第3話

3.


 水色くんの部屋に入ったあの日以来、私は彼と普通に挨拶をするようになった。とはいっても、軒先を箒で掃いていたり、買い物先の果物屋で偶然会ったりしたとき、彼はわざわざ私に声をかけてくれたので、私もそれに返すだけだ。そんなことが重なっていくと、私の緊張もほぐれ、玄関先でいくらか立ち話をしたり、彼の部屋でコーヒーを飲んだりすることも多くなった。しかし彼が覗くことをやめる気配はないので、窓のカーテンは閉めたままにしておいた。誰の視線か分かってはいても、部屋にそれが貫いていることは、私をひどく不安にさせるのだった。今はその視線が害のないものであっても、いつか悪意を纏って私を刺し殺すのではないかと気が気ではなくなってしまうのだった。そうなってしまえば私は毛布の中で丸くなって凍え、もう誰も信用できなくなるだろう、だから、そうならないように私はカーテンを閉める。


 七月に入った頃のある日、途切れ途切れになってきた梅雨が夕方前にあがったことがあった。雨の止んだ街路は押し込められた熱気が徐々に空へと還っていくようで、爽やかな風がスカートの裾を揺らした。夜の透明な水色に吸い込まれていく暮れの薄桃色の空が濡れた地上に投射されて、そこに信号機の波長や、自動車のライトが重なって、通りの紫陽花の葉や、塀の汚れや、アスファルトやなんかのあらゆるものが鮮やかな色に染まり、それぞれ綺麗な色彩に光っていた。それは見る者の心の汚れをぼかし、凝り固まった存在ですらもどこかへ誘う風とひと繋がりの世界の部分であるという風に、気を唆しだすので、私は手のひらを合わせて擦ってここにいることを確かめた。水色くんが彼の家族について語ったのはその日の夜のことであった。


「すべてには色があるんですよ、スミレ」私の話を聞くと、彼は言った。「形の持たない物事だってあらゆることに色は備わっているんです。雨のあがった景色なんかを見ると僕はそれを思い起こしますね」


「例えば?」


「例えば、そうですね……、本のページの隙間に潜む砂のような黄金、熟した木の実の橙、校舎の開かずのトイレは澱んだ青、運動会の真っ赤な赤、雀の囀る黄色い愛、喧騒に紛れるためいきのとても薄いグレー」


「金魚の死んだ水槽は?」


「透き通った青と淡いピンクのグラデーション」


 窓の外は真っ暗な夜だ。そこには夜独特の何かが這いずりまわるのを押し殺す静寂が満ちて広がっている。


「のっぺりとした白と黒が混ざり合わず、同居するときもあるのかな」


 私はぽつりと呟いた。


「まあ、あるでしょうね。世界にはなんだってあるのだから」


「お父さんがいなくなったとき、私はそんな感じだったな。あなたは知ってるかもしれないけれど、私はいまひとりで住んでるの。お父さんは単身赴任でずっと昔に東京に行っててそれっきり。お母さんは倒れて病院に連れ込まれてから、肺癌と分かって帰ってくることもないってわけ。でもお母さんはまだ近くにいるって分かるからいいの。けれど、私が小学生の頃、お父さんが家を出てった日はなんだか印象に強く残ってるんだわ。あれはなんだか空と地上が真っ黒と真っ白でグチャグチャになった日だった。玄関のドアをよく覚えてる。彼がね、出てったとき、私は何でもない出勤だと思ってたの。夜には帰ってくるってね。けれど、それは最期に見た彼の姿だった。彼が出ていって、玄関のドアが閉まって、真っ黒と真っ白な世界がぐるぐる混ざり合って閉ざされて、私は永遠に開かないくすんだ部屋に閉じ込められてしまったのね」


 彼は網戸の外の空を見やりながら私の話を黙って聞いていた。どこかで季節を先取った風鈴が鳴っている。私は我に返ると、沈黙を誤魔化すように彼に訊いた。


「あ、そうだ。水色くんの家族はどこに住んでるの?」


「僕は父親、母親と姉の四人家族です」


「近くにいるの?」


「さあ」彼は手を振った。「僕に家族はいないんです」


「どういうこと?」


「それは僕にも分かりません。けれどあまり気にはなりません。父親も母親も僕の位置を常に奪おうと目論んでいたから。しかし人は星座の布置のようなもので誰かが誰かを奪うことなんてできない。誰も誰にも触れられない。だから僕は彼らのことについてなにも知らないんです」


