第5話

5.


 水色くんとアサゲが邂逅したのは夏休みが終わり、漂いだした秋の風が建物に翳を忍び込ませる十月に入ってすぐのことだった。四阿に行くと、山の方の桟橋に括りつけられた数隻のアヒルボートが波に揺られ、寂しそうにギシギシ軋んでいるのが見えた。


 私が学校へ行った帰りに四阿に寄ると、水色くんが頬杖をついて湖の向こうの山並みに思いを馳せているところだった。衣替わりを果たし、夏の間着てた半袖が乾いた長袖のボタンシャツになっていた。


「ねえ、どういうこと!」私は荷物を机に置くと怒鳴った。「あなた、昨日も夜の間中、私んちの前に座ってたでしょう! 気味悪いっつってんのよ!」


「ああ……」水色くんは沈んだ声を漏らした。その瞳の下にはうっすらと黒ずんだ線があった。「すみません、エネルギーが足りなくて」


「エネルギー?」


「葉が散るために燃えるような色になる、虫たちが死んでいく、酒場がドアを閉めるようになる、自然が終わっていく、土に還り、また新しい生命の息吹への準備を始める。よく分かってます、循環する必然性、始まるために終わっていく、素晴らしいことです。しかし……、この季節、僕はいつも自分のちっぽけさに落ち込んでしまうのです」


「なに、水色くんも一介の人間として、受験とか悩み事があるわけ」


「ええ、一介の人間。その通りです、スミレ。僕は一介の人間でしかないのです、この広大な宇宙の中でね。僕は彗星になれるんだろうか、そのことばっかり考えているんです」


「私を盗み見て楽しい?」


「そりゃあもう!」


「例えば?」私はイライラを表に出さないようにして言った。


 訊かれると彼は物憂げに語り始めたが、その調子は耳鳴りのように次第に高まっていった。


「例えば! 例を挙げればキリがありません。それはすなわち生命体としてのスミレ、ダイナミズムとしての全体性に関わっているということです。しかしその勿体なさを捨象して一例を簡明に言うなれば、そのからだの曲線、それは誰が見てとっても美しいものです。蕾の可能性を含んだ小さい胸にあばらが控えめに、もとい攻撃性を潜ませながらも待ちかまえ、その隙間、百合のようにそよぐ肌の合間を縫って、谷に向かう坂道を下るごとくくびれに向かって降りゆけば、それは、果樹園で花が綻んでいるかの形で未来を孕んだ腰へとわれわれを心躍る冒険をもってしていざなうのです。ああ、なんという悲哀! 僕はその運命の力に抗う術を持ち合わせていません、ミス……、ミス神田川、あるいはスミレ、できることなら僕はその中で泳ぎたい。君の水脈に僕を解き放ってください、僕は、君の流れに身を任せていたいのです!」


 私は頭を抱えた。どうしよう、と思った。気持ち悪さに声が出なかった。


「僕は神田川家の前でうずくまり、空を眺めていました。より運命に近づきたかったのです。烏滸がましさもいっとき忘れて、自分を操る糸の主人に近づきたくなったのです……」


 そのときアサゲが泣きそうな顔を俯かせて現れた。このときほど、この小さな威張りやがメシアの影を纏ったことはない。とぼとぼとした足取りの彼は、水色くんに気づくと戸惑ったように会釈をして、荷物を肩から降ろして置いた。


 水色くんはそれまで発散させていた自分の思いを胸の奥に戻して、肩を竦めると、アサゲをいたわる表情を見せた。


「どうしたんですか少年、なにか悪いものでも食べましたか?」


 アサゲは水色くんを無視すると、私に沈んだ思いを吐露した。


「ねえ、僕って普通なのかな」


「何かあったの?」


 私が訊くとアサゲは苦虫を噛み潰したような顔をした。


「病院に連れていかれたんだ。父さんに言われて、母さんの車で行った。母さんとメガネの先生は既に顔馴染みみたいで、僕のことを相談してた。それで先生になんでそんなことしたのって訊かれた」


「何したのよ」


 アサゲは親を困らせることを常にしていたので、私はさもあらんといった心持ちだった。


「マリナが全治四週間になったから」


「マリナ?」


「クラスメイトさ。陰気でヒマワリちゃんに悪戯するんだ。多分、羨ましいんじゃないかな。自分は明るくなれないから。だからヒマワリちゃんの給食袋に虫を忍ばせたり、教科書に人目を盗んで落書きしたりするんだ。でもヒマワリちゃんは誰かを疑ったり責めたりしたくないから黙ってた。辺りをひとりで気にするようになった。僕は彼女の持つ輝きがくすんでいくのに耐えられなかった」


