第12話 兄の部屋は奇襲すべし
しかしよく考えてみれば、そんな私達より、もっと極端な奴が居た。
私の住むマンションから、小さな公園をはさんだ向こう側に、兄貴の住むアパートがあった。確か家賃が5万足らずとか言っていた。よく見つけたものだ、と私は思ったものだ。
外付けの、二階に向かう階段を上ると、がんがん、と音がする。風向きによっては雨が吹き込む通路を抜けて、彼の部屋の前に立った。
はて一体私は何しに来たんだっけ。
確たる理由というものは無い。別に無くても、妹なんだから、様子を見に来たとか何とか言えばいいのだろうが。ただ実際、私がやってきたのは出歯亀的な興味なのだから。
ともかくチャイムを鳴らした。ぴんぽんぴんぽん。居れば一分足らずで彼は出てくる。出なければ居ない。それでいい。
一分経って、出て来ない。じゃあ居ないのか、と思って私は引き返そうとした。ん? 気配はある。首を傾げて、もう一度チャレンジする。ぴんぽんぴんぽん。
「どなたですかー?」
おお、この声は。
「美咲です。留守番ですか?」
わざとらしいが、あえて言ってみる。案の定、扉は開いた。小柄な青年が、そこには居た。
「ああ美咲ちゃん。ケンショーは……」
「まだ寝てる?」
にっこり、と私は笑顔を作る。
「あ、昨日ちょっと皆で呑んでて」
「でしょうね。あれ、じゃあ他の人達も?」
白々しい。
「や、別にここで呑んだ訳じゃあないから」
うんうんうん、と私は大きくうなづく。ちょっと失礼、と私は中に入り込んだ。確かにそうだ。散らばっている靴も、兄貴と、ハコザキ君のものしか無かった。
「おい誰か来たのかよ?」
狭い部屋というものは、こういう時に不便だ。ベッドが部屋の奥にある、と言ったところで、丸見えなのだ。
「はあい」
ベッドの上には、上半身を起こした兄貴が居た。
頼むからそのままの姿勢を崩すなよ、と内心つぶやく。上半身は裸で、その下も何となく予想がついた。
まあよくある光景だ。だから驚かない。今更兄貴の裸なんぞ見たところでどうってことは無い。
ただ朝っぱらから、そんな露骨なものは見たくないだけだ。女の子のふわふわした胸とかだったらともかく、何がかなしゅーで。
「その声…… 美咲か?」
兄貴は目を細めてこちらを向く。彼の視力では、六畳間の向こうに居る私の判別はできない。
「おはよー兄貴。また、なの?」
「……またとは何だよまたとは……」
ぶるん、と彼は頭を振る。低血圧なのだ。起き抜けはこれでもか、とばかりに機嫌が悪い。
長い金髪が顔の前と言わず後ろと言わず、少し間違えば絡まってしまいそうな程だ。基本的にはさらさらヘアであるのが救いと言えば救いだ。猫っ毛が入ってでもいたら、直すのに一苦労である。
「え、ええと、美咲ちゃん、お茶でもどう?」
「ありがと」
私は再びにっこりと笑った。ふん、と兄貴は半ば閉じた目のまま、両眉を上げた。
勝手知ったる他人の家。ベッドの脇に置かれている座卓のそばに私は陣取った。
いつも思うのだが、この男の部屋は、案外片付いている。何の飾りも無いベッドに、冬になったら活躍する炬燵の座卓。窓際にはTV。カーテンは遮光を兼ねているので、暗色だけど、そう悪い印象ではない。
押入をクロゼット代わりにして、上の段の半分には服をずらりと掛けてある。あと半分にはオーディオ。CDとかデッキとかそんなものが置いてある。下の段には楽器。ギターにギターにギターにアンプ。
こんなものまで弾いてるのか「ぞうさん」まである。
他に何があるんだ、というくらい、彼の部屋でぱっと目に入るのはそれだけだ。
まあしかし確かにそれ以外、必要ではないのかもしれない。
部屋というものが、食う寝るところに住むところ、というならば、彼の場合、確かに必要なのはそれだけだろう。
「食う」ためのものは、部屋の端に作りつけてある台所スペースに集約されているし。
1ドアの冷蔵庫。自炊も全くできない訳ではないらしい。
時々私も、総菜をたくさん作った時にはタッパーに入れてお裾分けする時もある。
一人分のちゃんとした料理、というのは実に作りにくいのだ。
ちゃんとした肉じゃが、とかちゃんとしたうま煮、とか作った時には、どうしても四人分、とかのレシピを見てしまうものである。
持ってくと、助かる、とか言いつつ、その冷蔵庫に入れている。
こういうあたりが結構見かけと一致しないところなのだが、この男は、案外マメなのだ。とは言え、収納に血道を上げるタイプではない。無駄なものは買いもしないし置きもしないだけなのだろう。
そんな台所スペースで、ハコザキ君は鍋で湯を沸かしていた。やかんは無い。小鍋とでかい鍋とフライパン。それだけあるだけでも立派である。そんな小鍋で湯は湧かすらしい。
「俺にも一杯くれー」
ふとんの中でずるずるとスウェットの下を履いたのだろうか、兄貴はベッドからずるずると降りて床にべたん、と腰を下ろした。
「何がいい? コーヒー? お茶?」
どうやらその二種類しかないらしい。コーヒー、と兄貴は言った。一緒でいいよ、と私も答えた。シンク下の扉を開けると、ハコザキ君はお中元かお歳暮でもらったギフトのような箱の中から、一人用のコーヒーパックを三つ出した。
「珍しいものがあるじゃない」
「ああ、家にあったから持ってきたんだ」
ハコザキ君はさらりと答える。何処の「家」なのだろう。
「ハコザキ君、東京育ち?」
「こいつはそうだよ……」
面倒くさそうに兄貴は答える。
「のよりさんも?」
「お前何しに来たんだよ」
兄貴は髪の間からじろ、と視線を飛ばす。相変わらず目つきの悪い男だ。
「そりゃあ、またか、と思ってね」
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