「郷愁はないの?」


「スミレはあるんですか、そういうこと」


「たまにね。ふっとたまに。それだけ」


「僕は気づいていないだけかもしれない、あまりないです。そういうことは。脳の俎上にすら持ちあがらないんです。けれど僕はそれでいいと思っています」


「どうして?」私が訊くと彼は気持ちの悪い笑顔を満面にした。


「だってスミレがいるから。僕の心はそれで充たされ、他には何も必要としてないんです。隅の埃すら残らないほどすっきりしてるんです。僕は運命のあらすじに沿って、あなたに出会い、愛を知った。その輪郭を確かめるだけで僕は満足だし、それはいつまでも辿り終わることはない蜘蛛の糸なのです」


「けれど窓は覗かないで、不快だから」




   ***




 水色くんはたまに街の方へふらっと出ていくだけでほとんど暇なものだったから彼は私を誘って、湖の方へ歩いていくことも習慣になっていった。学校へ行くバス停を抜けて、建物がなくなって田園地帯が視界に広がり始める道をまっすぐ歩むと、丁度湖のすぐそばにさびれた四阿が設けられている場所があって、私たちはしばしばそこに赴いては、思い思いにくつろぐのだった。


 私は決して学校に行くことを諦めて、無為な時間を過ごそうと決め込んでいたわけではない。それまでと同じように、ときにはバスに乗って朝から高校で一介の生徒として朝礼に出て授業を受けたし、できるだけそうしようと努めていた。しかし学校に行けば必ず眩暈がして、吐き気が込み上げてくるので、一週間を通して通えることは稀だった。先生も心配して声をかけてくれたり、保健室登校でもいいからと勧めてくれたりしたけれど、どうしてもバスに乗れない日が、学校前で下車できない日が、雨が止まない日が、うるさい音が響き渡ってかなわない日が、あるのだった。布団の中やあるいはリビングのテレビの前で、そういったのをやりすごし、焼け石に水な勉強を机の上で広げてみたり、挨拶の練習を口ずさんでみる合間に、気分転換に家の前を掃いたり、水色くんと喋って、湖の方にも出かけたりした。そんな具合だった。


 朝から精神が参る日もある。一年には恐ろしいことに三百六十五もの日が縦一列にずらっと整列していて、それにひとつずつ体当たりしていかないと時間は過ぎていってはくれないのだ。ゆえにからだがぐったりしてしまうこともある。心が毎日の脅威にやられそうになることもある。当たり前のことだ。朝起きて、布団に蹲り、昼過ぎになってようやく精神の危機の峠を越え、ゼリー状のなにかを飲んだり宛てのない手紙を頭の中でしたためたりしてから、外へ出た。曇りの日だと分かっていた。曇りは人類が調子に乗りすぎないようにネガティブを注いで、バランスを取る日なのである。私はふらふらと行く先を不明瞭な彼方に求め、それでも最終的には引き寄せられるように湖の方へと、足を向けていた。夕飯の買い物へ向かう主婦や犬の散歩をしている人たちが道を歩いていて、視線に目を伏せながら私は薄い影を引き摺って足を運んでいた。しばらくすると、どこからか訪(おとな)った影が私のそれと重なった。私が止まるとそれも止まった。影が二人分、路上に落ちて黙っていた。私が歩くと、それも歩いた。幻覚かと思った。しかしそれは消えなかった。


 幽霊かもしれない、そう思うと、振り返るのも怖くなって、私は走りだした。私の影は走りだし、余分な影のスピードも速くなって、私の後ろについてきた。道行く人はこちらを見て、騒いだりしなかった。私はいきせき切って、私がそもそも幽霊なんじゃないかと思った。


 煙草屋の角を曲がった辺りで、私は膝に手を当てて立ち止まった。登校拒否者の体力などたかが知れていた。しかも私は華奢な女子高生だった。もうどうでもいいやと振り返ると、同じく息を荒げた子供がそこにいた。黄色い帽子を被っているし、ランドセルも黒かったし、背も小さかったし、おそらくそれは小学生の子供だった。私は子供が嫌いだった。