「殴ったりでもしたの?」私には簡単にその光景をイメージできる。


「いや……」彼は地面の石をしばらく見つめてから気まずそうに口を開いた。「突き落としたんだ、教室のベランダから。マリナは奇蹟的に右足の骨折で済んだ」


「あらら、それは災難ね」


「それで、少年はなんて答えたんだい? 先生に」水色くんが訊いた。


「別にきまぐれですって言った。そしたら先生も母さんも顔を見合わせて黙ってしまった。僕は何も言わなかった。言う必要がないと思ったからだ。だって伝わるわけがないんだもの。彼らみたいな凡人に僕の気持ちなんかはさ。それに間違いはないと思うんだ。今でも思ってる。ところで、沈黙を破ったのは母さんだった。その意図も意志も分かってはいたけれど、予想できてたはずなんだけど、……僕はそれで妙に落ち込んじゃった」


「なんて言ったの?」


「うちの子は普通じゃないんでしょうかって」


 アサゲは俯いた。私はなるほどと思った。彼はその小さな手を握ったり開いたりしながら顔を上げて言った。「ねえ、普通ってなに?」


「普通とは疑わないことですよ」水色くんが割り込むようにして答えた。あまりにも堂々とした物言いに私はすこし面喰った。湖の上を大きな鷲が飛び過ぎ、水面に映ったその影と共に山の向こうへ消えた。


「ねえ、普通ってなに?」アサゲが水色くんを無視して私に再度訊ねた。


「さあね」私は肩を竦めてみせた。


 その夜、私は水色くんの部屋で二人で夕食をとり、アサゲのことをいくらか話した。食器を洗い、白いタオルで手を拭うと彼はベッドに腰掛け、近くに置かれた週刊誌を一か所に寄せた。彼の衣服以外の所有物は水色でないものが多く存在し、部屋のものはむしろ白を基調としていた。しかし帽子や夏のいっときにかけていたサングラスでさえ、濃い縹色に彩られていたのはいかがなものかと思われる。そんなことを思い起こしながら、私はぼんやりとテレビを見ていた。二流の脚本の、茶の間の空気を保つためだけに存在するサスペンスドラマだ。殺人事件と日常シーンと捜査状況、それらが繰り返されて輪をつくり、錆びついた三位一体をなしている。


「普通っていうのは」水色くんは私と同じく画面に目を向けながら呟いた。「自分の中に自分を見つけ出すことに他ならない」


「水色くんにもあったの? そういうときが」


 彼は感慨に耽るためいきを吐いた。


「ええ、ありましたとも、ミス神田川。僕は義務教育と銘打った監視機関に押し込められていた頃、悩みの水を継ぎ足される植木鉢のようでした。根が悩みを吸いきって、水が涸れそうになると、不意に継ぎ足されるんです。全く困ったものでした。でも得てしてそういうものでしょう? しかし幼いときには視野狭窄に陥ることも道理です。それは誰もが通る道でありながら、足跡をつけるのは自分だけというパラドキシカルな時期なのですね」


「うん」私はあまり自分のことを考えたくなかった。過去はもう過ぎ去ったこととして、遠い彼方に沈んでいて欲しかった。


 そのまま私がテレビから目を逸らせずにいると、彼はその態度を表明として受け取ったようで自らの話を続けた。


「僕は昔から犬みたいな単純さで人情といったものに飢えていたんです。本で読んで、ドラマを見て、集団をつくる他の子供らの様子を窺って、憧れていたんです。つまり友達や仲間といったものにね。だから中学のある時点まで、僕は当たり障りない笑顔を顔に貼りつかせて、周りとの協調を図っていた。嫌われないようにするために。それがベストな方策だと信じ込んでいたんですね。けれどそんなもので築いた関係など、時が経てば果敢なく、そしてあえなく崩れ去るものでした。それに気がついた僕は、それからは心の内側を曝け出して、貪欲に真なる確かな絆を繋ごうとしたんです。しかし……」彼は私の差し入れしたコーラの缶をぷしゅっと開けて、喉を鳴らしてそれを飲んだ。「それもうまくはいかなかった。今度は露骨に嫌な顔をされるだけになった。所詮僕の正体は小汚いハイエナだってことをみんなは分かっていたんでしょう。哀れなものです」


 アルミ缶の中で炭酸がパチパチと音を立てていた。窓の外側に大きな蛾がぴたっととまって模様の一部と化していた。


「それに答えは与えられたの?」


「ええ……」彼は目を細めて壁の向こうを凝視した。「ええ! そうですとも、ミス神田川! それから僕は近くの人たちをよく見るようになりました。そして見つけたんです。光りの源泉を。僕は好きな人を発見したんです。それはむしろその人から僕に見ることをようやく許可されたと言った方が正しいのかもしれません。それはずっと前から僕の傍にあったのですから。とにかく僕はそれに夢中になったのです。日がな一日、何度も彼女の容姿を眺め、頭の中で彼女の心の形を確かめました」


