第11話 人間として信用できない人の言葉って、なかなか覚えることができないよね。


 今までのつきあいの中で、きょうだいに関する話も出てきたことはない。

 私が兄貴に関して話すと、いちいち驚いてみせるところを見ると、彼女は一人っ子らしい。

 一人っ子がよく東京で一人暮らしをさせてもらえたなあ、と当初は思ったものだ。

 私が東京に出られたのも、ひとえに兄貴が居たからだ。

 彼は別に両親に対してどうこうしている訳ではない。正直、勘当状態と言ってもいい。だが私が放任されているのは、彼という存在があるからだ。

 長男である彼は、とにかく居るだけで、私の自由をくれた。それと同時に、確実に、はじめから、私の何かを奪っていた訳だが。

 まあそれはともかく、私が東京に就職を決めた時に、母親に言ったこの言葉は効果的だったはずだ。


「兄貴を探すからね」


 彼は居場所を全く実家に教えなかった。そのまま七年その調子で居れば、失踪者として死亡届が出せそうなくらいに、見事に姿をくらましていた。

 まあそれは親の目から見て、だ。

 私からしたら、網の張り場所は予想できたのだが。人を雇ってまで探す気はなかったのだから当然だろう。

 その程度には、「いつか帰ってくる」という気持ちが両親にはあったのだろう。ふうん、と私はその様子を見て思ったものだ。ふうん。


「おにーさんはでも、よく彼女を変えてるんじゃない?」

「どうして?」

「や、そんな感じがしたから」


 彼女はオレンジを刺す。


「好きもの?」

「ってゆーか、切ないギターだし」


 へえ、と私は残ったミルクに濃い紅茶を注いだ。


「ミサキさんも何か楽器やればいいのに。暇つぶしできるよ」

「ざーんねんながら、その才能は無いの」

「そぉ?」

「そうなの」


 そうなのだ。どうやら神様は、私達きょうだいの遺伝子から、音楽の才能という奴をすっぱり分けてしまったらしい。

 まあそれは他の部分にも言えることだ。私にはたやすくできるデスクワークという奴が彼にはできない。

 長時間集中することができる、という能力は共通しているのだが、その方向が全く違っているのだ。

 両親の遺伝子の、どのあたりを私達はこうやって分割してしまったのだろう?

 親父も母親も、若い頃のことは全く知らない。もしかしたら音楽をやっていたことがあったのかもしれない。もしかしたら、結構遊んでいたのかもしれない。だけど彼等は言ったことが無い。聞いたことも無い。


「小さい頃、ピアノとかオルガンとか習わされたりするじゃない。ああゆう奴、どうしても駄目でね」

「おにーさんは?」

「奴は『男の子』だったからね。そういうのは強制されなかったの」

「男の子だから、駄目なの?」

「ウチの母親は、割と子供をこう育てたい、という型があったみたいでね。あたしは小学校に上がったあたりで、オルガンやらない? ピアノ習いたくない? とか言われたのよね」

「習ったの?」

「一応ね。一年くらい。だけど駄目だったなあ。ピアノの先生が、いつも困った顔してたし」


 何が駄目だったか、と言っても一口では言えない。

 無論聞く音楽、歌う音楽は好きだったに違いない。今の今まで。

 ただ、それと実際に楽器を演奏する、というのは別だ。指が全く動かなかった訳ではない。そういう手先の部分は私は結構小器用にこなしていた。では何が、と言えば。


「ピアノの先生が言ったのよね。何か困る、って」

「困る?」

「教えにくかったみたいよ」

「どういうこと?」


 私は彼女のカップにも紅茶を注いだ。


「ああゆうのは、ちゃんとこうやってああやって、って習うにも手順があるみたいなんだって。だけどあたしはどんどん先に先に進んで行こうとしちゃうから」

「扱いが困った?」

「らしいね」


 それは今でもそうだ。ただ今は、それをある程度自覚しているから、何とか済んでいるだけ。

 会社の新人研修の時なんかそうだった。

 困ったことに、渡されたマニュアルは、実に薄かったのだ。

 いや、無論それだけではないことは判る。

 ただ、そこに書かれていることはそこに書かれていることであり、それを読んでしまうことは、実にたやすい。

 ついでに言うなら、私は速読という奴ができる。学生時代はそれがずいぶん役に立った。

 だがそれを会社というところで下手に使うと。

 先輩OLは、自分が予想した時間よりはるかに早く目を通してしまった私に対して、不審の目を向けた。

 あ、これはやばい、と私は思った。慌ててすいませんここ飛ばしてました、と言って、結局同じ文章を三回くらい繰り返して読んでたことを覚えている。


 ああ面倒だ。


「だからそれはそれでいいんだけど、そういうタイプの子だから、じっくりと音楽に取り組むのは無理だろう、ということを母親に言ったらしいのね」

「そうかなあ。単に人に習うのが上手くないだけじゃないの?」

「あたしもそう思うよ。今ならね。だけどガキの頃じゃあそんなこと、判る訳がないじゃない」


 どうやら人に習う方が自分で問題も解き方も探して行くことよりも楽だと思う人が多数派だなんて。


「でもさー、それだったらあたしはミサキさんの方に近いと思うよ」

「ふうん?」


 にやり、と私は笑った。


「だってさー、ガキの時にさ、よくあたしも先生に変な質問して嫌われたもん」

「変な質問?」

「何で電流が流れるんですか、とか」

「それが変?」

「電流って電気が流れる、ってことじゃん。流れるものをまたわざわざ流れるって言うのって変じゃん。何でそういうんですか、って聞いたら、怒ってそれはそういうものだ、って言われたよ」

「それはそーだろ」

「でもあたしには変だったんだもん。何かむずむずしたのよね。コトバ的に」


 でもその気持ちはすごくよく判る。


「そこで、その先生が、せめて『それは言葉としては変だが、昔そう決められてしまったものなんだ』とか言ってくれてたらね、納得したと思うんだけど」

「そこで怒ったのが嫌だったんだ」


 そ、と彼女はうなづき、カップを手にした。その気持ちは良く判る。そこで彼女が問いたかったのは、ただ単に言葉のことだけではないのだ。


「そういうものが多いんだよね。結局。何か良く判らないけれど、そう決まってる、ってこと。じゃあどーしてそれがそうなってる、って聞くと、答えられないから怒る訳でさ。判らないなら判らないって言えばいいのに。そーしたら信用できるのにさ」

「仕方ないよね。先生って立場からそんなことは言えなかったでしょうに」

「でも人間として信用できない人の言葉って、なかなか覚えることができないよね。あたしそれから理科駄目になったもん」


 極端な奴だ。


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