 私はへろへろした足取りで歩き出した。子供も私の後ろに歩き出した。


「なに?」とうとう私は半ギレに振り返った。


 子供は黙って俯いている。


 私は歩いた。子供も歩いた。


「なんだっていうの!」発狂しそうになって私は叫んだ。


 私は気持ちに蹴りをつけて屈みこみ、幽霊みたいな気味の悪い子供の帽子のつばをつまみあげて、目が合うようにして怒鳴った。


「なんでついてくるの?」


 その子供の瞳は大きく、瞳孔が開き切っているようで実はこいつは本当に死霊なんじゃないかと私は些か怖気づいた。しかし最大の賞賛で迎えられるべき覚悟を持って、身じろぎせずにいると、子供は小さな声を出した。


「……家族だから」


「はあ?」私は立ち上がった。地団駄を踏む勢いである。「誰が誰の家族だって言うのよ、それでどうして私についてくんの!」


 意味分かんない、と悪態をつきそうになったとき、子供はこちらを見上げて今度ははっきりとした声を出した。声変わり前の高い、それでいて馬鹿そうな声だ。


「僕があなたの家族だから!」


 私はその一言によってひどく戸惑った。


 私はいつこの子の家族になったのだろう。誰に決められたんだ? 父親か、母親か? どいつだ、私に黙って家族をつくりやがったのは! ただじゃおかねえぞ、この脳無し野郎! お前みたいな愚鈍な屑が何も考えずにバンバン子供なんかつくるから、私みたいに不幸にも年わずかながら路頭に迷う人間が発生するんだろうが! 快楽に流されないでちゃんと生きろ、豚野郎ども!


 しかし、私の流麗で至極もっともな意見の渦に、雷のごとく疑念が一閃貫いた。


 もしかして……、私が家族をつくったのだろうか。この醜いガキは私の子供ではあるまいか。私はいつ懐胎してしまったんだろう。誰と? いや何故? そしてどうやって? 私は気づかないうちに取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、気づかないふりをしてるだけなんじゃないか、いつだってそうだったじゃないか、自分に分の悪い情報があれば決まって蓋をして他人事の棚に仕舞いこむ、そうだ……、私は他人のことを貶しながらその癖自分では隠れて罪業を重ねているのではないか、最悪なのはいつだって自分なのではないか、死んだ方がいい、そう、死んだ方がいい……、そういった自責の念がスモッグみたいに湧き起こり、私の姿を覆い隠すほどに膨らんでいった。そう思うと、もうそうとしか思えないのだった。


 な、なんてことだろう……、私がこんな奴の母親だなんて……。


 私が絶句していると、子供は今にも泣きそうな表情で愚痴るように呟いた。


「……母さんが言ってたから」


「お、お母さん? それって誰のこと?」


「母さんがね、あんたはもう家族じゃないって言ってたから、……だから僕はもう戻らないんだ、もう家族じゃないんだ」


 私はそこでやっとのこと状況を飲み込んだ。


 天国に駆け昇る心地がからだを満たして行くのが分かる。


「あ、ああ、そうね。母親に怒られたのね、それで行く宛てもなく浮浪者みたいに私に付き纏っているのね。私がそんな穢れたことするわけないもんね! いや、わかってたんだ本当はね!」


 子供はひとりではしゃぐ私を不安げに見つめた。


「な、なに、そんな目で見ないでよ。ぶっ飛ばすよ!」と怒鳴っても子供は黙って私を見つめていた。顔を上げて見渡すと、紛れもなく周囲のひとたちの視線は私に注がれていた。私が見ると、彼らは目を伏せた。背筋が凍結してバキバキと鳴る。砕けそうだ。


 私が踵を返して歩き出すと、子供もその後に続いた。


 私は声のトーンを抑えて、子供に言う。


「で、なにしたの? なにして君は怒られたわけ?」


「……花壇」彼はぼそっと答えた。


「ああ?」


 私が叫ぶと、彼は今度ははっきりした声で言った。


「花壇、踏みならしたんだ。母さんが小まめにインゲンやらミニトマトやら栽培してるとこを」


「そりゃ怒るでしょ、馬鹿じゃないの」


「でも仕方なかったんだよ」


「それで、なんでついてくんの?」


「仕方ないんだよ」


 湖の近くの四阿まで来ると、私たちはベンチに並んで座った。湖は曇天に呼応するように濁って、ゆっくりと波を掻き混ぜている。木々は黙って枝を静止させたまま、熱気を孕んだ軟風は不安をひたにくすぶらせていた。


 彼は夜が来るまでそこにいて、湖の向こうや微かな風の行方を眺めていた。


「名前はあるの?」私は訊いた。


「つけてもいいよ」彼は答えた。


「じゃあアサゲね」


 私は適当に言った。彼は頷いて家へと帰っていった。



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