 おそらくそれは歯止めの効かないものだったろうと私は思った。積もり積もった感情の濁流が、とめどない洪水のごとく彼から溢れ出ていたのだろう。


「声はかけたの?」


「ええ、そうです。僕は何度も彼女にアプローチを試みました。手紙をしたため、彼女の上履きの汚れを落とし、偶然訪れた彗星の神秘性を説きました。僕らはここから始まると、一切はこのときを待っていたのだと。……まあでもそれもうまくはいきませんでした」


「そうでしょうね」当たり前だ。


「彼女と幼馴染らしい男からやめろと脅され、彼女自身も僕の影を見ると身を隠すようになりました。ジ・エンドです」


 彼は赤く塗られた缶を手の中で転がした。「そこで僕は一度死にました。自宅から離れた高校に進学し、ぶ厚い灰色の日常がまた僕を覆いました。……ところでこの部屋からは光りが見えるんです」


 私は口を開かず、彼を見つめた。嫌な予感が背筋を駆けた。


「僕は二度目の生誕を果たしました! 運命が僕にまた生きることを赦したのです!」


 テレビの中ではサスペンスが終わり、かしこまったスーツの男が地方のニュースを読みあげていた。


「――本日、Y県で起きた殺傷事件の容疑者とされる皐月藍さん(仮名)が逮捕されました。皐月さんは同級生二人を校舎裏におびき寄せ、刃物で切りつけ、一人を殺害し、もう一人に重傷を負わせた事件の主犯格であると見られ、警察では友人関係のもつれと見て捜査を進めていましたが、皐月さんは容疑を概ね事実と認め、『仕方なかった、私が私であることが悪い』などと供述している模様です」


 容疑者の写真を見て、私は驚いた。


「あっ、私この子知ってる。多分クラスの子だよ」


 それはいつかバスの後ろの席で私に声をかけた痩せ型の女の子だった。二学期に入ってから一度だけ私は登校したが、そのときには既に彼女は教室からいなくなっていて、名前を確かめることもできなかったのである。


「彼女は運命を受け止められなかったんでしょうね。もがくことで余計に意図しない渦に巻き込まれてしまう」


 友達になりたかったな、と私は思った。違う場所で会っていたら、あるいはもっと早い時期であったなら、私たちは良好な関係を築き、意気投合することができたかもしれない。土手に寝転んで星の数を数えて、ちょっとした愚痴だって零せたかもしれない。そして、そうではなかったから私は忘れていくことだろう。私たちは何かを得て、何かを失って、二度とない時間の波を掻き分けていく。注意深くなければ私を包む水温や、その感触でさえ、私は知ることができないだろう。私は賢くなれるだろうか。もっと私を未来に連れていく波の流動を感じられるようになるだろうか。そのときはいつ訪れるのだろうか、本当に訪れてくれるのだろうか……。


 いつの間にか全国ニュースも過ぎ去って、気象情報が流れ始めている。厚い雲が北海道の方へ流れていって、明日は全国的に秋晴れとなるらしい。


 夜は、私の悩みなどお構いなしに更けてゆき、街を永遠の闇に溺れさせる。




   ***




 時々ふと我に帰るようにして、私はどうして閉じこもっているんだろうと考えることがある。私は心の中に棲む。けれどここにはなにもない。過去も未来も質屋に売り払ってしまい、既に私の元にはない。ここは廃ビルの一室のように空虚で、たまに隙間風が通り抜ける以外には何も生活を脅かすものはない。うらぶれたベッドの前には埃を被った机と椅子があり、水差しに入れた一輪の白百合はそのまま化石になっている。私が机上をなぞってみても埃は指先に掬えない。なぜなら私には実体がない。この部屋と同様に私には何の力もないのだ。時の止まった殺風景の部屋があって、透明になった私がいて、それだけだ。それだけが現在の性質で、それ以外には何も要らない。手に入らないわけではない。必要がない。外側でどう感情を繕ったとしても、心の底では変わらない。私の心は変われない。私は干からびたベッドに横たわり、壁紙が剥がれかけた天井を見る。私はひどく落ち込んで、それからすこし安心する。




 永い時間そうしている。過去も未来もないはずのその空間に声が湧きあがる。それはシャボン玉のようにおぼろげで、何の景色とでも溶け合う淡い雰囲気を醸している。誰の声だろう。


 ……君のいる窓を見ると安心するんだ。君は夜までよく起きているだろう。誰もいなくなった夜に光りを見つけることで、僕はなにか確かなものを得られるような気がするんだ……。


 誰の声だろう、と私は薄ぼんやりと思う。それは聞き憶えがある。


 私はふと心の底から身を起こして、そして周りを見回して、目を外界の光景に馴染ませている間に、全てを忘れてしまっている。



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