第2話

2.


 その人はプールみたいに透き通った淡い水色のシャツを着ていた。彼はよく私の家を覗いていたので、私はその窓のカーテンを閉め切った。




 私はそれほど大きくない街の外れで、大きな湖の近くに住んでいた。そこはぎりぎりのところで市内にあるといった感じで、もっと駅から離れれば人気がめっきりなくなり、田畑や空き地が増え、開発に着手されていないのが明らかな風情が漂っていることになる。その意味で私が住むのはほとんど文化閾の境界といってもよかった。小中の学校は割合近くにあったが、高校はそれよりも遠かった。駅の近くにある高校に通うためには、バスに乗って街の中心の方へと一時間ほど揺られなければならなかった。そうしていると、住宅が増え、商店街があり、ショーウインドウが通りを映しているのが見え、行き交う車の騒音がひどくなり、イヤホンをつけてる人々の群れが景色を占めるようになる。そして高校につけば、仲良くできなかった人たちが今日も生活をしている。私はそもそも遅刻もすれば、たまに体調が怠いと欠席もしたので、図らずも目立ってしまい、クラスの貴族たちからちょっかいやからかいを受けることが多くなって、今ではほとんど学校には行かなくなっていた。


 そんなわけで学校を休んで、その日も私はテレビを見ていた。最近のニュースが紹介されて、タレントがさわやかに微笑んだりしちゃってて、私みたいだと思う。作り笑いが醜くて、なんだか居心地が悪くなる。海外のテロのニュースが入る。みんなが心を伏せて、口を尖らせ、平和を謳う。そして次のニュース。みんなが笑って、すべてを忘れる。見たくないものは見えないもの。嫌になって、電源を切る。


 昼下がりになって、私が家の前を箒で掃除していた。閑静な街路に太陽が陽だまりをつくってる。すると、「精が出ますね」と声がした。振り返ると、大学生くらいの痩せた男が立っていた。水色くんだ。彼はプールのような淡い水色のシャツを着て、薄い青のジーンズを履いていた。髪は黒く、肩くらいまであり、表情の起伏は少ない。いつもそんな格好をしているので、私は心の中で勝手に水色くんと呼んでいた。彼は言った。


「箒で道を掃く、それは素晴らしいことですね。誰もが道に塵を散らし、そしてそれに気づかず去っていく。あなたは違う。彼らとは違った心を持っていて、こう実際にやっている。なかなかできないことです。ああ、噴水が欲しいですね。噴水から湧き出る水は素晴らしい。光を含んで、星の砂のようにきらめくんです」


 私は箒を持ち直すと、背を向けて家に帰って、ドアに鍵をかけた。彼は隣のアパートに住んでいたが、それ以外は素性の知れない男だった。たまに声をかけられたが、私は相手にしたことはない。危ない人には近寄らない方がいいとテレビでいつも言っている。


 そんなことはどうだっていいんだけど、二階の自室でぼんやりとしていると、張り出した壁が迫り来るようで気分は重く私を苦しめた。あらゆるものが私を押し潰そうとしていた。机も、本棚も、カーテンも、外の天気も、仮面を被った学校の奴らも、駅の無表情な人間も、コンビニの店員も、私の側にはおらず、一生が終わるまで私を追い立て、責め苛み、踏み躙って、それは変わることのないことだ。「ここから逃げ出したい」と私は思わずにはいられない。


 偶然近くにあった果物ナイフを手にとって、その銀に輝く刃を見ていると、心が霧のようにゆらめきだして、思いが象られて脳を支配した。何ももう変わらないけれど、それは嫌だ。明日が昨日になるように、私に安らぎが訪れますように。カモメが海を渡るように、私にもうひとつの世界がやってきますように。どこまで行ったってそんなの変わらないことだと分かってる。過去がそれを証明している。あらゆることはうまくいかず、私の本当の望みを拒んできた。これからもそうだ、きっと。けれど私は湖を越えて、山々を越えて、また別の地平を夢見ている。そこには人がいて、花が咲き、天気が移ろう。街を出たい。違う場所に行きたい。違う私になりたい。刃先を手のひらに当てる。ひんやりして、血が流れる。それは赤い。


