あの夏の虚空に溶けて

夏祈

あの夏の虚空に溶けて

「外あっつ、まじで暑いな日本、なんだこれ」

 ソファで膝を抱えてテレビを見ていた昼、居候は玄関のドアを勢いよく開けて、そんな文句を言いながら部屋へ入ってきた。右手に提げたコンビニのビニール袋を乱暴に机に置き、居候の分際でクーラーの前を陣取る。

「おかえり」

「ただいま。──今日、予定何もないよな?」

「無いよ」

 彼は俺の返事を聞き、楽しそうにその顔に笑みを浮かべた。あぁ悪い顔だ。でもそんな表情をした時の彼のことは、残念ながら嫌いではない。

「じゃあ、はい。沖野も飲むだろ?」

 袋から出したビールの缶を一本、俺に差し出して笑う。仕方ない。これは、夏の休日の特権だ。

「当たり前じゃん」




 高山は、高校の同級生だった。雨の降り続く三月に、共に卒業した。俺は県内の大学に、彼は東京の大学に、それぞれ進学の決まっていた別れだった。卒業式を終えて素っ気なく帰路を歩き始めていた彼に、俺は『次の夏にまた会ってくれ』と言った。彼は微笑みながら返事をして、以来、毎度夏に会いに来てくれる。

 特に友人も多くなかった俺は、あの時は必死で彼を引き留める方法を考えていた。ここで彼を見送ってしまえば、彼はきっと、記憶の底からたまに掘り返して見返してみるただの思い出の一つになってしまうと思ったから。

 彼は夏の初めに帰ってきて、夏が終わる頃にいなくなる。大学卒業後は海外で働いているらしい。知っている名前の国だった。でももう思い出せない。彼は夏、俺に会うために日本に帰って来ては俺の家に居候をしていた。高校を卒業してから三度巡ってきた夏、すべて。テレビを見たり、外へふらりと出かけて行ったり、過ごし方は毎日違うけれど、ひたすらに彼は仕事をしない日々を謳歌していた。別に良いのだけれど、彼を一人家に置いて仕事に行く俺からすれば随分羨ましい限りである。



「昼から飲むの最高すぎる」

「だろ、感謝しろよ」

「お前毎日こんなことしてるのかよ」

「してねぇ」

 ケタケタと笑って、そうして彼は、一瞬遠くを見る。多分誰も気付かない。高山自身でさえも、気付いているのかわからない。

「映画観ようぜ映画、部屋暗くしてさ」

「……また? お前毎日観てるんじゃないの」

「まぁ、大体毎日かな」

 高山の提案で、カーテンを閉めて暗い部屋で映画を点けた。細い隙間から差し込む陽の光が彼の頬を照らしたが、彼はまるで気にも留めずひたすらに画面を見つめている。高山が選んだ映画は何度も地上波でやっていたものだからとうに見飽きてしまっていて、それでも彼は初めて見るかのように画面に齧りつく。ビールの缶を握る手に、力が籠っていくのを見た。彼は昔から映画が好きで、大学だってそういう系等の道に進むために上京していった、はず。彼の人生の詳細は知らない。今何をしているのかも。俺達は共に過ごしていた間、互いの人生を少し共有していただけだから。

 温くなり始めたビールを飲んで、画面を見る。その中で生きる人たちは眩しくて、俗に言う青春というものの真っ只中にいた。あぁ果たして、俺達の生きた時間は青春だったか否か。高校を卒業した先に、人生など無いのだと思っていた。大人になる道なんて本当は無くて、大人はこの世界に生まれた時から大人で、俺達子供は子供のまま終わっていくのだと。だからきっと、世の中の人間は必死にその瞬間を生きていくのだろうと。そんなわけはなく、とうに大人になってしまった。三十路と呼ばれる年齢になって、これまで積み重ねた年月と、これから積み重ねる年月に眩暈がする。高山も、俺も、あの高校生のままではいられなかった。嫌なことはアルコールで飲み下すことのできる年齢になって、将来落ち着く場所を考えるようにもなった。それでも何かになれるような淡い期待と、そんなはずはないのだという絶望。捨てきれない一度追った夢が、ごちゃ混ぜになって胸の中にずしりと在った。毎日嫌でも見ていた彼の顔は、気の遠くなるような、過ごしてしまえばあっという間な時間を過ごさなければ、会う口実も作れない。どうしようもなく、大人になった。大人の格好をしているだけの、子供でしかないだろうに。


 そういえばさ、と高山はぽつり呟く。

「俺、日本戻ろうかと思ってるんだよね」

 彼の目は相変わらず画面に釘付けのままで、こちらを見ようとしなかった。出来の悪いテストを隠す子供のようにも見えた。そうしてあの悲しい目をする。その瞳がどうしても嫌いだった。昔はしなかったはずなのだ、そんな目線。何もかもを諦め果てた、大人のような眼差し。

「──……いつ?」

「秋くらい」

 随分先の話だった。いや、俺達のこの約束に比べれば、随分現実的な話かもしれないけれど。

「だから多分さ、次の夏からもう、こうやって過ごせないと思う」

 結婚するんだ、俺。

 振り向きながら言った彼の目を、その時初めて見たような錯覚を覚えた。頭を殴られたような衝撃も、胸にすとんと落ちる納得した感情もあった。彼も、どこか遠い場所で彼の人生を生きているのだと、そう言われた気がした。

「そっか」

 わかっている。彼の人生に、己が図々しく場所を取れる期間は終わってしまった。いつの間にか画面を流れていたエンドロール。ソファから立ち上がり、ほんの少し残っていたビールを喉に流し込んで、カーテンを開けた。

「おめでとう」

 照れくさそうに笑う彼は、一瞬だけ遠くを向いて見せた。でもすぐにその焦点は戻ってきて、以降、二度としなかった。

「ありがとう」




 彼は俺の家から去る日、絶対に空港まで見送りをさせなかった。それは今回も例外ではなく。また次の夏に、と言おうとして、言えなかった。代わりに彼が、そう言った。一年かけてゆっくりと、ひとつの季節が巡る世界では、次の夏など遠い未来の話だった。俺が彼を引き留めたあの高校最後の夏の日が、もう十二年も前なのだ。次に会う日までに、俺も大人になれていれば良いのにと。そう願いながら、未だ諦めきれない夢の欠片を拾った。

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