贖罪

 煙に囲まれたロンドンの街は、それ自体が巨大な密室めいていた。窓も扉も施錠された往来を歩く少年の四肢は煤が落とされ、素肌が顕になっている。汚れた姿で死ぬのは避けたい。ジャレドはそう考え、身を清めてここまでやってきたのだ。

 空を見上げれば、煙の向こうに朧げな三日月が見える。眩いイエローは滲み、厚い靄に飲み込まれていた。人生の最後に見る月が映えないのは、苦難だらけだった今までに見合わないのではないか? ジャレドは思わず自嘲じみた笑みを浮かべる。


 馬車道を数歩進めば、魔煙は彼の視界を容赦なく奪った。周囲を何度見渡しても紫の煙が邪魔をし、足下さえ覚束ない。

 ジャレドは何度も咳をし、肺に潜り込もうとする煙を体外に出そうとした。骨が軋み、栄養失調気味の体に痛みを刻む。満腹まで胃に入れた筈であるのに、普段の粗末な食事がもたらした結果は重い。

 何度目かの咳に掻き消されたかのように、ジャレドの耳に微弱な声が届く。泣き声だ。か弱い、今にも消えそうな、赤子の声。彼は耳を澄まし、流されるように声のする方へ進んだ。


 反響する赤子の声は徐々に強く、ジャレドの脳内に着実に届いていた。それに従うように足取りは確かになっていき、流れる風の動きが変わる。

 泣き声はかなり近い。ジャレドは耳を押さえ、周囲の様子に注視した。右前方に、何らかの気配がある。

 雫が垂れる音。充満する鉄の香り。一瞬銀に輝いた刃物が空を切り、ジャレドはそちらを睨みつけた。血の付いたメスだ。


「おい、出てこいよ……」


 煙から出たその姿は、ジャレドに恐怖を感じさせた。黒いローブは正体を隠し、くちばし付きの仮面は獰猛さを感じさせる。かつてヨーロッパに広がった黒死病ペスト医師を模した姿だ。


「止まれ。もう願いなんて叶えなくていいんだ。やめてくれ」


 ペスト医師は大袈裟に首を傾げると、ジャレドの耳元まで接近して、ちちちちち、と歯を鳴らす。それはさえずりに似ていた。


「もう、いいんだ。それで満足できないなら、俺の魂でも何でも奪えばいい。俺を殺せ!!」

「ち、ちちちちち、ちち——」


 嘲笑するように囀るペスト医師は、懐から取り出したメスをくるくると弄ぶ。どれも血に染まっていて、ジャレドの覚悟を少し弱めた。

 意を決し、彼はペスト医師の身体を突き飛ばす。体重をかけたショルダータックルは跳ね返されることなく届いたようだ。怪異の身体がふわりと浮き上がり、地面への衝突を防いだ。

 ペスト医師はメスを構え、ジャレドに斬りかかった! ちらりと見えた仮面の中は暗黒に染まっており、刃が届くまでに彼の恐怖をさらに倍増させる。


 咄嗟の回避で出来た擦り傷に痛みはなかった。煙突掃除でこれくらいの傷には慣れているのだ。それでも尚、回避したという事実がジャレドにのし掛かる。彼は今、自分の命を寸前で惜しいと思ってしまったのだ。

 もう一度立ち塞がろうとしても、心が拒否してしまう。身体が動かないので、回避することもできない。しかし、メスをその身に受けることさえもできない。ジャレドは胃の内容物を二度吐いた。


「ちちちち、ちち——」

「……こ、ろさないで……」


 メスが闇夜にきらりと輝き、振り下ろされる。ジャレドは身体を縮め、ただ終焉を待つほかなかった。


「懐かしい! ペスト医師ですね。あの時も民衆はパニックになったものです。それにしても、仮にも医者を模したものがメスを医術以外に使うとは……随分な不届き者だ」


 煙広がる夜の帳を切り裂いて現れた紳士は、ペスト医師の腕にあたる部分を強く引いた。突如として不意打ちを食らったペスト医師はターゲットを変更し、紳士に向けてメスを飛ばす。


「メフィストフェレス、向かい撃てיירוט


 背負った匣から飛び出した巨大な蜘蛛の爪脚は降りかかったメスを連続で払い落とし、そのうち2本のメスをペスト医師に突き刺した。ローブが破れ、瘴気が漏れ出す!

 怪異は囀るのをやめた。その姿がひと回り大きくなり、10本のメスを滅茶苦茶に振り回した!


「……メフィストフェレス、囲えהמצור!」


 伸びた爪脚が怪異を包囲し、小さなドーム状に包み込む。そのまま圧縮し、ローブをずたずたに引き裂いた!

 漏れた瘴気が空間を歪ませ、怪異は奇妙な音を立てて消える。数秒の猶予の後、空から降り注ぐように無数のメスが!


「これで終わりだ。護れשומר!」


 ついに全身を露わにした巨大な蜘蛛が、ジャレドと紳士を囲むように脚を伸ばす。傘代わりになっているのだ。降り注ぐメスの雨を防ぎ切り、紫の粒子が周辺に蔓延する!


 ジャレドは安心感すら覚えていた。初めて目撃した時はおぞましさを覚えていた蜘蛛の姿が、これほどまでに頼れるとは。魔煙と同時に空中で霧散していくメスを眺めながら、彼は安心と同時に自らの贖罪を果たせなかったことへの罪悪感を覚えてしまった。


「ありがとうございます。でも、何で助けたんですか……?」

「……責任から土壇場で逃げるような人間をここで消費するのは、あまり良い策ではないですから。どちらにせよ、これで貴方は地獄行きだ。せいぜいそれまでは震えて生きる事ですね」


 罪悪感を抱えて生きろ。ジャレドは紳士の言葉をそう解釈し、暗澹たる思いを抱えたまま礼を言う。魔煙はとうに晴れていた。

 これからは、また地獄のような日々が続いていくのだろう。変死事件は噂のまま立ち消え、ジャレドは贖罪すらできずに野垂れ死ぬ。死後の安寧さえ約束されずに、地獄の炎に焼かれるのだ。

 あの時、刃に倒れておけば……と脳内で反芻し、ジャレドは頭を振る。結局、それも満足にできていないではないか。


 三日月は何も変わらずに空に鎮座している。それが、ジャレドにはとても眩く見えた。これが救いなのかはわからない。ただ、彼は今夜人生を終えることを否定されたのだ。


 煙が晴れ、街灯に次々火がともっていく。夜はまだ長い。

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