 時計の音が耳に入った。私は私になって、遠くのスピーカーからチャイムが聞こえる。そうして一日が沈んでから分かる。


 その翌日、私は水色くんに告白された。




   ***




 笑ってしまう話だ。その日も私は昨日を引き摺って、ぼんやりと家を出た。彼は電柱に寄りかかって立っていて、いきなり私に近づいて、頭を垂れた。


「君を愛している」


 頭のおかしい奴だった。私は怪訝な表情をした。


「どういうこと?」


「どうって?」


「なにそれって意味」


「愛の意味? それは哲学的諸問題を含んでいる……」


 彼は腕を組んで考えだした。私は煩わしくなって、突き放すように言った。それは私がこれまで多くの場面でそうしてしまうように、そしてこれからもそうするように。


「ねえ、気持ち悪いんだけど。つきまとわないでくれる? 窓から私の家をじろじろ見てることだって知ってるんだからね」


「僕は君を愛してるんですよ」彼は戸惑いを隠せないといった表情だったが、続けた。「愛しているものには会いたくなるものでしょう。そうじゃないですか? 愛は喜ばしいものです、それだけで尊ばれるものです。僕は、そう学んできた。そしてこれからもそれは変わりない信念として僕の中にあり続ける」


「ふうん、じゃあ死ねば?」


「心中ですか?」


「な、なんで一緒に私が死なないといけないのよっ! バカじゃないの!」


「じゃあどうしたらいいんですか」


「最悪ね。あなたの名前は?」


「ロジャー・スミス」


 そうして水色くんと私は改めて出会ったのだった。過去を水に流した上での第一の歴史的な邂逅だった。私はそのとき人生についての一切の希望を押し流してしまうことに、後悔がなかった。だから隣のアパートの彼の部屋に誘われたことにも断る術を持ち合わせていなかった。彼の家は錆びた階段を上ったとこの二階にあって、ユニットバスがついたワンルームだった。玄関に入ると、よく手入れされたキッチンがすぐ横に設置されていて、換気扇がその上でカラカラと音を立てていた。床には雑誌が散らかり、布団が畳まれ、アコースティックギターが壁に掛けられていた。奥の窓は私の家に向いている。


 彼に勧められるままに座布団に腰を下ろして、私は訊いた。


「ひとりで住んでるの?」


「そう、僕はひとりが好きだから」


「じゃあ私、必要ないじゃん」


「どうして?」彼は純粋な眼差しを向けてきて、私はたじろいでしまう。


「どうしてって……、それは意味がないから……、必要がないから? それとも……」私の声は言い訳をするように次第に小さくなっていった。「要らない子だから……、いない方がいいから……、邪魔者だから……」


「とんでもない!」彼は叫んで、誤解の霧を払うように手を振った。「とんでもないですよ! あなたが邪魔者だなんて。そんな気持ちはドブにでも捨てた方がいい。あるいは月曜日と木曜日の不燃ゴミ回収の日にでも出してしまえばいい」


 彼は冷蔵庫からペットボトルのコーヒーを取り出して、二つのグラスに注いで、ガムシロとミルクを入れて、片方を私に差し出した。鋭い陽射しが壁に模様を刻んでいた。カーテンレールにいくつかかかっているハンガーが掲げるシャツは全部同じ色だ。


「なんで同じ服ばっかりなの?」


 私がハンガーにかかっているものと彼の今着ているものを指し示すと、彼は初めて私の意図するところを理解できたようだった。


「確かに……似てるとは思いますが、ミス神田川。どれをとっても同等のものではありませんよ。これはアクア、あれはシアン、あれはウォーターブルー、そしてターコイズグリーンに、どちらかと言えば近いですね」


「私の名前はすみれ、神田川すみれ」私は諦めて言った。「どうして名前も知らないのに、好きとか言えるのか分かんないわ」


 しかし私の心のためいきは彼には見えていないようだった。彼は顔を輝かせて、コーヒーを一口啜ると目をきらめかせて言った。


「名前なんて、本質的なこととは一ミリも関係ないんですよ、スミレ」なぜ日本人なのに外国っぽい喋り方をするんだろうと変な不快感を覚える私に構わず彼は続ける。「愛ってものは、好きってことは、運命ってやつはビビッと分かるものです。こう網膜の内側を通って頭に直接ビビッとね。それに理屈やら言い訳やらを塗りたくって見えなくしてしまうのは、人間の悪い癖です。夏は暑いし、冬は寒く、風が吹けば風を感じる、それだけのことなんですよ。すなわち、僕にとってあなたは世界のすべて。オール・オブ・ザ・ワールド。地平を取り囲む真理であり、物事の本質、それなんです」


 彼は、私の顔をじいっと見つめた。私は気まずくなって、視線を逸らして曖昧に言った。


「じゃあ何をして遊ぼっか?」


「遊ぶ?」彼は首を傾げた。「僕はあなたが見れればそれでいいよ、ユーノー?」


 彼はそれ以来ほとんど喋らずにこにこしているだけだったので、コーヒーを飲み干すと私は彼の部屋を出た。彼は呼び留めなかった。まるで私に告白することだけが目的だったとでもいうように。


 私は郵便受けを見て、彼の名前を知った。ステッカーにはマジックで唐沢水人と書かれていた。私は正式に水色くんと呼ぶことにした。



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