第10話 「自分のことだって、判らないものは判らないのよ」

「おはよー……」


 かすれた声が耳元でした。

 おはよ、と私は返す。短い髪をぐちゃぐちゃに乱したサラダの顔が、間近にあった。ああそうだ、昨夜は泊まっていったんだっけ。

 ベッド生活で、客用のふとんなんて無いから、彼女が食事したついでに泊まっていく時にはどうしてもそういうことになる。

 季節が季節だから、まあ悪いものではない。人の体温というものは、心地よいものだ。

 彼女はふとん生活者だ。起きるとそのふとんを丸めて、カバーを掛けてソファ代わりにしている。そしてやっぱり客用ふとんは無い。逆に私が彼女の所に泊まると、時々私はふとんからはみ出ている。

 ベッドの時には高さがあるんだ、という意識があるのだろうか、彼女の寝相は大人しい。ただ問題は一つある。

 私は実は少し前から目覚めている。だが身体を起こすことができない。抱きつかれているので、動けないのだ。彼女のくせだった。

 ごめんごめん、と当初は言った。

 だが言ったところで、眠っている時のくせというものを変える訳にはいかない。

 まあいいか、と妥協したのは私の方だった。

 実際、抱きつかれているのはそう悪い感触ではない。女の子の身体はほわほわとして柔らかい。重いと言ったところで、男のそれとは違う。

 たださすがに、あんたは男にもそんなことをしているのか、と言ったことはある。するとこう答えた。


「人によるよー」


 私はその時にはさすがに首をかしげた。すると彼女は面倒くさそうに答えた。


「しつっこい人は、きらい」


 サラダはそれ以上は言わなかった。なるほど、そういう意味では、私はしつこさとは縁が無い。だいたいそういう仲ではないのだ。

 んー、とようやく腕を解くと、彼女は大きくのびをする。短いTシャツとショーツの間から、へそがのぞいた。

 私もようやくベッドから降りる。既に頭は覚めている。

 時計は十時半を指していた。

 昨夜はあれからずるずるとTVを見たり、他愛も無い話をして、気が付くと日付変更線を過ぎていた。

 そのうちに彼女がうとうととしだしたので、ベッドにうながした。シャワーを浴びて戻ると、既に彼女は夢の中だった。


 チン、とオーブントースターのタイマーが鳴る。

 問答無用でこんな朝はチーズトーストだった。ケチャップをたくさんつけているので、ピザトーストと言ってもおかしくはないくらいだ。ある時には、ピーマンやオニオンの薄切りや、ハムやベーコンの切れっ端も載せる。


「あたしさー、ここのケチャップ好き」


 昨日の食卓の続きで、布を掛けたままのテーブルに、大きなトレイを置く。トーストはそこに無造作に置く。三枚のトーストを半分に切った奴を、私達は適当に取って食べた。トーストは焼きたてがいい。さく、というあの感触がたまらないのだ。


「何かさあ、ガーリックずいぶん効いてない?」

「効いてるよ。うちの母親が作った奴だから」

「へー、ケチャップって作れるんだ」

「何かねえ、町の婦人会か何かで、そういうのやるのもあるんだって」

「婦人会、ねえ」


 さくさくさく。口の回りをケチャップだらけにして、彼女は3/2枚目に手を出した。


「町内会みたいな奴、よねえ」

「ご町内の公民館活動って奴かなー。あたしもよくは知らないんだけど、あのひとはよくそのテの活動に顔出してたから」

「ふーん、活動的なんだあ」

「暇なのよ」


 さく。そしてミルクを一口。


「うちのおかーさんはそういうことはしなかったなー」

「へーえ?」


 珍しい。彼女が自分の母親のことを口にするのは。私はつとめてさりげなく疑問符を投げかける。


「手が荒れるよーなことは嫌いだった人なんだよねー」

「ふうん? 何か優雅じゃない」

「優雅、って言うのかなー、ああゆうの」


 肩をすくめる。あ、もうこれ以上話す気はないな。


「あ、もう一枚もらっていい?」

「あんたよく食うねえ」


 4/2枚目に手を出そうとしている。まあいいよ、と私は答えた。こんなものは作るのは別に手間はいらないし、私はそんなに沢山は食べない。


「何、今日は彼氏と会う日だっけ」

「うん」


 だから気合い入れなくちゃ、とごはんを食べるらしい。これから戻って、お風呂に入って、ちゃんとメイクして服も選んで、午後の約束があるのだという。


「何、あんた今の彼氏ってどんな奴?」

「どんな、って。ミサキさんどうゆう人だと思う?」

「……って」


 予想がつかない。


「前のユウスケ君は、確かバイトの大学生だったよね、割と軽い感じの。で、その前のエグチ君は夜はクラブ通いして昼は結構肉体系のバイトのフリーターで」

「どーしてそういうことばかり覚えてるのかなー。ユウスケは細身で目が鋭い奴だった、とかエグチは背が高くて濃い顔してた、とか、そういうことは覚えてくれないのにさー」

「だって、あたしとあんたじゃ好みが違うんだもの。仕方ないじゃない。あたしはあーんまり濃い顔とか好きじゃないから、目と頭が覚えようとしなかったのかもしれないよ」

「ふうん。でもあたしミサキさんの好みって知らないもん。ミサキさんの好みってどんな奴なの?」

「あたしの好み?」


 はて。そう言えば。

 私は天井を見上げる。


「そんなものあったかなあ」

「って、自分のことでしょ」

「自分のことだって、判らないものは判らないのよ」


 私は乱切りにしたバナナをフォークでつく。その時となりのオレンジにも傷をつけたらしく、ほんの少し香りが飛んだ。普段はまるごと一つの果物しか摂らないけれど、人が居る時にはフルーツサラダ。


「変なの。だってつきあったことのあるひとは居るって言ったじゃない」


 そう言えば言った気もする。


「別に好みだからつきあった、って訳じゃないわよ」

「って変なの。だいたい好みだから、とかそうゆうんじゃないの? ミサキさん結構ガード固いしい」

「ガード、固いかなあ?」

「固いよお。ってゆーか、面倒だと思ってない?」

「あんたねえ」


 図星だ。苦笑する。

 だから時々困るのだ。見てるようで、この女は良く見てるのだ。

 彼女はぱっと手を広げた。


「それじゃあ人生華が無いよお」

「華、ですかね」


 思わず私は吹き出した。いきなり何か古風な。開いた手を今度は拳にして彼女は力説する。


「笑い事じゃあないよぉ。短い人生なんだから、楽しまなくちゃ」

「あたしは別にそういうことにあんまり楽しみって感じないもん。それこそ日々をつつがなく暮らすのに精一杯だよ? ほら、欠食児童に餌付けするとかう」

「あたしは児童か! ふうん? まあミサキさんがそうゆうことなくても楽しいなら、別にあたしの知ったことじゃーないけどさ」


 全くだ。


「で、ミサキさんは今日はどうすんの?」

「あたし?」


 さて。どうしようかな、と首をかしげた。特に何をしようという気も無い。


「まあちょっと買い出しに出かけようかな」

「それだけ?」

「兄貴の様子でも見に行こうかな」

「様子? でもおにーさんにも彼女とか居るんじゃないの?」


 うーむ、と私は腕を組んだ。果たして「彼女」なのか。そのあたりが今は少し気に掛かっているのだ。本当に「そう」なのか。


「うん、居るのかもしれないけれど、まあそれはそれとして。居たら冷やかしに」

「悪趣味ー」

「そうゆうのができるのが、きょうだいの特権なんだよ」

「へーえ」


 心底不思議そうに彼女は目を丸くした。

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