第56話 『菜野の叔母で、宇田川まりえと申します』
「あれ主任、今日出張じゃなかったんですか?」
後輩OLちゃんが、お昼頃会社に出てきた上司に向かって言う。彼は今日確か、長野だか山梨だかに出張のはずだったのに。私は内心がっかりする。せっかく今日は少し風通しが良くなると思ったんだけど。
「や、出張だったんだけどな。中央本線が何か事故起こしたらしくて、ダイヤが滅茶苦茶になってるらしいんだ」
「事故お?」
後輩OLちゃんは、首をかしげるが早いが、さくさくとPCをネットにつないで、ニュース速報を画面に映し出した。
「車両が線路につっこんできて…… あ、これですね」
「それって結構ひどいものじゃないの?」
「ひどそうですよ~ ほら見てくださいよ先輩、数人亡くなったひとも居るみたいですよ」
「そりゃあなあ、横から突っ込まれりゃ、その衝撃だけでもとんでもないものだからなあ」
上司はそう言いながら煙草に火をつけた。
「おかげで特急も全部今運休中。こういう時、東海道とかだったらなあ。まだ在来線が事故っても、新幹線とか、私鉄とかいろいろあるんだが」
そういうものなのか、と私はその時はそれ以上の興味も無く、またすぐに仕事に戻った。
昼過ぎに、ぴろぴろ、と着信音がいきなり鳴った。
私は慌てて受信する。仕事中だった。普段は仕事中にケイタイは鳴らさない。更衣室のロッカーの中へ入れておく。だけど今日は電話を待っていたのだ。
サラダが、三日の予定で実家に行っている。突然どうしたの、と訊ねたら、何となく、と答えた。
そう答える時は、だいたい何か結構深刻なことを考えていることが多い。彼女はそうだ。
一年も同居していれば、さすがにそういうことも判ってくる。
そう。一年が経っていた。私は相変わらずあの会社に勤めている。そしてあの№2のOLさんが結婚するから、と辞めていった。
結構これは不意打ちというか、早業というか。あの「向こうの仕事に専念したい」という彼女とはまた別の意味で、唐突だった。
何処に浮いた噂があるんだ、という人だったのだ。
あの温厚な笑みの下では、結局何を考えていたのか、私にはさっぱり判らない。きっといい家庭を作ることだろう。何を考えていたかは判らないが、彼女が居たおかげで、職場がスムーズに動いていたということは確かにあるのだ。
何処かの本で、OLの位置関係を身体にたとえたものがあったけれど、あのばりばりに働く最年長のボスが「頭」とすれば、彼女は「心臓」だった訳だ。何だかんだで、私達は、ボスの彼女には陰で首をひねっていたことがあったのだが、彼女に関しては、素直にはいはいと言うことを聞いた。それは彼女の性格もあったろうし、スタンスもあっただろう。
そして新しい子が二名増えていた。
結局今私は、№2の位置に居る訳だが――― 正直、重い。
確かに未来にできるカフェの図を思い描けば、毎日の仕事もそう苦にはならない。
残業に関しても、「ここまでの残業はお金になるがここからはサービスだ」とか考えてそれまで以上にきっちり時間で終えるとこは終わらせて、上司に嫌な顔されようが、そんなことは大したことではない。
だけど、どうもそのボス的OLさんが、配置換えするという噂があったのだ。
女性で配置換えはそうそうあるものではない。つまりそれは、彼女がただの事務職から、管理職へとステップアップしようとしている、ということらしい。そして会社側も「優秀な」彼女をとうとう認めたということだ。
それはそれでいい。めでたいことだ。
だが私からしてみると、彼女が居たおかげで何となくやらずに済んでいたことが自分にのしかかってくるおそれがある。それは正直、避けたい。
逃げだというなら言えばいい。しかしそんなことは、会社では絶対口にはしないようにしていた。まだもう少し、ずるずると居座り続けなくてはならないのだ。固定の収入は、無くすのは惜しい。
この一年で、私とサラダはずいぶんがんばったと思う。
予定の金額を越えて、200万弱、今私達の共同の通帳には入っている。ただし私はボーナスを必要経費以外全部そこにつぎ込んでいる。これを使えばすっからかん、という感じだ。
このぶんだと、あと一年みっちり働けば、資金はできる。そう私達はふんでいたのだ。
だからもう一年、保ってくれ、とボスOLさんには思わずにはいられない。利己的だとは思うのだが、正直な気持ちだ。
けれどそんな私の憂鬱は、サラダには伝わってしまうらしい。彼女は何も言わないが、バイトしているカフェからケーキを持ってきてくれたり、休みの日など、カードのモデルになって、などおどけて言うものだ。
そして突然の帰省である。
一体何があったのだろう。理由はそれ以上、結局は聞かなかったのだが、駅に着いたら電話してよ、と私は言っておいた。
しかし予定の時間より、何か妙に早い。だってまだ、午後三時にもなっていない。彼女のことだから、私がまだ仕事中だということは知っているだろう。そんな時間に、「着いたから」と言ってかけてくるような奴ではないし、もし着いたなら、ある程度時間をつぶしているはずだ。
なのに。
「もしもし」
小声で答える。上司の目がどうも気になる。ちろり、と一瞬だけ見て、すぐに書類のほうに視線は戻ったが、ぬるり、とした感触が一瞬背中に広がった。
『もしもし、加納美咲さんですか?』
そうですが、と答えてから、私は聞いたことのない声に、一瞬とまどった。落ち着いた、アルトの声だった。
「そうですが……」
言いながら、私は給湯室へとそっと向かった。まあそっと、と言ったところで、たかが知れている。
「どなたですか?」
『菜野がいつもお世話になっております』
「は」
『菜野の叔母で、宇田川まりえと申します』
まりえさん、とサラダが呼んでいた―――彼女の味方だった、おばさん?
「あ…… 初めまして」
つい頭も下げてしまう。目の前にそのひとが居る訳でもないのに。
「あの、それで、何の……」
『えー…… 加納さん、今あの子と一緒に暮らしてるんですよね』
「はい。そうですが……」
どうも歯切れが悪い。
『お仕事が終わってからで無論かまわないのですが、あの子の着替えとか、持ってきていただけませんか?』
「え?」
言っていることの意味が、すぐには分からなかった。
『下着とか…… Tシャツとか』
「ちょ、ちょっと、何が何なんですか?」
何か、ひどく嫌な予感がした。
「まりえさん、今すみません、あなた、どちらに居られるんですか?」
名前で呼んでしまったことにも私は気づいていなかった。それはそうだろう。私は彼女のことはこの一年間、サラダからよく聞いていた。だから私の頭の中では、彼女はあくまで「まりえさん」だった。宇田川さん、とかそういう堅い名前ではなかったのだ。
『―――市の、市民病院です』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます