第3話 サラダと最初に出会ったのは 

 まだ私がこの東南の角部屋に越してきて、一ヶ月くらい経った頃だった。ゴールデンウイークで少しだけ地元に行き、戻ってきたら、人が増えていた。

 このマンションは、築二十年の決して新しくはない建物だ。だが壁の塗り直しなど、見える所の改修は定期的にやっているので、外から見れば生クリームケーキのごとく、なかなか小綺麗だ。

 それでいて、最近建てられる物件とかに比べると、少しばかり間取りがゆったりしているのがいい所だ。無論多少古いから、シャワーがついていないとか、細々とした問題はあるが、実家にもついていた訳ではないので、私は格別問題にしていなかった。

 それでも地方出身の私からしたら、何でこの家賃なの、と時々思う。二十三区内の1DKで7万だったらいい方だ、とは聞いている。でも地元でその値段だったら、3DKが楽々借りられる。早々と結婚した友人など、一軒家をそれ以下の値段で借りていたと思う。

 ちなみにその1DKと、彼女の住む1Kでは、家賃が1万違う。彼女の部屋は、キッチンが3畳だ。

 戻ってきてしばらくは、ああ人が増えたな、という印象だけだった。壁はそう薄くはないのだが、それでも人の居る気配、というものは判る。洩れ聞こえてくる音楽、テレビの音、窓を開ける音、風呂の水を流す音、そんなものが日常になる。


 その日常が一ヶ月くらい続いた、ある風の強い朝、何か窓の外でばさばさと音がした。

 何だろうと思ってベランダを見ると、シーツが落ちていた。まっ白なシーツだったが、真ん中あたりに、少しだけ落としきれない染みがあった。

 隣から飛んできたのか、と思ってのぞき込んだ時、ショートカットの彼女と目が合った。彼女は私の手に握られているシーツを見て、大声を上げた。驚いた。

 数分後、部屋のチャイムが威勢良く鳴った。彼女の手には、何故か赤いチェックのクッキーの缶があった。すいませんすいません、と呆然とする私の手からシーツを取ると、クッキーの缶を渡してすぐに扉を閉めた。

 よく見ると、そのクッキーの缶は開封済みで、既に半分近く無くなっていた。私は思わず耳の後ろをひっかいた。

 どうしようかな、とその時私は思った。どうしろと言うのだ、という気持ちがあったことも確かだ。缶は大きかった。クッキーを一人でぼりぼりと食いまくるという趣味は無い。

 私は少し考えると、今度は彼女の部屋のチャイムを鳴らした。そして言った。


「せっかくだからあなたのくれたクッキーでお茶でもどう?」


 何でそんなこと言ってしまったのか、は未だに判らない。私は本来人見知りなのだ。外面がいいので、あまりそれがばれたことは無いのだが。

 それ以来、彼女は時々私の部屋でお茶をしたり食事をとったりしていく。土曜の夜か、日曜の昼に。

 今日は土曜の夜だった。



「あー美味しかった」


 両手を後ろについて、「ドルチェ」まで食べ尽くした彼女は満足そうに感想を述べた。


「それはどうも。片付けは手伝ってよね」

「もっちろん。それはあたしの得意だもんね」


 料理自体はそう得意ではないのだ、と言う。いつもはバイト先で何かと食べてくるのだと。例えばコンビニの弁当、例えばファミレスのまかない飯。

 確かに彼女の部屋のキッチンには、そう使われた跡は無い。コンロにしたところで、二口コンロが入るスペースがあるくせに、一口のものを入れているだけだ。

 お茶やコーヒーはそれでもよく淹れるらしく、小さなボックスの中には、缶やらシュガーポットなどが行儀良く並べられていた。

 ただ本人に言わせると、そう言った雑貨は、格別に店に行って高いものを買ってくる訳ではない。砂糖とクリーミーパウダーと茶の葉っぱが同じ金属の蓋つきの小瓶に入っているのだが、それなどリサイクルショップで、100円だった同じものがちょうど三つあったのだという。確かに少し外側のふたはさびているが、中の蓋は綺麗なものだし、逆にそのさびがいい感じを出していたりする。

 確かゴミ箱もそういう経緯で買ったのだ、と聞いてもいる。普通の雑貨屋だったら千円くらいしそうなブリキの缶が、300円だった、と言っていた。

 彼女の部屋を見渡すと、そんなものばかりだ。安く買ったものや、時には粗大ゴミの日に拾った棚などもある。だが散漫な印象は覚えない。

 よく見ると、「そんなもの」としても、彼女の確固たる趣味というものがあるらしい。拾った棚はペンキ塗りなどしてあったりもする。…そういう日には、西側の彼女の部屋からペンキの臭いが漂ってくるので困ったものだが。それでも白くなった棚は、上手く使い込んだように塗られていた。こういうのもテクニックというのだろうか。今度聞いてみよう。


 そう、正直、私がキッチンのワゴンや玄関にタイルを貼ったりするのは、彼女の影響と言ってもいい。

 入ったばかりの頃、殺風景だったこの部屋を、どうしたものかと思ったものだ。

 実家の自分の部屋は、決して広くなかった。だから、その三倍近い広さの部屋が手に入った時、何処から手をつけていいものか判らなかったのだ。


 ところが、だ。


 サラダの部屋に通うようになって、私はそのたびに首を傾げた。来るたびに部屋はその表情を変えていた。

 本当にまだ出会ったばかりの頃は、カーテンも無かった様な気がするのに、その翌週には、薄手だが、柔らかな色のカーテンが入っていたし、その翌週には、壁全面に生成の布が張り巡らされていた。こうすれば壁に色々飾れるじゃない、と彼女はその時言っていた。

 賃貸マンションの悲しいところは、壁に穴など開けられないところだった。私はそれを知った時、壁が飾れないのか、と少しばかりがっかりしたのだが、彼女の部屋の壁を見たとき、なるほどと思ったものだ。で、私は布は貼らなかったが、代わりに大きなビンナップ・ボードを作ることにした。

 一度「無ければ作ればいいじゃない」という発想に目覚めると人間は怖い。ああこれができるあれができる、と部屋のあちこちに目が行ってしまう。

 そして引っ越してから一年近く経った今、私の部屋も彼女の部屋も、それぞれに思い思いの形を作っていた。

 鼻歌混じりでシンクの前に立つ彼女は、ワゴンの上に洗った食器を一時的に置いている。タイル張りの利点は、水にも熱にも強い、ということだ。

 しかしその鼻歌が。


「あんたいつその曲覚えたのよ」

「こないだー」


 あっさりと彼女は答える。


「だってさー、覚えやすいサビだったしー、ボーカルの声が結構あたし好みだったしー」

「あんたがそんな好みしてたなんて、あたしは知らなかったけどね」

「えーっ? そぉ? また連れてってね、おにーさんのバンド」


 背中を向けながら、そんなことを彼女は言う。


「何って言ったっけ? えーと、リーガー?」

RINGERリンガー。鐘鳴らし」


 へえ、と彼女は答える。こちらを向く気配はない。

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