。彼女もまた、それを口にしたくないのだろう。


「……わ、……かりました。できるだけ、早く、そちらに向かいます。あの、住所を教えてください。……それと、今中央本線のダイヤが乱れてるってことですけど……」


 そうなのよ、と彼女は言った。


『だからそのあたりも見計らって来てほしいの。でも無理はしないでね。あなたに無理をさせたことを知ったら、わたしが菜野にしかられてしまうから』


 シンク横に置いてある、来客接待用の依頼書を一枚破くと、私は胸ポケットに入れておいたボールペンで、彼女の言う場所を書き取る。全然知らない住所だ。全然知らない地名だ。サラダにまるで似合わないじゃない。

 ありがとうございました、と言って私は電話を切った。


 時計を見る。まだ二時半だ。何でまだ二時半なんだろう。定時は一応五時だ。忙しい用事は無い。無いはずだ。正直、あったとしても、すべて放り投げて行きたいぐらいだ。

 私はそれでも、なるべく平静を装って、自分の席に戻った。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。あとどれだけ仕事が残っている? ちゃんと定時で終わらせることができる? 願わくば、何もこの後に入ってこないことを!

 ボスOLさんのところに行き、急だけど明日休む、という意味のことを言った。彼女はさりげなく理由を私に聞いてきたので、私は正直に言った。


「同居している友達が事故に遭って…… 入院したんです。少し遠いので、仕事終わってから、そっちに荷物とか持っていかなくてはならないので……」


 すると彼女は目を大きく見開いた。


「それだったら、今からでも行ってらっしゃいよ!」

「いいんですか?」

「いいも悪いも」


 だとしたら。時計を見る。三時ぐらいだ。上司は席に居ない。


「仕事、急ぎのものは無いでしょう?」

「ええ、まあ今のところは」


 じゃあ大丈夫よ、とボスOLさんは言った。

 それではすみませんお願いします、と私は頭を下げた。おそらくは「お三時」で何処かでコーヒーでも呑んでいるのではないかと思われる。頭を下げたのは、その上司に伝えておいてくれ、という意味もあった。

 慌ててロッカー室に飛び込み、すぐさま着替え、会社を飛び出したのは、その会話から五分足らずだった。

 そのまま部屋に戻り、荷物をまとめ、まりえさんの言った病院へ向かうべく、駅へと向かった。



 病院に着いた時には、既にとっぶりと周囲は暗くなっていた。

 いやそれだけでない。その地自体が暗かった。住宅地から少し離れた場所にあるせいか、県境を越えているからか、それは判らなかったが、とにかく外は暗かった。星がぴかぴかと瞬いていた。実家のあるところでも、こんな風に星は見えなかった。

 受付でサラダが入れられている部屋の番号を聞き、私は鈍い光の廊下を荷物を抱えて歩き出した。

 病院の持つこの雰囲気は嫌いだ。エレベーターの文字盤が、ひどく古いもののようで、灰色の上に点滅するオレンジ色が、背中をぞくぞくとさせる。何が怖い、というのではない。ただ怖いのだ。何がこの先に待ち受けているか判らないせいかもしれない。

 病室棟は何やらまだざわついていた。どうやら同類項か多いらしい。荷物を持ち、慣れない足取りでうろうろしている人があちこちで見られる。事故は一体どのくらいの規模だったのだろう。ニュースをちゃんと見てくれば良かった、とあらためて思う。

 ダイヤは乱れに乱れていたが、それでも一応列車は動いていた。時刻表を気にしなければ、とにかく待っていれば乗れそうだったので、やってきた列車に乗って行った。

 窓の外の風景は、どんどん暗くなっていく。普段そう見ることの無い景色だから、いつもだったら結構見入っていることが多いのに、今日はそれどころではなかった。

 言われた部屋の番号をやっと見つけて、そこが個室であることを確認して、ノックした。どうぞ、とアルトの声がした。

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